豊浜トンネルの話をしよう
北海道の日本海側にグッと突き出た積丹半島は、札幌から小樽を経由して車で2時間ほどで行くことのできる札幌市民の身近なドライブコース、海水浴場やキャンプ場も点在する景勝地として、高い人気があります。
ニッカウヰスキーの工場で知られる余市町の市街地を通り過ぎ、さらに10分ほど海岸づたいに車を走らせると、「ローソク岩」という、その名の通りロウソクのような形をした奇岩が右手に見えてきます。そこから積丹町までの海岸線は険しい断崖絶壁が続くため、トンネルが数珠つなぎになっています。そうしたトンネルが連なる国道229号線は、その先の古平町、積丹町の住民の生活道路として、欠かせない道路となっています。
余市町と古平町を結ぶ豊浜トンネルは、全長2228メートルにも及び、半島北東側のトンネルでは最長を誇ります。車で進んでいくと、古平側の出口に近いところで左へ、右へと一回ずつ、緩やかに曲がるカーブが認められることでしょう。しかし、このトンネルが1990年代の半ばまでは、長さ1086メートルの直線構造のトンネルで、その大半が今の新「豊浜トンネル」の一部として引き続き、使われていることを知る人は少ないのではないかと思います。約1キロの旧トンネルは1984年にできました。長さが2倍以上の新トンネルに生まれ変わったのは、ここで大きな岩盤崩落事故があり、多くの犠牲者を出したからです。
この痛ましい事故は、1996年2月10日の午前8時10分頃に発生しました。古平町側出入り口の巻き出し部と呼ばれるコンクリート製のアーチ(筒)の上に、高さ最大70メートル、幅最大50メートル、体積にして1万1000立方メートルにも及ぶ巨大な岩盤が突き刺さりました。ちょうどその瞬間に真下を走行していた路線バスと乗用車1台が巻き込まれ、小学生1人、中学生2人、高校2年生5人を含む計20人の方が亡くなりました。バスと車の中にいたとみられる方々の生存が未確認のまま、ダイナマイトによる岩の除去作業が4回も続けられるなど、救出作業は難航を極めました。テレビのニュース番組やワイドショーが1週間以上にわたって連日連夜、大々的に報じる「劇場型」の事故でもありましたので、40~50代以上の年代では覚えている方も多いのではないかと思います。
事故後、豊浜トンネルは、古平方面に近い内部から山側に迂回し、隣のセタカムイトンネル内につなぐバイパストンネルが掘削され、新たなトンネルとして再出発を図ることになりました。このトンネルは事故翌年の1997年12月に着工し、3年後の2000年12月に完成しました。これにより、生中継で救出作業が国内外に伝えられた事故現場は、道路のある陸側からは目視で確認することはできなくなりました。現場が見えなくなったのと時を同じくして、一部遺族が提訴していた国家賠償請求訴訟も決着を見ました。業務上過失致死罪で立件された刑事事件も収束に至り、事故は急速に忘れ去られていきました。
この事故は、まだ駆け出しの記者だった私が、発生直後から現地で取材に携わり、その後現地でご遺族と、今にもつながるお付き合いしながら取材活動を続けた、記者の原点にもなった事故です。国の出先機関である北海道開発局(当時は北海道開発庁、現在は国土交通省の一部)の官僚的な無責任体質や危機管理の欠如、被害者家族(遺族)への対応のまずさ、さらには報道関係者が集団で被害者家族らを取り囲むメディアスクラムなど、現在にもつながる様々な問題がギュッと詰め込まれた事故でもあります。次回以降、この事故がどんなものであったのか、現在にも教訓を残すものとしてどんなことが挙げられるのか、思い出すままに記していきたいと思います。
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