「笑っていいとも!」事件メモ&タモリ名言・珍言集
「笑っていいとも!」事件メモ
1982年10月8日
放送5回目のテレフォンショッキングに出演した和田アキ子が翌日のゲストであるガッツ石松に電話をかけたところ、プライベートな電話だと勘違いしたガッツが「アッコさん、今度例のエロテープ(構成者註:裏ビデオのこと)貸してよ。凄いのあるんでしょ」と口走ってしまい、会場騒然となる。
1983年4月14日
テレフォンショッキングに出演した映画評論家の小森和子が翌日ゲストのイルカに電話する際、相手の電話番号を口に出してしまう放送事故が発生。翌日、登場したイルカは「おばちゃまのせいでイタズラ電話が殺到した」と苦笑していた。
1983年12月1日
テレフォンショッキングに演歌歌手の佳山明生が出演するはずだったが、タモリの呼び出しで登場したのは見知らぬ男。呆気にとられるタモリ。実はこの男、突如乱入した一般人で、すぐにスタッフに取り押さえられたが、会場は一時騒然となった。「この人が佳山明生さんかと思った」と困惑を隠せないタモリに、その後登場した本物の佳山明生もただ苦笑するしかなかった。
1984年2月14日
タモリがつねづね「嫌い」と公言していた小田和正が初めてテレフォンショッキングに出演。小田もタモリに嫌われていることは知っていた様子で、「レコード出されたんですって」というタモリのフリに「たぶん気に入らないと思いますよ」と苦笑交じりで返し、タモリも微妙な表情になるなど終始不穏な空気が漂う放送となった。
1984年4月23日
テレフォンショッキングに出演した泰葉が翌日のゲストと間違えて見ず知らずの一般人に電話をかけてしまい、タモリの「明日来てくれるかな?」の呼びかけを真に受けたその一般人が翌日、本当にやって来るというハプニングが発生。結局3日間にわたり一般人がゲストとして登場するという前代未聞の放送が続いた。
1984年6月22日
当時極度の不眠症を患い心神ともに弱り切っていた作家の有吉佐和子(放送の2ヶ月後に逝去)がテレフォンショッキングに登場。タモリ作詞による早稲田大学の応援歌「ザ・チャンス」を突然歌い上げるなどの「暴走」ぶりにレギュラー出演者の明石家さんまも乱入。なんとか有吉を帰そうとしたが、結局番組終了までゴタゴタが続き、この日の放送は「有吉佐和子いいともジャック事件」として後世まで伝わることとなった。ただし、伝聞ではさんまが有吉に対して「死ねババア!」と口にしたなど事実とは異なる部分が多く、同様の内容を著書『タモリ論』(新潮新書)のなかで記した作家の樋口毅宏が有吉の遺族から抗議を受け、謝罪する事態も勃発。実際にはこのときの「暴走」はすべて事前に決められていた演出であったというのが真実のようである。
1993年10月~94年3月
この間、ミュージシャンのローリー寺西(現ROLLY)が木曜日にレギュラー出演。奇抜なファッションやメイク、狂気を感じさせる言動でアルタの客席とお茶の間をしばしば凍りつかせた。なかでも自身が進行を務めるクイズコーナーの冒頭の一言(「奥さん、お宅の娘さん、いまセックスしてますよ」「テレビの前のよい子のみんな、お前を殺す!」など)は、毎回放送コードすれすれの過激さでタモリ以下共演者とスタッフを冷や冷やさせていた。
2001年7月30日
江頭2:50がゲスト出演したコーナー中、当時レギュラーだった脚本家の橋田壽賀子が「この人、トルコで捕まった人でしょ」などと自身の芸をことごとく遮るので、「俺はおまえが前から好きだった!」と突如橋田にキスを敢行。観客が絶叫するなか、共演者が江頭を羽交い絞めにし、番組はCMに突入。以後、江頭は10年以上にわたり「いいとも」を出入り禁止となる。
2003年6月4日
一般人の子供が将来の夢を絵に描いて披露するというコーナーで、登場した4歳の女の子がタモリに「お名前をどうぞ」とふられ、「キリンプロの○○です」と返答。タモリもレギュラーも一瞬なんのことかわからず困惑したが、共演者の男の子が「ママがキリンプロは言っちゃダメって言ってたでしょ」と発言したことで、出場者の子供たちが特定の事務所に所属していた子役タレントであったことが判明。タモリは「来週はどの事務所かな」とすかさず笑いに変えることでその場をフォローした。
2005年9月21日
テレフォンショッキングに山崎邦正が出演した回。トークの途中で突如、客席にいた男が「タモリさん、いいともが年内で終わるって聞いたんですけど、本当ですか?」と発言。タモリは「全然聞いてないよ」とクールに受け流したが、横にいた山崎邦正はただ呆然とするしかなかった。男は即時退場となり、CM明けには男の席にクマのぬいぐるみが。
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タモリ名言・珍言集
「やる気のある者は去れ」(「笑っていいとも!」より)
タモリのタレントとしてのスタンスを最もよく表している一言だろう。本当に「やる気」がないかどうかはともかくとして、タモリは作為や熱意を表に出すことを徹底的に嫌う傾向がある。タモリイッツクール。
「この番組は人生において1ミリの得にもならない」(「タモリ倶楽部」より)
