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第25講堂島孝平『葛飾ラプソディ』考察〜なぜこの曲が「ラプソディ」なのか?〜

週刊少年ジャンプで40年に渡り掲載されていた『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、通称「こち亀」。
90年代後半からは長寿番組としてテレビアニメも放映されていました。
今回の『葛飾ラプソディ』はそんな「こち亀」のエンディングと知られるあの曲。
歌の世界観が「こち亀」の世界観と妙にマッチしていて、多くの人の印象に残っているのではないでしょうか?
何気ないアニメソングのひとつなのですが、歌詞を見ていくと非常に深いものがあります。
どうして「こち亀」にあれほどマッチするのか。
どうして僕たちはあの曲を聴くと、どこか懐かしさが込み上げてくるのか。
今回はその理由を掘り下げて見たいと思います。

「ラプソディ」とはなにか?




『葛飾ラプソディ』の歌詞を読むにあたって、まずは「ラプソディ」について簡単に説明します。
ラプソディは日本語で「狂詩曲」といいます。
「狂詩」なんて文字から禍々しいようなものな感じもしますが、どちらかというと自由奔放な、民族的なという印象の構成を指します。
Queenの『ボヘミアンラプソディ』、ガーシュインの『ラプソディ・ イン・ブルー』、リストの『ハンガリー狂詩曲第2番』辺りが有名です。
Queenの『ボヘミアンラプソディ』を直訳すると「チェコの狂詩曲」となるのですが、ボヘミア周辺に住む人々は放浪民としても知られています。
したがってこの曲は「放浪民の狂詩曲」といったところになるでしょう。
ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』の「ブルー」はおそらく「ブルーノート」という意味で、これはジャズによく使われる音階を指します。
ジャズをアメリカの伝統音楽と考えた時、アメリカの民族性を歌ってみた「アメリカの狂詩曲」とでも言えるのでしょう。
リストの『ハンガリー狂詩曲』は文字通りハンガリーの民族音楽を踏まえて作成された曲(実はリストが参考にした曲は伝統曲ではなかったという話もありますが...笑)
この曲はトムとジェリーにも登場するので、もしかしたらそれで知っている人もいるかもしれません。(4分辺りからのメロディが有名です)

https://youtu.be/NW0PxVi1Qfw

このようにどこか民族的、その地域に名指す文化性みたいなものを自由に歌に込めて表現した「ラプソディ」。
これを踏まえれば『葛飾ラプソディ』は葛飾という土地の空気感を歌い上げたものであると言えるでしょう。


平凡な一日の終わりが全編に描かれる歌詞構成



というわけで歌詞を見ていきたいのですが、この曲はAメロ、Bメロ、サビという構成を3回繰り返した後に、サビの繰り返しで終わります。
そして、その3回がそれぞれ「何気ない一日の暮れ」を歌っています。

まずは1番のAメロ。
〈中川に浮かぶ夕陽をめがけて 小石を蹴ったら靴まで飛んで〉
ある平凡な夕暮れ時に、河原でゆっくり過ごしている主人公が描かれます。
そして「小石を蹴ったら靴も飛ばしてしまった」という微笑ましい失敗をしている姿が描かれます。
Bメロではそれを受けて〈ジョギングしていた 大工の頭領に ガキのまんまだと 笑われたのさ〉と、小さい頃からの顔馴染みにその姿を見られたこと、変わらないと言われたことが描かれます。
このAメロとBメロから、主人公が長いことそこに暮らしていたことが分かります。
そして1番のサビへ。

〈どこかに元気を落っことしても 葛飾亀有アクビをひとつ 変わらない町並みが妙にやさしいよ〉
サビで描かれるのは主人公の心情について。
ちょっと落ち込むことがあっても葛飾の町の変わらない関係性を思うとホッとするという気持ちが描かれます。
おそらく、小石を蹴飛ばしたのはなにか嫌なことがあったからなのでしょう。
八つ当たりで石を蹴ったらさらなるおっちょこちょいをしてしまう。
しかし、そんな姿を笑って受け入れてくれる昔からの繋がり。
主人公はそんな葛飾の町の人の温かさをしみじみと感じています。

