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新日本プロレス史#13【2000年代後半】

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ユークスの子会社化

格闘技路線と相次ぐ退団による経営不振で、
新日本プロレスはいよいよ倒産の危機に直面し、
2005年にはゲームソフト会社のユークスに身売りされることとなります。
ユークスは、アントニオ猪木の所有する株を全て買い取り、新日本はユークスの子会社となった
とともに、これで名実共に猪木から脱却します。

一般企業による運営に変わり、ユークスがまず
おこなったのは、徹底したコストカットでした。
これまでのプロレス団体の運営は、殆どが選手によるものであり、経営も不透明でどんぶり勘定
だったと聞きます。
そこでユークスがおこなったのは、選手の大量
リストラです。
プロレスラーは正規雇用ではないので、リストラという表現は適当ではありませんが、ファンの間
では、新日本初のリストラとして、物議を醸し
ました。

また、一方で、他団体の選手も積極的に迎え入れるようになります。

元WAR、WJの石井智宏
元全日本プロレスの石狩太一(現:タイチ)
元大日本プロレス、全日本プロレスの本間朋晃
元闘龍門のミラノコネクションATと岡田和睦
(現:オカダ・カズチカ)

等です。
これらの選手達の入団と、その後の活躍は、
ユークス時代の一番の功績かもしれません。

原点回帰

この時期、もうひとつ変革があったのが、
プロレスの原点回帰だと思います。
脱猪木により、それまでの格闘技路線による試合は、徐々に減っていくこととなります。

また、その背景には、総合格闘技界も衰退して
いったことも大きな理由としてありました。
2000年代前半は総合格闘技の全盛期でしたが、
結局のところ、総合格闘技の興行を盛り上げて
いたのは、高田延彦、船木誠勝、桜庭和志、藤田和之、高山善廣、安田忠夫といったプロレスラーでした。
私見ですが、プロレスと総合格闘技は興行面では
共存関係にあり、プロレスの衰退が総合格闘技の衰退に繋がっていったと考えています。
一見、プロレスが総合格闘技に対して劣勢に
見えていたようで、格闘技界の屋台骨を支えて
いたのは、結局、プロレスでした。

ともかく、2000年代後半の新日本は、それまでの格闘技路線から徐々に脱却し、棚橋弘至、中邑
真輔を新たなメインイベンターとして起用して
いきます。
当時のまだ若い棚橋、中邑に課せられた責任は、かなり重いものだったと思いますが、第三世代に続く選手を育てていくのも急務でした。

100年に1人の逸材

総合格闘技に適正があり、強さを前面に出して
きた中邑に対し、棚橋もまた違ったアプローチでメインイベンターへの道を進んでいきました。
棚橋は、2006年にはIWGPヘビー級王座初戴冠、
翌2007年には第17回 G1 CLIMAXを初優勝し、
実績も伴いながら、独自のキャラクターも築いていきます。
棚橋は自らを「100年に1人の逸材」と称し、
かっこ良さとチャラさをアピールしました。
また、「愛してます。」を初めとしたファンへの
アピール、勝利した後のファンとの記念撮影等、
ファンとの距離も縮めていきました。
それまでのプロレスラーは、神格化された
イメージを大切にしており、ファンとは一定の
距離を保つのが当たり前で、ファンに対して
マイクでお礼を言うなどというのは、ファンに
媚びる行為として御法度とされてきました。
が、棚橋はそんな禁を次々と破っていきました。
結果、会場には女性や子どものファンも着実に
増えていき、新たなファン層の開拓に成功して
います。

WRESTLE KINGDOM

2007年1月4日の東京ドーム大会は、新日本プロ
レス、全日本プロレスの創立35周年大会として、「レッスルキングダム」がおこなわれました。
記念すべき第1回大会です✨

そこには、本来の明るく楽しいプロレスの姿が
ありました。

メインイベントが、
武藤敬司(全日本)、蝶野正洋(新日本)
vs天山広吉(新日本)、小島聡(全日本)

当時は新日本と全日本との混成タッグだった
ため、ドリームマッチと銘打たれました。
長く新日本を見てた私のような人間にとっては、全員新日本出身の懐かしさのあるカードでした。

また、闘魂三銃士のもう1人の盟友であった橋本
真也が前年に亡くなられており、試合では、武藤と蝶野が相次いで橋本の技を繰り出したことが、
感動を呼びました。

また、セミファイナルが、
IWGPヘビー級選手権
棚橋弘至(新日本)vs太陽ケア(全日本)

ケアの大技攻勢に防戦一方の棚橋でしたが、ケアの技を受けきった上で棚橋が勝利しました。
私的には、この試合が当日のベストバウトです。そこには、メインイベンターとして成長した、
頼もしい棚橋の姿がありました。

当日の観客数が28000人。
当時は実数発表ではないので、ハッキリ言って
入りは良くありません。

このように、2000年代後半の新日本は、未だ低迷期でしたが、棚橋や中邑等の次世代の活躍は、
現在の復興を予感させるものでもありました。

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