最近考えていたことの総まとめと、櫻坂46三期生おもてなし会。

最近考えていたことの総まとめから始めます。

君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな

『サイレントマジョリティー』 欅坂46

らしさって一体何?

『角を曲がる』 欅坂46

……まぁ、そういう感じの話です。


・自分らしさ、個性、自由意志について

僕たちが生活している今、この世の中はどうやら、こういった類の概念をとても大切にし、絶対に侵されてはいけない確固たる存在として扱うことを当たり前とする傾向が強い。世界はその讃歌で溢れているし、つい先日公開された映画『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』は『僕らの「らしさ」が世界を救う』というキャッチコピーどおり、まさにそういったテーマを取り扱うものだった。

しかしこういった類の概念は実際のところ、とても曖昧だ。

なにが曖昧なのか。

それは出所だ。
これらの概念について少しだけ言葉を付け加え、情報を足してみる。

僕たちはこれらの概念を、自分という存在の中にゼロから現われてくるなにか、自分という存在の中に最初からあるなにか、周囲との関係が一切無いなにか、そのようなものとして捉える。だから、それは一人ひとり違うもの。だから、貴重なもの。だから、大切にしなきゃいけない。だから、周りに影響を受けちゃいけない。だから、流されちゃいけない。

これらの概念をどう扱うかについて、世の中の方針は大体こんなところだが、さて、この捉え方は妥当なのか。

・脳神経科学から分かること

現実は甘くない。

私は歩く、について。歩きたい、と、ふと思ったから歩いてみる。

ほら、自由意志あるじゃん。

否。ふと、それを思ったコンマ数秒前、脳はすでに電気信号を足に送っていることが最新……でもない脳神経科学によって実証されてしまっている。

また、人間は世界から莫大な量の情報を受け取っているが、それらのほとんどは無意識下で咀嚼され、意識下まで昇ってくる情報なんていうのは、そのうちのほんの上澄みだけらしい。お昼ごはんに何を食べるか、家に帰ったら何をするか、選挙で誰に投票するか、どんな音楽が好きか、どんな絵を描くか……それら全ては、自分という存在の中にゼロから現われてくるなにかなどでは決して無い。

全ては外部から受け取った夥しい量の情報によって引っ張られている。しかし、僕たちの意識はとても大雑把にできているから、体内を駆け巡る情報のほとんどを感知することができない。それらは無意識下で動いている。信じたくはないけれど、ビックデータの解析によってそれらは容易に可視化できてしまうようで、実際に選挙戦や広告などの分野では実用化もされているという……

なるほど。自分という存在の中にゼロから現われてくるなにかなんてものは無いらしい。つまり、僕たちはif~then構文の羅列でしか無い。

がっかり。

というか、それじゃあ最初に記したようなことって全部嘘っぱちじゃん。

あれ……?

・無難そうな落としどころを探す

そうは言ってもさぁ、ということで、色々と調べてみた。自由意志はあるのか?ないのか?そんな類の話はずっと昔から行われているだろうから、だから、ひとまず調べてみる。

そして、良い感じの本に出会った。

『中動態の世界: 意志と責任の考古学』著者は哲学者の國分功一郎。彼はスピノザやアレントなどを参照しながら、「意志」なる概念を取り巻くあれやこれを、僕たちが思考するにあたり欠かせない「言語」という側面から、その中でも「文法」、それも中動態と能動態を対立させるパースペクティブを活用して紐解いていく。中動態ってなんやねんって話をここで始めると長くなるので、ひとまず「主語が過程の内部にある動詞」とすんげえめちゃくちゃ大雑把に捉えてもらいつつ、先へ進む。
(※この本、すーげーオモシロイので絶対読むべき!!)

肝であるスピノザについての話を引用。

われわれの精神は物事の結果のみを受け取るようにできている。だからこそ、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまう。

國分功一郎. 2017. 『中動態の世界: 意志と責任の考古学』. 医学書院. p.31

たしかにわれわれは外部の原因から刺激を受ける。しかし、この外部の原因がそれだけでわれわれを規定するのではない。この外部の原因はわれわれのなかで、afficiturという中動態の意味をもった動詞表現によって指し示される自閉的・内向的な変状の過程を開始するのである。

國分功一郎. 2017. 『中動態の世界: 意志と責任の考古学』. 医学書院. p.251

同じ刺激を受けたとしても、個体ごとに変状の仕方が異なり、また同じ個体であっても時と場合によって別の仕方で変状しうるという事実は、われわれをして次のような能力を想定させる。すなわち、外部からの刺激に応じて変状をもたらす能力、言うなれば、〈変状する能力〉である。

國分功一郎. 2017. 『中動態の世界: 意志と責任の考古学』. 医学書院. p.253

このあたり、解釈としてとても妥当そうな感じがする。

先ほどの脳神経科学の話題を組み合わせて、噛み砕き、平たくして、自分なりに纏めてみると、以下のような具合になりそう。

人間は外部から刺激を受け、その刺激を無意識下で咀嚼する。咀嚼の産物は意識下まで昇ってくるが、僕たちは無意識下のことを認識できないので、コレを自分という存在の中にゼロから現われてくるなにかとして認識してしまう。if~then構文のifの部分を僕たちは認識できないから、thenの部分をifと勘違いしてしまう。

