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「マエガワレポート」の裏側 (『ITインダストリーレポート』 March 2001 、2001年3月)

本人より有名なレポート

 ニューヨークから帰国してもう3年半になるのに、IT業界の人と名刺交換すると「あの『マエガワレポート』の前川さんですか」と尋ねられることがある。

 「マエガワレポート」と呼ばれているのは、ニューヨーク駐在員であった1994年5月から1997年6年までに書いたレポートのことである。『電子工業月報』向けの「ニューヨーク駐在員報告」(12,000〜15,000文字)と日本貿易振興会向けに書いた「産業報告」(3,000〜6,000文字)の2種類があり、ほぼ毎月定期的にそれぞれのレポートを書いていた。前者は「ネットワーク技術と暗号技術」のように適当なテーマを選び、米国のIT産業動向や米国政府のIT関連政策の動向を分析したもので、後者はニューヨーク・タイムズ紙やウォール・ストリート・ジャーナル紙などの新聞に報道された1ヶ月分のIT産業関連ニュースをそれぞれ数行にまとめたものである。

 1994年夏に、この2種類のレポートを米国赴任前にお世話になった方々に近況報告代わりとして電子メールで送り始めた。当時、日本の米国のインターネット事情を伝えるメディアが少なかったこともあったのだろう、いつの間にか読者が増え「マエガワレポート」と呼ばれるようになったのである。

 それぞれのレポートが印刷物としてそれぞれの会員に配布される日を過ぎれば、レポート再配布について特に制限を設けなかったことが、読者が増えた大きな要因かもしれない。電子メールとして再配布されるだけでなく、ウェブ上でも読めるように過去のレポートを蓄積していただいた。初期の頃は電子技術総合研究所のウェブに置いていただいたし、後半は、大分のニューコアラや電子商取引実証推進協議会(ECOM)などのサイトにも蓄積していただいた。もちろん、「ニューヨーク駐在員報告」については(社)日本電子工業振興協会のウェブサイトでも読める。

 中でも完全なアーカイブを作成していただいたのは(財)日本情報処理開発協会の横塚実氏である。ニューヨークで書いた2種類のレポートだけでなく、アシスタントの書いた2つのレポートも英語と日本語で掲載されている。日進月歩で進化しているITの世界では、これらのレポートはもはや歴史的な文献であり、実用的な情報ではないが、ご関心の方は是非ご覧いただきたい。

ネットと格闘する

 ニューヨークに赴任する前から、仕事として定期的に作成するレポートをインターネットを使って配信しようと思っていた。それは、通産省機械情報産業局時代に会ったDr. David Kahanerの影響である。Dr. Kahanerは当時、US Office of Naval Research AsiaのAssociate Directorであったが、主に日本における研究開発プロジェクトの現状を分析したレポートや情報技術関連のコンファレンスやセミナーで得られた情報を分析したレポートを電子メールで発信していた。彼のレポートは、米国の産業界、政府機関、大学などで読まれ、読者は数千人はいると言われていた。Dr. Kahanerのレポートの一部は現在でもネット上で読むことができる。

 もちろん、Dr. Kahanerほどの見識も分析力もないのでレポートのレベルは落ちるにしても、このDr. Kahanerのレポートをお手本にして、米国のインターネット事情を電子メールで発信すれば、赴任前にいろいろとお世話になった方々に少しでも喜んでもらえるのではないかと思っていた。

 しかし、それはそんなに簡単なことではなかった。今となっては信じられないような話だが、パソコンをインターネットに接続して日本語でメールを送ること自体が容易ではなかったのである。当時のJETROニューヨーク・センターはインターネットに接続されていないばかりか、LANも敷設されていなかった。そこで電話線とモデムを利用してインターネットにアクセスすることにした。幸いにして前任者の永松荘一氏が揃えてくれた新品のMacintosh、14.4Kbpsのモデム、モデム用の電話回線があった。

 1994年当時、米国には既に数多くのインターネット・サービス・プロバイダー(ISP)があった。その中からPSInetを選び、アカウントを申し込んだ。送られてきた接続ソフトをパソコンにインストールし、インターネットに接続してみた。そこまでは順調だった。しかし、英語でメールの授受はできても、日本語が使えないのである。しかたなく、赴任前に利用していたメールアカウントを利用して(つまりニューヨークから東京まで国際電話をかけて接続して)日本の知人・友人に相談するとPPPかSLIPを利用した接続をすれば大丈夫らしいことが分かった。それから通常の仕事の合間はネットワークの実験である。ようやく日本語で電子メールが送れるようになったのは赴任から2ヶ月たった7月のことだった。当時、日本に送ったメールを引用しておこう。

前川@JETRO New York です。御無沙汰しております。おかげさまで元気にしております。生活も落ち着き、仕事にも慣れてきたところです。このメールでお分かりのとおり、ついに米国でメールアドレスを取得し、かつ、日本語でメールのやり取りができる環境を整備しました。具体的には、ニューヨーク市をサービス地域にしているPanixという会社にPPP (Point to Point Protocol) で接続し、Eudra-Jを利用しています。もちろん、Turbo Gopher, NCSA Mosaicなども揃えていますが、テストはこれからです。


