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元証券マンがなぜ飲食の世界に飛び込んだのか?自己紹介vol.2

バブルだった証券マン生活が飲食店経営に役立つなんて!
入社前に勤務地希望をきかれて、「仕事に集中したいから札幌以外で」とお願いしたはずが、最初の赴任地は札幌でした。
美味しい食事とデート代に釣られて始まった、札幌での野村證券生活が甘いわけがありません。


 

それでも入社1年目で結婚をしたお蔭か、3年目で新人の教育係をやったりして、4年目の年に転勤が告げられました。
転勤先はなんと、営業の精鋭が集まると言われていた、本店営業部でした。
何かの間違いではと、耳を疑いました。
 
高校時代を過ごした東京から離れて、札幌で大学と社会人生活のスタートを約10年過ごした後、再び東京に戻ることになったのです。
 
本店営業部で出会った二人のクライアントが、私の人生を変えるきっかけを与えてくれました。
一人は北海道大学出身でベーカリチェーンの会社社長でした。その方と、北海道での食ビジネス事業を始めようと話を進めていました。私が起業を意識したのはここからでした。
 
もう一人は、金融業界に多くの人脈を持つ資産運用会社社長です。いきなり起業するのではなく、外資系証券会社への転職をアレンジしていただきました。
 
こうして、いずれ北海道での食ビジネスで起業するぞ、という志をもって、外資系証券会社に身を転じたのでした。
その決断をしたのが、1990年1月、日経平均が史上最高値をつけた翌月です。
所謂「バブル崩壊」が始まった年でした。
 
当然、起業の準備をしながら生き残れるような世界ではなくなっています。仲間が馘になるのを目の当たりにしながら、必死に仕事に取り組みました。
この「必死の仕事」というのが、今ではあり得ない話ですが、「クライアントを接待の場にお誘いして、喜んでもらうこと」がメインだったのです。
そのため、「必死になって」美味しい店を探して、接待に明け暮れる日々となったのでした。
 
これはもしかしたら天職かもしれない。
 
いつしか、外資系証券会社のある営業部門のヘッドになっていたのでした。
(関係諸氏の名誉のために申し上げます。もちろん接待だけが仕事ではなく、もっともっと大変な業務を、現在はもちろん、当時もしていました。)
 
その後始める飲食店経営において、唯一これだけは自信をもって言えるかもしれません。
「私ほど、美味しい店に行きまくって飲食店を始めた人はいない」と。
 
私の妻の実家は、札幌の住宅街、円山(まるやま)で、夫婦でやきとり屋を営んでいました。
高級住宅街と言われる円山で、最も安くて美味しいやきとり屋として地元で愛されてきました。
実に37年間続けて、お義父さんは88歳まで焼き場に立っていました。
義父母がこれ以上続けるのはムリとなった2013年、それなら家内と一緒にやってみよう、という決断をしたのでした。
 
そう、「北海道で食ビジネスの起業をする」という志を、思ってもみなかった形でスタートさせたのでした。

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