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ほんとうの自分

ずっと、現在やこれまでの自分を部分的に否定しながら、今以上の自分を未来に探している。「今の自分は“本当の自分”ではない」と、どこかで思いながら。

その営みのことを、人は希望と呼ぶことがある。

自分探しをすれば、ずっと眠っていた、見過ごしていた、隠されていた、しかし他者から無条件で承認されるような素晴らしい才能が見付かるものだと思い込んでいる。「そうだ、これこそが自分らしさなのである」と、自己を肯定するに値する何かが、この世界中のどこかにあるのだと。

世界一周だとか断食・瞑想・マインドフルネスのような非日常や、進学・就職・転職・恋愛・結婚・移住のような生活の変化、様々な外部刺激に身を曝すことにより天啓に導かれるような体験が、いつかどこかで待っているのだと。

しかし、何故か自分探しをしている人間のほとんどは、探し当てた未知の自分が「良いもの」であるはずだと、一切の疑いを持たぬまま盲信しているように見える。探し当てたほんとうの自分が「悪いもの」であるという結末を誰も望んでおらず、誰も想定していないように。

酒を飲んだら、ほんとうの自分が、本性が顔を出すとも云う。人の社会的行動は前頭前野に位置する脳機能に依存しており、その機能がアルコールによって低下すると本性なるものが表出するというのだ。ただ、前頭前野の機能というのは「思考、判断、行動や感情のコントロール、コミュニケーション、記憶、集中」とされる。

それって、"考える葦"、人間そのものなんじゃないか。となると、前頭前野により機能していた理性的なパーソナリティもまた、ほんとうの自分であるのだろう。

ほんとうの自分、それは自分探しにより分かるものなのだろうか。それとも、酒や酩酊状態になることで分かるものなのだろうか。なんにせよ、明らかになるだろうほんとうの自分には、「良いもの」も「悪いもの」も、どちらのパターンもあるのだと思う。

自分というものは、分人や社会的性格・役割的性格のような相対的な存在の群体であり、永久不変唯一無二の個人やパーソナリティというものは幻想だ。しかし、コンピテンシー、行動や(他者の認識する)パーソナリティにつながる特性のようなものは生涯を通じておおよそ変わらないと僕は考えている。

ひとつのことに過集中して取り組み続けたり、自分のことそっちのけで他の誰かを助ける自己効力感と自尊心に溺れたり、突発的なリーダーシップをとったり、嫌なことから逃げ出したり先送りしたり、見通しや予定を立てたりスケジュール通りにこなすことが苦手だったり、周囲の指摘から自分の考えを臨機応変かつ柔軟に変えていくことに拒否反応が出て極端なこだわりに執着してしまったり――

社会に出ると、時間とともに交流する人々が変わっていき、直面する現実が変わり、生活すべてが変わっていく。それでも、変わらない特性というものがある。そして、「良い特性」も、「悪い特性」も、人の中には存在している。また、特性によっては、置かれた環境や状況次第で良いとされる/悪いとされる特性も、あるのだろう。

大切なのは、自分の特性を自分で分かっていること。自分がしたいと思うことを、自分で分かっていること。そして、自分が望む未来を拒むような自分の特性とどう向き合えば良いのかを考え続け、付き合っていくことだ。

「悪い特性」の失敗は、ほとぼりが冷めたら挽回すればいい。いつか失敗を帳消しにできるような、一発逆転の大きなサプライズがあればいい。崇高な思想とビジョンの下に不潔な精神が浄化されて、自分の人生は輝かしい人生に塗り変えられればいい――そんな都合のいい瞬間、来るわけがない。

昔、医療の世界に転職したとき「自分の人生の存在意義を、少しは塗りかえられるかな」と思っていた。でも、知った責任とか見た責任とか繋がりを持った責任とか、そういうのがドミノ倒しの様に立て続けにおとずれて余裕を無くし、度重なる失敗から抜け出せなくなっていった。そうこうしているうちに、「悪い特性」の失敗から僕は向き合うことなく、逃げ出してしまった。

ただ目の前には、これまでの自分と地続きの人生が、無限に待っているように思える。途方に暮れる気持ちにもなるだろうが、一歩々々、歩いていくしかない。

ほんとうの自分自身に向き合い、「今度こそは」と胸に誓いながら。足跡のない自らの未来に向かって、後悔の無い次の一歩を踏み出すことにこそ希望を感じられるような、そんな人間でありたい。

貴重な時間のなか、拙文をお読みいただき 有り難う御座いました。戴いたサポートのお金はすべて、僕の親友の店(https://note.mu/toru0218/n/nfee56721684c)でのお食事に使います。叶えられた彼の夢が、ずっと続きますように。