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私は、まだ盆栽を知らない②

こんにちは、インバウンドのプロデュースをしている木立(きだち)です。
今日は観光再始動事業で関わっている盆栽のことをさらに突っ込んで書いてみようと思います。

盆栽は「自分自身の投影だ」という衝撃的な学びを書かせていただいたのが①なのですが、ここからにさらにそれを深堀していきます。

盆栽ワークショップを体験してみて感じた自分の心の中の変化を記してみます。

盆栽師藤原さんによる講義

「まず正面を決める」

これが最初に盆栽師の藤原さんが教えてくれること。
どんな盆栽にも一番きれいに、一番カッコよく見える確度がある。これをじっくりと盆栽を回してみて決めていく。

ところが上にある立派な出来上がった盆栽だとわからないのですが、選定する前の盆栽はこんな感じなんです。

正面を決めている図

葉っぱも枝も多くて
マジで素人にはどこが正面にすべきかなんてわからん!!
ということで、私も外国人の方もクルクル盆栽を回して頭を悩ませるわけです。
もちろん横に指導者がついてくれてベストな形を教えてくれるのですがサッパリわからんのです。ただなんとなく良い形だなってことぐらいはわかります。

盆栽が自分自身の投影だとすると、仕事人としてのキャリアデザインと相似の関係で見てみると、「盆栽の正面」は「自分の主戦場」とも捉えることができます。
私の場合、新しいものが好きで、異文化への受容もできるけど、反復的なことや大きな固定的な集団内での振る舞いは苦手だなぁとグネグネ曲がった要素を持っている訳です。
最近、適性検査を受けたら「パターン認識」の非言語のスコアは高いけど「文脈理解」を筆頭に言語のスコアが対して高くない。そんな結果を見ると「あっ自分の主戦場はインバウンドや新規事業」に置くのは正解だなと改めて気が付いたわけです。
これを間違えちゃいけなくて暗黙の了解が多い職場だと間違いなく私はダメダメ人間なわけです。

そう考えると盆栽ワークショップでやる「どこを正面にするか」を決めるって人生においても重要なことを教えてくれます。

夢中で剪定する外国人チーム

「余計な枝葉を切っていく」

正面が決まったら次は枝の剪定です。これは最初ドキドキしながら切ることになるんですけどやりだすとメッチャ楽しい。写真を見ていると奥の2人なんて笑顔なのがわかると思います。

この工程は、「可能性を絞り込んでいく」と見立てることができます。
カメラマン(私)が盆栽の没頭して写真を取り損ねたんですけど、初期状態から選定し終わった後って枝も葉っぱも減るんです。

左が初期状態で右が剪定後

これ社会人になって働きだした時って、左側のように夢にあふれて私はなんでもなれるんじゃないかと勘違いしていた時期なわけです。
そのうち仕事をするにつれて、うまくいくパターン、うまくいかないパターンに出会って、己の限界を知り枝が切り落とされていくわけですよ。
音痴な私からするとカラオケ接待なんて枝葉は真っ先に切り落とす対象です。インバウンドをやってきたこれまでの時間を考えると「100%日本人向けの業界」もあんまり興味がないです。海外との関わりという枝を幹にしていこうと
そんな感じで枝葉を自分の可能性と見立てると、余計なものをそぎ落として行って、どこの枝を伸ばしていくか?を考えていく「内省」を促す素材としての盆栽の活用範囲は大きい。

どなたかキャリアカウンセラーの方と一緒に盆栽を活用したキャリアワークショップをつくってみたいくらいです。

また組織を創っていく経営者や事業部長の育成にも向いているかもしれません。いくつかの事業、グループ、支店そうしたものをどこかで選択と集中を、もしくは枝を限界まで広げるという判断をする立場の人もいると思います。
その時に大事になるのは1つの枝がどうこうではなく、盆栽の全体がカッコいいかどうか?この盆栽が1年後、5年後、10年後どんな姿になるか?を想像しながら育てていくわけです。

針金をかえるパート

「針金でグネグネ曲げていく」

剪定が終わったら針金をかけていきます。これは針金を使って無理やり枝を曲げてカッコいい形をつくる工程です。「盆栽=自分理論」だと、これは日々会社で先輩や上司に指導されているような状態でしょうかね。好き勝手に能力を伸ばしていけという理屈はあります。私はメタ認知が強くて自分の全体観や弱いところと向き合える方なら好きにしていいと思いますが、どうしても強制的に何かを身に着けるという過程は生じてしまうと思います。

私の場合、20代の頃は人間関係とか、長い目線で仕事を組み立てていくことなど細々と指導されて「ウルセエナァ」と心の中で呟いてました。盆栽に針金を巻き付けていながらそんな当時を思い出すと、無尽蔵に枝が伸びると確かに盆栽として不細工な形になることを回避するための強制に意味はあるよなという気持ちになります。

強制されてると腹が立つけど、自分だけの力で綺麗な形が作れないなら、こうした強制力に一部頼るのは不思議なことに悪くないなという気になります。

それは「美しい盆栽の形を創る」という全体的なゴールがあればこそ
全体を構成する要素の1つの枝葉がどうなのか?にこだわり過ぎると全体が損なわれる。そんなちっぽけなこと気にしてもマスターピースはできんよって俯瞰した目線を盆栽は与えてくれる。

プロジェクトリーダーの森さんの作品

「日々の営みの中に美が宿る」

この後、鉢に植え替えをしていったん盆栽ワークショップは完了します。しかし盆栽はここからがスタートで、毎日水を与えて伸びた枝をどう整えていくのか手入れをしていきます。
盆栽が自分自身だとすると、水をあげるのメンドクサイとか言ってられません。きっと1日24時間、起きている時間が16-8時間くらいあったら水をあげるなて2~3分ぐらいのこと。割合にしたら起きている時間の0.2%くらい。そんな時間も取れない状況って自分自身にもストレスが高い状況なんだってことを盆栽は教えてくれるわけです。

「目に見えるもの、目に見えないもの」

実際に盆栽ワークショップに参加をしてみると、盆栽の見方が変わってきます。すでに出来上がったプロの完成品を見てもわからなかったことが、自分で枝を剪定して曲げて見ると作者の意図を想像することができるようになります。

枝の2つを隠して見た写真

右にこの流れている感じの盆栽も根っこの付近と中央部分に枝がないとすごい寂しく見えませんか?幹の部分がみすぼらしいというか
ここに枝を残すべきか、断ち切るべきか?その選択の自由は盆栽をつくった人にあって、緑のバランスとか、ここからも枝が伸びる余白があったことをさりげなくこの赤丸部分は教えてくれます。

そうするともしかするとこの松は想像ですが根っこの近くに枝があるってことは頑張れば赤線のように枝を伸ばすことも可能だったのかもしれません。もしくは伸びた枝が最初はあったけど、このような形にデザインした方が見栄えが良いのでバッサリいったのかもしれません。
この何もない空間に何かがあったのかもしれないと想いを馳せて、それでも今ある枝を残すのがBESTだったとい判断も感じとれてきます。

観光地も組織も個人のキャリアも盆栽「いきもの」で似た形はあっても個々に同じ形はない。そして時とともに移ろいでいく。可能性は無限にあっても取れうる選択肢は最終的に1つしかないので剪定(選定)していきデザインしていく必要があること。
盆栽はとらえどころのない「いきもの」をわかりやすく理解するのに適してます。

とまあ小難しいこと書いてしまいましたが、盆栽は面白いですよ。
海外の方も笑顔でワークショップを終えることができました。

来週は盆栽師の職場にお邪魔してくる予定です。


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