なるほど、これが自分らしさ、個性、自由意志といった概念の真なる姿ではなかろうか。

さらに付け加える。咀嚼の仕方(if~then構文)は人それぞれ異なる。だから、同じ映画を10人が観たら10通りの感想が現れてくる。そしてここからがポイントで、咀嚼の仕方それ自体も外部からの刺激を受けて常に変化していく。だから、同じ人間であっても、時と場合が変われば違う感想を持つ。

おぉ。これはだいぶスッキリ。

何がモヤモヤしていたか。自分という存在の中にゼロから現われてくるなにかなんてものは無いよ、と科学的な目線で言われたところで、そうは言ったって、僕たちは、自分という存在の中にゼロから現われてくるなにかを認識するじゃねえかという話。そして、咀嚼の仕方(if~then構文)自体は僕たちひとりひとり固有に与えられたものなんじゃないの?という話。

ここまでの解釈であれば、それらは綺麗に解決する。分かった、分かった。自分という存在の中にゼロから現われてくるなにかなんてものは無い。認めましょう。僕たちは何事においても外部からの影響を存分に受けています。

・問題はここから

ここまでを踏まえて、今の世の中に蔓延る「ゼロから現われし自分らしさを大切に」の信仰を考えてみたい。

端的に言って、これはあまりよろしくないのではないか。

なぜならこの信仰は、人間は何事においても外部からの影響を存分に受けている、という事実を完全に包み隠し、それだけならまだしも、自らの中に神的存在を措定するものだから。

そして、それを盲信し、絶対視した際の必然的帰結は、社会があってその中で自分は常に形成の過程におかれる、という、冷静になってみればこれこそ当たり前だと思われる視点の欠落。

いや、これはまずい(と僕は思う)。

みんながみんな自分の中に神(=絶対的な存在)を宿して、もしそれが対立したらどうなるか。それはもう片方を消し去るもしくは断絶するしかなくなってしまう。譲歩しあってそれなりの落としどころを見つけ出す、なんて選択肢はありえない。なぜなら、お互いが絶対的な存在だから。

なるほど、最近、やたらと我が強くてワガママで周りを見ない、俯瞰して自分を見ることができない、平たく言ってしまえば幼稚な人間が多い印象を受けるが、その根本はこういうところにあるのではないか。僕たちはそろそろ、今流行りのこの信仰に対して距離を取り、冷ややかな目を向けるべきではないだろうか。

~~

・話題を櫻坂46へ

最近考えていたのは、そんなこと。さて、なぜ自分はこんなことをつらつらと考えてきたのか。

それはこれこそが、自分がここ数年、櫻坂46をしっかりと咀嚼するためにその前身たる欅坂46を改めて咀嚼しなおし、その変化を捉えるうえで扱わねばならなかった話題、避けて通ることができなかった話題だからだ。

そして、以上がそのひとまずの総まとめ。

自分らしさを錯覚し、それゆえに他者を否定する、もしくは社会を拒絶する、開き直って森へ帰る、身動きが取れなくなって、ひとり、角を曲がる。歪んでしまった欅坂46という青の時代。

そこから一歩だけ足を進め、社会との関わりの中に身を投じることにはまだ抵抗があるものの、その重要性を認識し、関心を寄せ、生じる摩擦を不器用ながらも肯定的に捉えようとし、そして、仲間を尊ぶ歌を紡ぐ櫻坂46。

そんな櫻坂46に、今年、11人の三期生が加入した。

・櫻坂46三期生おもてなし会

2023年、3/4~3/5の2日間、彼女たちが初めてファンを前にして舞台に立つイベントが開催された。初々しさとエネルギッシュさに溢れた彼女たちは、加入してまだ間もないとは到底思えないクオリティのパフォーマンスを存分に披露し、自分はたたただ驚くばかり。

そしてイベントの終盤、11人はそれぞれの持つ思いをスピーチした。

……これまた驚かされてしまった。そこにはまさに、ゼロからではなく他者から、社会の中から中動態的に形成されていく「自分」を噛み締め、その自分が身を投じることになったコミュニティの強い相互性を認識している11人がいたのだ。

どうやらそういう素地のある人間が選ばれていたらしい。

自分の居場所を見つけ見いだされて安堵の涙を流す人間がいた。それを受け止めきれない自分を「弱い」と評して悔しさの涙を流す人間もいた。

「自分らしさを出せるように~」といったありがちな言葉を、何の注釈もなく当たり前のように口にする人間は、なんと、一人としていなかった。

嬉しかった。

なぜ嬉しかったか。
櫻坂46が届いているな、と感じられたからだと思う。

未来は明るい。
櫻坂46三期生、そして櫻坂46のこれからが楽しみで仕方ない。

以上。

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