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【UG#1】モチベーションのディストピア

「これからの社会はモチベーションが必須になる。ただしそれは非常にネガティブな理由で」
IT技術の発達により社会が著しく変わりつつあった10年代半ば、モチベーションという言葉が注目されていた時代がありました。
その文脈ではポジティブな解釈で使われがちだったと思うのですが、僕は結論は同じでプロセスが真逆という考えでした。
すなわち冒頭に述べたように、これからはモチベーションは必須だけど、それは「無い人は切り捨てられる」という意味でというお話。

ここ数年、コロナ禍で拍車のかかったIT技術の発展および、職場や学校における各種ハラスメントや高圧的な行為に対する監視の目が強くなりつつあります。
特に後者に関してはそれで苦しむ人も多かったはずなので、良い事だと思います。

さて、僕が興味のあるのは、そうした変化を経た社会での今後の立ち振る舞い方という部分。
これまでの0と1で割り切れない非合理が許容されていた、かつ高圧的な強制力によりストレスを受ける反面だからこそ修正できた怠惰な側面というものがありました。
当然それは無駄という膨大なコストと精神的なプレッシャーという犠牲と共に...
そうしたコストと犠牲をなくしていこうという素晴らしい社会では、同時に「怠惰を矯正してれた」部分はケアしてくれなくなります。
そうなった時、能動的でない、冒頭の言葉で言えばモチベーションがない人間は大変生きづらいだろうなあというのが当時からの僕の考えでした。
ちょうどその辺について数年前にまとめたのが今回のUG記事です。よかったら読んでみて下さい。

2022/12/10 モチベーションのディストピア

落合陽一さんが世間に注目され始めた2016年くらいのころ、彼がデジタルネイチャーの時代には一歩踏み出す、モチベーションにしたがって動ける力が大事であるというお話をしていました。
僕もこれについては完全同意だった一方、落合さんの主張に関しては同意だけれど、同じくこの主張に同意している人とは少しスタンスが違うなという印象を受けていました。
「これからの時代はモチベーションが大事である」という言葉は多くの場合、「ICT技術が進歩するとさまざまな単純作業がなくなり便利なツールに溢れ、多くの情報にアクセスできるようになるから」という原因で述べられると思うのですが、僕は「ICT技術は性質上モチベーションのフォローはしてくないから」という理由で先述の主張を受け止めていました。
「技術進歩でやりたい事ができるようになる」というポジティブな要因というよりは、「今まではやる気という部分に対するフォローがあったけど、技術はそのサービスをしてくれない」という観点です。

例えばコロナの影響で、この数年で教育の分野にかなりの変化が訪れました。
学校で実施されたオンライン授業なんかはその典型でしょう。
これに関して無駄な登校が減り、しかも一流講師の授業が受けられて質も向上したという声もありましたが、これらの主張が前提としているのは「やる気に溢れた能動的な子」です。
或いはデジタルツールが導入され、間違えた問題をAIにより判別する事で、その子がつまずいている部分を見つけ出してオリジナルの問題を作成するみたいなツールも生まれましたが、アウトプットされた教材をやろうとしない子には効果がありませんし、そもそも判定するための問題をテキトーに解いた場合に出てくる教材は最適解が参考にならないことになってしまいます。
もちろんそれらのアウトプットされたものを管理する作業や動画付けする要素を人間がマンパワーで行うのであればフォローはできますが、その部分に於いては今までと変わらず、本質的に技術の進歩により根本的な問題が解決されるわけではありません。
むしろ空間という物理的な強制力がある場所に集まる場合と、画面の中の小さな空間からの声かけで、極論ミュートしてしまえば済むリモートの場合であれば、モチベーション維持やタスク管理のコストは引き上がっていると言えるでしょう。
自走できる人、あるいは周囲のサポートが潤沢にある環境にいる人にとってデジタル技術の恩恵は大きいですが、それらがない人にとってはかえって格差が広がるツールであるように思うのです。

これは学校と子供という構造だけでなく、会社と社会人という関係性においても同じです。
それまでも積極的に仕事をして、自ら能動的に価値を創出するような働き方をしていた人にとっては、ムダを削り、可能な選択肢を増やしてくれるリモートワークは非常にありがたい変化です。
一方、与えられた指示を最低限のエネルギーでこなしつつ、給料を楽しみに働くような人であれば、リモートワークはより怠惰な方向に進むための効果的なツールとして機能したに違いありません。
もちろん、そんな姿勢自体がいけないという話はもっともですが、今回はその精神の人がデジタルで救わられるかというお話なので、そこへの言及は意味がないので行いません。
会社というのはそういった人でも回るようにデザインされた組織(そうなっていないとブラック企業となる)なのでそれでも構わないのでしょうが、そういった人たちはスキルが身に付かず、長期的にみたら重大な損失を被る事になるかもしれません。

学校でも社会でもいいですが、サービスの提供サイドが個別に効率化・最適化をするということは、受け手サイドにとっては「言い訳の余地」が無くなるということになります。
例えば、対面の授業しかなく、提出も手渡しの場合であれば、実際は本人の意欲の無さに100%原因がある場合であっても「授業が分かりにくい」「提出指示なんてなかった」「途中で無くした」という言い訳が成立します。
しかし、仮に「誰もが認める最高品質の授業」と「こなせば確実に成長できるというお墨付きのある教材」と「ディスプレイに期限が明記して配信される提出課題」で学んでいる場合、伸びない責任は本人のやる気に帰着させられてしまうでしょう。
仕事の場合も同じです。
そうなった社会では「やる気」や「モチベーション」は無くてはならない能力となってしまうわけです。

僕は技術発展がもたらす世界は、全ての行動のモチベーションに対する責任を各個人が負わされつつ、さまざまな可能な事が増えていく社会だと考えています。
裏を返せば成果が出ないことややりたい事が見つからない事など、「怠惰」に対する責任も自分で追わなければいけなくなる。
もちろんやれる事が増えていくのは嬉しい事ですが、一方で「怠ける権利」はかなり意識的に確保していかなければならないように思うのです。
とくに技術発展を先端にいる人はとりわけモチベーションが高い人たちなわけですので、そういう人たちが設計する社会には「怠ける権利」という視点は生まれづらいような気がしていて、そのまま進歩が進んだ場合、彼らが望んだユートピアが、誰もに居心地のいいユートピアとなるとは限りません。
その意味でむしろそこそこの努力でそれなりに暮らしたいという人間にとっては「モチベーション」という抽象的な概念を前提とする組織に投げ込まれた上で向上心を持つ勝負にさらされるというディストピアだなと。
そんな匂いがコロナが広がるなかで一層強まった気がしたので、今回は2022年の備忘録として書き留めてみました。

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