自らの看板番組を指してこの発言。しかし、タモリが標榜する理想の番組こそはまさにこういう番組なのではないだろうか。意味や思想性を退けた先にみえる「無」の境地。タモリというタレントを読み解くカギがこの一言に隠されている。
「日本人というのはメジャーと常識で生活しているんですね」(「潮」1977年6月号より)
デビュー当時のタモリによる至言の一つ。「密室芸人」「アングラ芸人」と呼ばれ、メジャーとは最も遠いところにいたタモリならではの本質を突いた一言だが、興味深いのは彼がその後、「メジャーと常識」に対抗するのではなく、国民的タレント・司会者に転身することでその内側から中心軸を揺さぶり続けた点である。
「僕は、故郷を引きずっとるというのはひどくみっともないような感じがするんですよ」(福武書店刊『阿久悠とすばらしき仲間たち』より)
これもタモリのクールな横顔が垣間見える発言。「郷土愛」などというベタベタした日本人的人情はタモリの感性が徹底して嫌うところなのだ。この対談の前後には、九州愛まるだしの武田鉄矢をからかい気味に揶揄したり、「田舎の人情」を重視する永六輔に疑問を呈したりもしている。
「思想のない歌こそ素晴らしい。思想のある歌はゴミだ」(「タモリのオールナイトニッポン」より)
1970年代に若者たちの絶大な支持を得たさだまさしや小田和正といったニューミュージックの歌手たちをタモリが毛嫌いしているのは有名な話だが、その背後にはこのような感覚があった。こうした思想を叫ぶ音楽に対抗して、「オールナイトニッポン」では「思想のない音楽会」を開催していた時期もある。
「なんでああいうふうに詞に意味を持たせるんだろうね。人生・愛・青春――(略)人生なんて、なんで二十三、四の奴が正面切っていうのかね」(「今夜は最高!」より)
これもまた音楽に対するタモリの姿勢が垣間見える発言。恋だの愛だのをいい大人が一大事のように唄ったり、社会への異議申し立てをおこなったり、そういう「あつかましい」思想の表明をタモリのクールな感性は許さないのだ。
「(五木寛之について)いかんなぁ。あーゆーもんが文化人面してのさばられるとねえ……(略)あれはね、ちょっと殺さないかんのじゃない?」(「宝島」1983年5月号インタビューより)
デビュー間もない頃のタモリが敵視していた人物の一人に作家の五木寛之がいる。関係者の証言によると、福岡空港でスチュワーデスに「お客様は禁煙席になさいますか?」と訊かれた五木が「僕がタバコ吸わないの、君知らないの」と横柄な態度をとったところをタモリが目撃したことに端を発するらしい。
「(小森の)おばちゃまにセーラー服着せて犯してみたい」(世界文化社刊『タモリと賢女・美女・烈女』より)
タモリのロリコン性がうかがえる発言の一つか。恋多き女にして永遠の乙女でもある映画評論家・小森和子(通称・小森のおばちゃま)に対して、まさかのコスプレセックスを要求。これに応答した小森の「一度、タモリちゃんを密着取材しなくっちゃ」という一言もさすがだ。
「おいタモリ、おまえの番組に出てやる」(大橋巨泉を真似て)
いまや大橋巨泉を象徴するフレーズとなったこの言葉は、しかし巨泉本人が実際に言ったものではない。「タモリのオールナイトニッポン」で披露された“いかにも巨泉が言いそうなこと”がそのまま世間に流布されたというのが事の真相である。これもタモリの鋭い人物観察眼と表現力の賜物にほかならない。
「タモリはパロディストではなく、カリカチュア(戯画化)されたものを描く天才ではないか」(寺山修司を真似て)
寺山修司はタモリの形態模写の十八番ネタであるが、その完成度は単に顔やしぐさを似せるだけでなく、いかにも本人が言いそうなことを言う、そのもっともらしさによって保証されている。この言葉は、そうした「寺山っぽさ」が表れているだけでなく、タモリによるタモリ分析としても貴重な一言であると思う。
「冷蔵庫の脇にあるゴキブリホイホイには昭和60年のゴキブリがいる」(「タモリのオールナイトニッポン」より)
日常の何気ない風景から、こういう奇妙なことを発想し、しかもそれを絶妙な言葉で表現する。タモリがラジオで人気を博し、その後司会者として本格的に「しゃべり」の世界で天下を取ったのは、なにをおいてもこの言語感覚の鋭さによるところが大きいのではないだろうか。
「雨の日の国道には必ず軍手が一個落ちている」(「笑っていいとも!」より)
いわゆる「あるある」ネタだが、タモリらしい観察眼とディテイル言語化能力が発揮された秀逸な一言だと思う。このあと「(軍手が)工場のポールに刺さってたりする」などさらに秀逸な発言が続く。
「生まれ変わったら金髪美女になって、惜しげもなく裸をさらしたい」(「笑っていいとも!」より)
「生まれ変わったら何になりたい?」という質問に対して、タモリは再三このように答えている。ヌード雑誌であられもないポーズを披露したり、エッチなビデオに出たいとも。タモリのなかのねじれた性的欲求の発露だろうか。
「私もあなたの数多くの作品の一つです」(赤塚不二夫の弔辞より)
福岡から東京に出てきたタモリを自分の部屋に居候させ、デビューのきっかけをつくった恩師・赤塚不二夫。その葬儀でタモリが読み上げた8分間の弔辞は「勧進帳」を思わせる見事な芸の一幕であったが、なかでもこの締めの言葉は秀逸であった。
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