見出し画像

陛下行幸 (2012年3月)

 1990年7月1日から92年6月22日までの約2年間、通商産業省(現在の経済産業省)から(財)国際超電導産業技術研究センターに休職出向していた。

 役職は、超電導工学研究所の第6研究室長(92年4月に第7研究室長に名称変更)と企画室長の兼務。その約2年の間にはいろいろなことがあったが、91年4月24日(水)の天皇陛下のご視察が最も鮮明に記憶に残っている。当日もさることながら、その準備も大変だった。

 ご視察のルートを決め、分単位のシナリオをつくり、ストップウォッチを片手にしてリハーサルを何度も行った。たしか、前日の最終リハーサルでは、恐れ多くも田中昭二先生が陛下役だった。

 研究室のご視察の後、研究員とのご懇談の時間を設けることになっていたので、宮内庁の大膳所に相談して、お茶と和菓子を手配した。和菓子は宮内庁御用達の和菓子屋に当日の朝届くようにお願いしたのだが、万が一のことを考え、前日の夕刻に同じものを準備しておいた。

 一番困ったのは、研究棟一階廊下の壁の汚れだった。壁に掛けてあった数枚のパネルを取り外すとパネルの跡がついていた。宮内庁からは新しく絨毯を敷くとか、什器を入れ替えるなどの特別な準備はしないようにと言われていたのだが、やむなく廊下の壁を塗り直した。匂いが残らないように水性ペンキを使い、廊下のドアを終日開放して壁を乾かした。

 警察は事前に屋外のマンホールから所内の天井の点検口までくまなくチェックし、開閉の必要がない開口部を封印していった。封印に使ったのは「前川」の認め印を押した紙テープである(今でもどこかの天井の点検口に「前川」の封印が残っているかもしれない)。

 深川消防署もやってきた。消防署長は当日の朝、火災センサーが誤作動して陛下にご迷惑をおかけするといけないからと、自動火災警報設備の警報音のスイッチを切り、火災警報パネルの前に署員と待機されていた。非常時に備えて、消防車も、向いの三菱製鋼の工場内に配置されていたのだが、木立の向こう側だったので、気付いた人はいなかったに違いない。

 職員、研究員の奮闘のお蔭で陛下のご視察は無事に終了した。全てが終わった後、田中昭二先生は所長室の応接セットのテーブルに置かれた恩賜の煙草を眺めながら「昭和天皇にもご視察いただきたかったな」とぼそっとつぶやかれた。先生のお名前の由来を思い出しつつ、そうですねと相槌をうった。うららかな平成3年の春の日だった。

(超電導工研企画室長90.7~92.6、現在はサイバー大学IT総合学部教授)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?