見出し画像

2024.09.02.

あれは、もう何年も前になるのか。と、思うことが増えた。僕がこの町に住んでいたのは、その仕事を離れたのは、彼が亡くなったのは、彼女が亡くなったのは、彼女と別れたのは、彼と最後に会ったのは、もう。

それはたしかにそのとおりで、何故ならば、それだけの歳月が過ぎたからで。それだけの年齢を、自分が重ねたからだ。

最近、自分の脳みその大きな面積を占有していたプロジェクトたちが終わった。もう自分は成長することなどないのでは、もうこれ以上の貢献は世の中にできないのでは、などと思っていたのだが。各々のクライアントとのとても良い緊張感と達成感の応酬のお陰で、無事走り抜けることができた。それぞれ毎回の定例会議の前日は「ううぅ~~」と呻き声が自然と出るぐらいには憂鬱で、毎度終わった後は「もう無理~~」となるぐらいには安堵と解放感があった。

何のための仕事なのか、だれのための仕事なのか。よく分からないな、と思うこともたまにあるのだが。「これは自分のための仕事なのだ」と、常に思うようにしている。それは、「これは自分のための命なのだ」と同義であるはずだ。

何を以てして、人の人生を幸せとするのか。その時々で異なるのだろうが、何をしたいのかが分からなくとも、何をすべきかが分かっているのであればそのまま歩いていくほかない。人生とは、壮大な暇つぶしである。

ミドルエイジクライシス、などと世間はいうが、まさしく中年の僕だってまあそこそこ精神衛生上は毎日が危機である気もする。しかしそれらは、永遠に重なり合わない承認欲求・自己実現欲求と自己同一性という幻想に真正面から向き合ってしまうと、人はその矛盾の苦しみに耐えられないからこそ、僕らは現実という幻にフォーカスを絞らなければならないのだ――というか、その――(ひとことでまとめると)「人生〝諦め〟こそが重要だ」ってことじゃないの?という気がしている。

男は自立を重んじ仕事や他者に役に立つ自分へのプライドを大切にする、男は家族や友人よりも仕事、地位、お金を優先する、故に孤独死(自死)する確率が高くなる――という主張の本が売れている。そこでは、現実逃避のための自己破壊行動としてアルコール、セックス、離婚というものが挙げられている。そうか。俺も例に洩れず、自己破壊行動をしていたのか。なら安心だ。それはそれとして、どちらかといえば今は穏やかな毎日をすごせていると思う。

週末歩いていて、「あゝ、食べたいな」と思ったものを食べに店に入るときの幸福。古着屋やZOZOTOWNを見て、ずっとずっと探して探して「これ、買おう」と決めて買えたときの幸福。「寝るか」と思いながら、ごろんとベッドに入るときの幸福。最近出た米津玄師の新盤に「最高じゃん」と思いながら聴き入るときの幸福。なんとなく手を伸ばして、自宅でギターを弾くときの幸福。大学時代からの友人たちと、それぞれの毎日のがんばりを「マジでくだらないよな」と笑い合うときの幸福。それぞれに、僕の幸福が詰まっている。

幸せとは、探したり見付けたり、倚りかかったりするものではなく、ただ感じるものでしかないのかもしれない。

貴重な時間のなか、拙文をお読みいただき 有り難う御座いました。戴いたサポートのお金はすべて、僕の親友の店(https://note.mu/toru0218/n/nfee56721684c)でのお食事に使います。叶えられた彼の夢が、ずっと続きますように。