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記憶を捨てよ、町に出よう

カレンダーからアラームが届いた。健康診断を受けに行く時間だ。家族はすでに外出しているらしく、家には私しかいない。ダイニングテーブルの上に、ピザ屋のチラシが置いてあって、クーポンがすでにちぎられている。私は窓を閉め、鍵をかけて出かける。

病院までの移動経路を検索する。最短経路は最寄りの駅から電車に乗り、五駅先で降り、そこからバスで終点まで乗るのが最短経路だという結果が出た。続いてバスの乗り方を検索する。この系統のバスは、乗るときに料金を支払うシステムだということが分かる。今のうちに小銭を用意しておくことにする。


ずいぶん昔、人間とコンピュータが囲碁で対戦をしていたことがある。人間は直感、経験、思考によって碁を打っていた。一方、コンピュータはその時点の盤面の状況をもとに、考えられる打ち手をすべて探索し、最適な手を選んでいた。そしてコンピュータが勝利したことにより、記憶と思考よりも、高速な検索と探索のほうが強いことが明らかになった。

最近では検索用の小型コンピュータと通信機器によって、脳を補うという技術が開発されている。脳に蓄積された限られた情報で思考するのではなく、インターネットに接続して高速に探索をする。そのほうが、すばやく適切な意思決定ができる、すなわち頭がいいということだ。最初の志願者として、五十人がパイロットプログラムの参加者として「検索脳」の手術を受けた。私は、そのうちのひとりだと、データベースに記録されている。


バスの終点で降りると、停留所のすぐ前が病院の入り口だった。自動ドアを通り抜け、受付で健康診断を受けにきたことを伝えると、伝染病に関する情報を、調査票に記入することを求められた。最近になって記入が必要になったので、事前に提出した問診票にはその項目がないのだという。

既往歴など記憶していないので、過去の記録を検索する。プライベートな情報なので、パスワードによって保護された領域にアクセスする必要がある。若干面倒だが、あやふやな記録を自分の脳に持っておくよりは、効率がいいし正確だ。風疹にかかった時期と、おたふくの予防接種を受けた日付を記入し、調査票を渡す。それを受け取った受付の女性と目が合った直後、自分の鼓動が少しだけ速くなった。


身長、体重、視力、聴力、腹部エコー、胸部X線、血液検査の順に、検査を済ませる。最後に簡単な問診があり、その時点で分かる範囲では問題がないと伝えられる。少し血圧が高いが、他の数値に問題はなく原因が分からないので、経過を見ることになった。

次に別の部屋で、別の検査を受ける。自分の年齢、現在の日付や時間、その他自分のことを聞かれたり、言葉を記憶してあとで思い出して答えたりする。あるいは、図形を見せられて、書写したりもする。一連の質問に答えている間、脳波、CTスキャン、それからネットワークへのアクセスを測定された。


検索脳の手術をした者は、ごく局所的な情報を除いて、検索で解決する能力を持った。そのため、長期記憶が必要ではなくなり、必要最小限の情報と短期記憶だけを保持するように変化した。不自由をしている者はほとんどいない。検索すれば、大抵の用事は問題なく済ませられる。カレンダー、タスクリスト、リマインダーさえ記録しておけば問題ない。と、データベースに記録されている。

受付に戻り、検査が終わったことを伝え、保険による支払い手続きをする。さきほどと同じ女性が対応してくれる。ふたたび鼓動が速くなる。


いつもは、感情を記録する必要がないので、その都度湧き上がるのにまかせている。だが、今回は、少し苦しい感じがしたので、念のために検索する。どうやら私は、目の前の女性に好意を持っているらしい、という検索結果が出た。

「あの、よろしければ、お仕事のあとに、食事でもいかがでしょうか?」
と、尋ねる。これがいちばんリスクの少ない方法であると、検索結果にあったからだ。
「軽く、えーっと、ピザとか」
検索結果には、ピザに関する情報はなかったが、とっさに思いついたのがピザだったのだ。私の性分なのかも知れないし、短期記憶に残っている情報を無意識に使ったのかも知れない。


「ありがとう。」
と、その女性が言う。食事の誘いを受けるのか受けないのかは答えない。しばらく無言で見つめ合う。
「ところで、ご家族は?」
と聞き返される。
パスワードを使って、家族構成の情報を検索する。配偶者の詳細な情報と、それから画像も取得する。そして、目の前の女性が妻であることを知る。


検索脳に関するデータベースには、記憶を使わなくなることによって、認知症の記憶障害と似た状態が観測されたと記録されている。そのような変化は、長い時間を経てはじめて発見されのだが、すぐに検索脳の導入は禁止された。

一方で、検索すること、そしてカレンダーなどのツールを使うことで、身の回りのことは適切にこなしていける。そのため、認知症対処の研究対象として、現在も活発な調査が行われており、私もこうやって定期的に検査を受ける。


「会うたびに、あなたがわたしに恋をして、おそるおそる食事に誘うっていう、このシチュエーションが嬉しいんだよね。」
そう言いながら、妻はピザ屋のクーポンを、私に手渡した。
「先にお店に行って、席をとって、クーポンを使えることを確認して、妻を待つ。ってカレンダーに設定しておいて。仕事が終わったら、すぐに行くから。」

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