2番のAメロBメロも1番同様、主人公の何気ない動きと昔からの知り合いとのエピソードで構成されます。
Aメロ〈中央広場で子供の手を引く 太ったあの娘は初恋の彼女〉
B〈ゴンパチ池で渡したラブレター 今も持ってると からかわれたよ〉
Aメロでは昔と見た目が変わってしまった初恋の彼女を表現し、Bメロでは「今もとってあるラブレター」という表現で、やはり昔から変わらない繋がりを描く。

そしてサビは〈何にもいいことなかったけど〉と始まるのですか、〈何もいいことなかった〉ということから、何気ない日常であることと、一日の終わりであることが歌われます。
少しでも引用を減らしたいので2番のサビの歌詞の残りは省略しますが、ここでも何気なく街を歩く姿から、町に対する愛着が伺えます。
そして3番へ。

3番のAメロは〈カラスが鳴くから もう日が暮れるね 焼鳥ほうばり ビール飲もうか〉とその日の終わりを表す描写で始まります。
1,2番と違うのは3番ではBメロでも情景が描かれるところ(著作権があるので引用は控えます)
Bメロで夕日が落ちる様を描き、3番のサビへ。

1,2番同様に町の心地よさが歌われるのですが、3番ではひとつだけ大きく異なる点があります。
〈明日もこうして 終わるんだね 葛飾柴又倖せだって なくして気がついた 馬鹿な俺だから〉
この〈なくして気がついた 馬鹿な俺だから〉と言うひと言を入れることで、この歌は一気に深くなります。
最後のサビで町にあることが描かれていることから、今主人公が葛飾の町に住んでいることは間違いありません。
なのに〈なくして気がついた〉と書かれている。

ここを矛盾なく解釈するには、「一度は手放して初めて分かった」と解釈するのが自然でしょう。
おそらく主人公は若い頃、町の古臭さや田舎っぽさが嫌でこの町を捨てた。
葛飾という土地で考えるなら、下町から都会に出て行ったといったところでしょうか。
そこで一度は頑張るのだけどうまくいかない事も多くて挫折した。
そんな挫折を味わって自分の故郷に戻ってきたら変わらず受け止めてくれる温かさがあった。
そんな町とそこに生きる人たちの温かさに触れて、主人公は自分にとっての本当の「倖せ」が何なのかに気がついた。
3番のサビにはこんな主人公の気持ちが描かれているように思います。

そして最後に〈どこかに元気を落っことしても
葛飾亀有アクビをひとつ 変わらない町並みが妙にやさしいよ〉と1番のサビの繰り返しでこの歌は終わります。


作曲者はなぜこの曲を「ラプソディ」としたのか?



さて、歌詞の内容としては以上なのですが、この歌は全編を通してどこか「やさしい」雰囲気を醸し出しています。
そして、それが「葛飾らしさ」のようなものを聞き手に伝える。
僕はその1番の理由が、全編に多用される「ゆったりとした時間の流れを表すことば」にあると思っています。
改めて歌詞を見返すと、「ジョギングしていた 大工の頭領」「アクビをひとつ」「流れる雲」「少し歩こう」「カラスが鳴く」「夕陽が落ちる」といった言葉が並ぶことに気付きます。
これらのゆったりした時間の流れを示す語が多用される事で、下町のゆったりした時の流れを表しているのだと思います。
そしてだからこそ「なくして気がついた」と言う部分で、それと真逆な印象の「速さ、冷たさ」という都市をそれとなく頭に浮かばせるのかもしれません。

「放浪民」の空気感を描く『ボヘミアンラプソディ』に、「アメリカ原住民」の空気感を描いた『ラプソディ・イン・ブルー』、「ハンガリー」の空気感を描いた『ハンガリー狂詩曲』。
これらと並べた時に、『葛飾ラプソディ』にも確かに作曲者の「葛飾」と言う町はどんなものか?という解釈がはっきり伝わってきます。
だからこそ作曲者はこの曲に「ラプソディ」という名を感じたんじゃないかなと僕は思いました。

そんな、とってもほっこりする『葛飾ラプソディ』。
よかったらみなさんも聞いてみて下さい。

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