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〈短編小説 〉明太フランス 第1話

「まいちゃーん、ねぇ寄っていい?お腹すいたしさ、奢るよ」
いつも必要以上に大きい声の先輩が私は嫌いだったのでできればさっさと帰りたかったのだけれど、ピンクがかったレンガづくりの建物を見て
「あー、いいですよ。自分で買いますし、ここのパン美味しいから寄りますか」
とハンドルを左に切った。
天気のいい土曜日10時に先輩と仕事が入り渋々得意先に向かったのだが、一応話はいい方向に向かったので機嫌は少し直っていた。
ただやはりこの先輩はどうしても苦手なので、終わったら早く別れようと思っていたのだけれど、彼女の車を置いてある駐車場に向かう途中にそのパン屋さんはあり、なんとなく帰りに寄るだろうなぁという予想もできてはいたのだ。
家族連れで混んでいる店内に入ると幸せな甘い香りが鼻腔をつき、オモチャのような可愛らしい形やウィンナー、ベーコン、バジル等の惣菜要素が高い無骨な形のパンたちが迎えてくれてつい口元が緩んだ。
甘いパンが好きな私は卵液がたっぷり染み込んでいそうなフレンチトーストとアップルパイ、そしてもう1つどうしようかな・・・
一瞬トングで掴もうとしたそのパンをやめ、少し考えた。

「ねぇゴウちゃん、もぉこの子達うるさいから車に戻ってていい?ほんと、お兄ちゃんなのに我慢しないんだから!パンはゴウちゃん選んだのでいいよー」

私よりもずっと若そうな可愛らしい女性の声がして、その後にやだよー、パパと選ぶー!と不満そうな男の子の声が店内に響いた。
ゴウちゃんね・・・それを聞きながら、さっき迷ったパンをトレイに乗せて、声の方向を見るとショートカットの似合う小柄な30代半ばくらいの可愛らしい女性が両手にそれぞれ男の子と手を繋ぎ店内から出ていく所だった。

その女性の視線の先を見た時に

私の身体中の血がフッと熱くなったのは
軽い目眩を覚えたのは

私が欲しくて欲しくてたまらなかった、あの優しい瞳と私を夢中にさせた唇をした彼が立っていたから。

一瞬、周りは気づかないくらいに瞳を開いた後、パンを選ぶ様を演じながら人の波をかき分けて私の隣にたどり着いた彼は

「何年ぶりだっけ?相変わらず俺まいが1番なんだけど」
身体も向き合わずに、目も合わせずに、隣で知らない人同士パンを選んでいるような姿勢で小声で話しかけてきた。誰にも気づかれないように、私だけに聞こえるように。
ううん、きっと私にしか聞こえてないし、誰にも聞かせたくない。
そうこの声。何度私の名を呼んだだろう。
その瞳で何度私を見つめただろう。
その腕で何度私を抱いただろう。

「子供、やっぱり居たんだね」

熱くなり始めた心とは逆の言葉をなんとか唇から押し出した。
この人は、だめ。わかるよね。

「それに住んでるとこ、全然違うじゃん。同じ市内とか、ビックリしたよ」

声が震えるのを必死で隠して、並ぶパンの前でトングを踊らせた。

「やっぱまいは甘いパンが好きなんだなぁ。あ、でも俺の好きなやつも選んでくれてるじゃん」


明太フランス  第2話→

https://note.com/toru_5/n/n53c3f422fb38