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デジタル化時代の価値は0と1の間に落ちている

中学校の技術の時間に糸鋸を使う授業があって、先生が言うのとは全く違う手順で機械をいじってひどく怒られたことがありました。
僕は母の家系が大工で父の家系が配管工で、小さい頃から工具に触れて育っていました。
だから糸鋸は小学校入学前からの遊び道具。
で、当然のように父や祖父がやっているのと同じように機械をいじったら、なんでもそれは「アブナイ」やり方だったみたいで、それは違うと怒られたわけです。
そんな、小さい頃から「習った」手順と、技術の授業で習う『正しい』手順が違ってたまに悩むことがありました。
テストで工具の名前を聞かれて、大工のおっちゃんが普段「それ取ってくれ!」みたいなノリで使う俗称を書いてバツになったり...笑

先日久しぶりに地元に帰省して、母方の祖母とご飯を食べに行きました。
祖母は典型的な地元の人で、会うと地元出来事や半径1キロで起きた話題を無限リピートするみたいな人なので、車でご飯を食べに行ったりすると、その道中はそんな話ばかりになります。
僕は友達であっても過去の思い出を回顧して盛り上がったり、会社の愚痴が会話の中心になったりする集まりは途中で抜けるくらいに目的のない話が苦手なので、正直祖母のそういった話はむちゃくちゃ苦手です。

ただ、そんな祖母と食事に行くと、僕が話に釘付けになる話題があります。
1つは祖父の建てた家を見かけた時で、もう1つは建設中の家を見た時。

祖母と一緒に車で移動していると、地元トークの合間に不意に外を指差して「あれお父さんが建てたんだけどね」と話し始めることがあります。
「お父さん」っていうのはずっと昔に亡くなった祖父のこと。
役所から検査に来た人と揉めた話とか、施主ともめた話とか、家を長持ちさせるために祖父がどういう工夫をしていたかとかを事細かに教えてくれるのです。
この話がいちいち示唆に富んでいてむちゃくちゃ面白い。
祖母としてはそれまでの身のない話の延長で話しているつもりなのでしょうが、そこには職人の(妻として見てきた)視座が詰まっていて、僕としてはためになる情報ばかりなのです。
そんなものどう探したって教科書には載っていません。
祖母のこの話を聞く度に職人の技術が口承だったり盗んで覚えろみたいに言われたりするのは、別に技を隠したいとかではなく、そもそも伝える側が意識もしていない(教えようとしてもいない)レベルの所作にあるからなのだろうと思います。

もう1つ面白いのが建てている途中の家を見た時の祖母の話です。
祖母はよく、建設中の家を見かけるとその建て方のいい部分と悪い部分を全て指摘します。
それが現代の建築論的に正しいのか間違えているのかはともかく、素人目に聞いていて納得できるところが多々あるわけです。
いきなり「基礎を全て打ったら土が死ぬ」とか意味のわからない事を言いだすのですが、それを何度も聞き返して掘り下げていくと確かに納得してしまいます。
で、最近の大手の建て方を一通り悪く言ったと思ったら、「〇〇建宅」はいい仕事をしていると持ち上げてみたり。
(この建築会社の名前は意外でした)

僕ら若者は(というか特に僕は)年上の世代の事を根性論だとかムダが多いとか技術に追いついていないとかどこか小馬鹿にしているところがあるように思います。
ただそれは、あくまで今の技術に対する検知のお話で、それまでに積み上げた経験自体に意味がないなんてことは決してないんですよね。
僕はデジタルの基本はムダの排除だと思っている(この辺は0と1の話からすると長いので割愛します)のですが、その先の差別化にはデジタルで排除されたノイズにこそ価値が生まれるように思っています。
僕は良く、温故知新にもじって、過去を踏まえず最先端を礼賛する人の事を「盲故知新」と表現している(反対に昔の論理を引っ張ってきて今はダメだというのは「温故憂新」)のですが、盲故(故きに目を閉ざす)は自ら長期的な強みを手放しているように思うわけです。
僕はデジタルが大好きで先端技術に興味があるのですが、だからこそ同時に、0と1に分解する際に切り捨てられた情報の中に眠る「貴重」な価値にはアンテナを張り巡らせておきたいなとおもったりするわけです。

最近特に、両親の家系に「職人」を持つ僕にとっての「温故知新」はこの辺にあるのかなあと考えています。

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