第12講宇多田ヒカル「真夏の通り雨」考察〜母への想いと母の影〜
宇多田ヒカルさんが活動再開後に最初に発表したシングル曲の「真夏の通り雨」。
僕にとってこの曲は、彼女の楽曲の中で最も印象に残っている作品です。
「真夏の通り雨」を披露するため、NEWS ZEROに登場した宇多田ヒカルさん。
彼女の髪型が母親の藤圭子さんに重なったのです。
どこか「愛する人との別れ」をテーマにしているように感じる歌詞。
そして、母親に面影の重なる髪型で登場した宇多田ヒカルさん。
僕には「真夏の通り雨」という楽曲が、2013年に自殺と思われる形で亡くなった母を思う曲に聞こえました。
僕がこの曲を聴いたとき、真っ先に宇多田ヒカルさんの母が頭に浮かんだのは、〈揺れる若葉に手を伸ばし あなたに思いはせる時〉という歌詞があったからでした。
「若葉」とは文字通り、芽吹いたばかりの葉のこと。
これは、生まれたばかりの命のメタファーであると考えることができます。
そして、それにそっと触れることで思い出す人。
ここには、萌え出でたばかりの若葉に触れたときに、母親が自分に対して抱いていた愛情をなんとなく推し量ることができたという宇多田さんの気持ちが歌われているように感じます。
〈汗ばんだ私をそっと抱き寄せて たくさんの初めてを深く刻んだ〉
そう捉えるとその一つ前、一番のAメロの意味も自ずと定まってくる。
Aメロだけならば、この部分は少し官能的に捉え、恋人がそっと自分を抱き寄せて、いろいろな事を教えてくれたと考えることもできます。
しかし前で挙げたように、直後に続くサビとのつながりを考えると、ここのいろいろなことを教えてくれる存在は、母親であると考えるのが妥当です。
幼少期の自分をいつも安心させてくれて、かついろいろなことを教えてくれた母親。
「若葉」に触れながら、きっとあなたは当時こんな気持ちだったのでしょうと思いをめぐらせている。
一番のAメロからサビへの流れから、僕はこんな気持ちを感じました。
「真夏の通り雨」は夢から急に目覚めるという形で曲が始まります。
一度目覚めてしまったから、再び眠って同じ夢を見ようと思ってももうそれは叶わないというのがこの曲の歌いだし。
この歌い出だしには、突然に目を覚まし現実に引き戻されたように、突然に母の死が目の前に訪れたことが重なります。
昨日までの母親がいるのが当たり前であった日常に戻りたいけれど、目が覚めてしまった夢と同じように決して戻ることはできない。
僕はこうした意味があるのだと感じました。
例によって著作権があり、あまり引用を増やしたくないので、2番はざっと大枠で捉えたいと思います。
2番はどれくらいの月日が流れたら立ち直れるのだろう、周りの人に支えられていて耐えられないわけではないけれど、どこか寂しい。
2番のAメロには、そんな気持ちが歌われています。
僕が最も注目しているのは、ここから。
2番のサビの部分です。
〈勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々〉
ここは僕の勝手な解釈ではあるのですが、この歌が「母への思い」を綴ったものであるとするならば、ここでいう勝てない戦というのは、ミュージシャンとしての自分が、同じくミュージシャンとしてかつて大活躍した母親を越えようと追いかけていた姿と解釈できます。
大ヒットを何作も出したけれど、1人のアーティストとして、圧倒的な歌唱力で人々を魅了した自分の母との間にはまだ圧倒的な差があった、と宇多田さん自身がずっと感じていた。
だからこそ「勝てぬ戦」であり、同時に追いつきたいからこそ「あなたに身を焦がした」なのかなと思っています。
(因みに「身を焦がす」は一般的に異性に対しての愛情みたいなものですが、ここでは「尊敬」の上位表現くらいの使われ方なのかなと思います。)
ここから先は基本的にずっと、あなたのことが忘れられないという気持ちを表した歌詞が続きます。
しかしながらそんな中で1フレーズだけある〈自由になる 自由がある〉という歌詞。
素晴らしいアーティストであった一方で、藤圭子さんは大変な浪費家であったということでも知られています。
一部では家族との関係がギクシャクすることがあったという噂も。
あなたを忘れられないという思いの中に一つだけ含まれたこの「自由になる」というフレーズには、ほんの僅かではあるけれど、こうしたことから開放されたという感情が表れているようにも見て取れます。
ここまでずっと歌詞についてみてきましたが、最後に「真夏の通り雨」というタイトルについて考えてみたいと思います。
ここでもやはり、藤圭子さんが亡くなったのが8月であったことを考えると、母を連想せずにはいられません。
通り雨とは不意に降ってきて、さっと上がる雨のこと。
「突然に見舞われる」ということ、そして歌詞中に出てくる「雨が止まない」という言葉を考えるとやはり、僕には母に対する思いを歌った曲であるようにしか思えないのです。
また、「ずっと止まない」ということは、コード進行からも感じ取ることができます。
この曲では一貫して、出だし、サビの終わり、Aメロの終わりにD#7(D#メジャー7)が用いられています。
この曲はマイナーコードで書かれているため、メジャーコードは違和感を与えるのに役立ちます。
そんなD#7が曲の節目節目に使われているのが印象的。
本来であればそのパートが終わる部分であるはずの最後の部分に違和感のあるコードが置かれてしまっているため、「真夏の通り雨」はそれぞれのパートがキレイに終わったように感じません。
その結果、ずっと繰り替えされているように感じてしまう。
歌詞の内容だけでなく、曲の展開からも、「降り続く雨」が表現されているわけです。
「亡き母への思い」がどこまでも丁寧に描かれた歌、それが僕にとっての「真夏の通り雨」という楽曲です。
リリックパネルという歌詞考察youtubeをやっています。
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