増える電子メール読者

 レポートをインターネットで送ってから、印刷物になって配布されるまでに約1ヶ月かかる。つまり、電子メールでレポートを受け取っている人たちは、印刷物より約1ヶ月早くレポートが読めることになる。それが口コミで伝わり、電子メールでレポートを送って欲しいという読者が何人も現れた。恥ずかしい話なのだが、当時は読者一人ひとり個別にメールを送っていた。読者が増えるとそれだけ手間が増える。1994年11月、COMDEXが開催されていたラスベガスで再会した和歌山大学経済学部の佐藤周先生にそんな話をしたら、佐藤先生が管理されているサーバにレポート配布用のメーリングリストを作っていただけることになった。しかし、当時、米国在住の日本人読者も徐々に増えており、米国の読者まで登録すると、一度日本に送ったレポートが、日本のサーバから米国に何通も発信されることになる。そこで、佐藤先生には日本の読者向けのメーリングリストをお願いし、米国内向けのメーリングリスト作成については、当時KDD系のTELECOMETで働いていた冨米野氏に頼むことにした。

 やがて、レポートをまとめて再送信したいというお願いも届くようになった。覚えている一部を紹介すると、T社が社内の関係者に、日本インターネット協会が会員に、和歌山県工業技術センターが全国の公設試にレポートを再送していた。もうこうなると、いったい何人にレポートが届いているのか自分では分からなくなる。

爆発的な拡大

 米国に駐在していた3年間は、インターネットが爆発的に拡大した時期であった。インターネットの規模を示すインターネット接続ホストコンピュータ数(全世界)を見ると、94年1月の222万台から95年1月には585万台と160%を超える成長を示しており、翌96年1月には1435万台、97年1月は2182万台と増加している。つまり、94年からの3年間でインターネットは約10倍の規模になったことになる。

 この爆発的に拡大するインターネット上で様々なビジネスが始まったのもこの時期であった。音楽用CDをウェブ上で販売するCDNowがビジネスを開始したのが94年8月であり、アマゾン・ドットコムがウェブを立ち上げたのが95年7月である。(95年8月には、ネットスケープが株式を公開している。新規公開価格は28ドルであったが、いきなり71ドルで寄付き、75ドルまで高騰し、最後は58ドル25セントで引けた。)96年6月には、デル・コンピュータがネット上でのパソコン販売を、サウスウェスト航空が航空券のインターネット予約サービスを、オートバイテルが自動車販売をサポートするビジネスを始めた。96年9月にはチケットマスターがネット上でスポーツの試合やショウのチケットの販売を開始した。

 大手企業はこぞって自社の製品やサービスを紹介するウェブサイトを立ち上げ、新聞社や雑誌社、テレビ局などがウェブサイトでニュースの提供を始めたのもこの時期である。(98年には破綻してしまうのだが)デジキャッシュ社のネットワーク型の電子マネー「eキャッシュ」のドルとの交換が始まったのも、主要銀行がインターネット上でオンラインバンキングに乗り出したのもこの時期である。

 1992年にインターネットに出会い、インターネットの持つ可能性に魅せられたネットフリークにとって、まさに最良の時期に最良の場所にいたことになる。このため、駐在員報告のテーマは、結果的にインターネット関連ばかりになってしまった。

関係者に感謝

 毎月レポートを書いていると、多少は文章を書くのに慣れてくる。しかし、一つのまとまったレポートとなると別である。JETRO向けの産業報告は、新聞からニュースを収集してまとめるだけなので、力仕事的なレポートなのだが、ニューヨーク駐在員報告はそうはいかない。

 読者や周囲の人たちには「最初は苦痛でしたが、徐々に慣れて楽しみになりました」と答えてきたが、本音を言えば、テーマを選び、材料を集めて、ストーリーを作る作業を毎月続けるのは大変だった。
 特にテーマを選ぶのが苦痛で、月初めになると「今月は何を書こうか」とつぶやきながら頭を抱えていた。そんなこともあって、1つのテーマで長めのレポートを書いて、前編、後編として2ヶ月分にすることが多かった。少し怠けているようで気が引けたのだが、その分、情報を豊富に盛り込もうと材料集めに力をいれた。

 レポートの作成には多くの人にご協力いただいた。たとえば、アシスタント(1年目はMs. Vanessa Williamsで、2、3年目がMs. Nina Young)は、レポート作成に必要な材料集めと、レポート作成以外の仕事を着実にこなしてくれた。実は、ニューヨークでの仕事は毎月のレポート作成だけではない。米国内の企業や政府機関からの産業用電子機器の貿易に関する問い合わせに答えることや、本部や通産省などからの調査依頼に応じて個別調査を実施すること、日本からの調査団や出張者の世話(訪問先のアポ取りや送迎、案内など)もある。彼女たちは、問い合わせの大半を処理し、さまざまなアポ取りや調査活動を側面からサポートしてくれた。

 ワシントンDCにある調査会社、Washington CORE社の小林知代さんからは、情報がぎっしりつまった調査レポートを何度かいただいた。JETROニューヨークの同僚からもいろいろな材料を提供してもらった。すべてのレポートの最初の読者である愚妻は、原稿のあちこちに赤を入れると同時に、いくつもの重要なアドバイスをくれた。

 何人かの読者からは、レポートに対するコメントや励ましの電子メールをいただいた。新しい情報が少なく、分析も浅いレポートを送った時には、「今回はちょっと軽いですね」というような厳しい励ましのメールも受け取った記憶がある。毎月書き続ける気力を保つことができたのは、こうした厳しい読者のおかげかもしれない。また、電子メールでの配信と電子工業月報配布後の自由な利用を許可いただいたJEIDA関係者にもお礼を申し上げたい。

 文章を書いたのは一人であるが、マエガワレポートはこうした多くの人々の協力と激励がなれけば生まれなかった。あらためて感謝の意を表したい。

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