二元論と無限論

異質で相互に還元不可能な2つの原理を基礎とする宗教的世界観や哲学説などのこと。

 二元論とは、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』にて上のように記されている。善と悪、というのがその引き合いによく出される。「この世には二種類の人間がいる。……」というのも二元論と言えるかもしれない。

 人は二元論が好きだ。とにかくわかりやすいからだ。
 A-B二元論というのがあったとき、「Aか、さもなくばBだ」と言える。これは言い換えると「Aか、そうでないか」の議論になるので、要素としては一つしか無いのと同じだ。ON/OFFのスイッチと同じ。選択肢は2つだ。
 でも実際は、スライダースイッチのように、その間のどんな状況にもなりうることが多い。0か1かだけかと思っていたら、0.5や0.23もあった、ということだ。こうなってくると、ちょっと難しくなる。選択肢が無限個になるからだ。

 もう少し考えていくと、実はその二元論だけでは語りきれなさそうなことに気づいてくるだろう。AかBということのほかに、CかDという要素も考えるべきではということになってきたりするのだ。すると、A-B軸とC-D軸という二軸のマトリクス図(下図)を描いて考えることになっていく。

 たとえば、歩行者信号について論じるときに、人々がどのように考えているかをまとめるため、「運転免許証を持っているか否か」を用いたとしよう。持っているか持っていないかではっきりするので0か1の二元論だ。しかしペーパードライバーとタクシー運転手を一緒に考えることはできないので、さらに「普段自動車をどのくらい運転しているか」という軸をを追加するとしよう。こちらは時間によって度合いが決まるだろうから、中間の値がありうる(下図)。

 では増やすべき軸はそれだけだろうか?
 年齢や性別が重要な軸となることがあるかもしれない。でも三次元に生きる我々には、三次元よりも多い次元のマトリクスを考えるのは難しい。居住地が重要なことがあるかもしれないが、これはそのままでは軸では表せないだろう。
 重要かどうかは置いておいて、軸や要素といったものは無限に考えることができることがわかる。仮に重要さを無視してあらゆる軸を加えていったならば、どうなるだろう。そんな状態は我々には理解できない。

 結局、そういった“軸”なんてものは存在しなくて、本当にあるのは、相互に作用し空間を満たす“モノ”だ。あらゆるモノだ。不均一極まりない世界だ。
 ちょっと急に何言ってんですかね……って感じかもしれないが、たとえば本屋さんに平積みされている新刊の一番上の一冊と、その下の一冊は、別個体だ。重さはほんの僅かに異なっているだろうし、きっと別の木から、もしくは同じ木であっても別の部分から作られた紙が綴じられているだろう。
 言いたいのはそういう屁理屈みたいなことで、互いに異なるもので満たされているのがこの世界だということだ。不可分で単一だが不均一な何かで満たされていると考えてもいいかもしれない。(自分の端っことは?自己と他者の境目は?みたいな話にも繋がりそうだ。)

 でも我々にはそんな無限の世界をそのままには理解することができないから、数を減らすために、要素からいくつかを組み合わせて“軸”らしきものを作って、無限に考えられる軸の中からいくつかの軸だけを使って考える
 すべての人をそのまま、無限の軸を持ったまま理解することはできないから、運転免許証を持っているかどうかで区分けをしたりしているわけだ。
 そうやって作った究極的な軸が二元論だ、ということなのだろう。

 だから、大切なのはその軸が、それを論じるにあたって適切かどうかということと、その軸はあくまで無限に存在する軸の中のひとつに過ぎないということだ。

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