櫻坂46『静寂の暴力』について。静寂の多義性と、その表現について。

騒音はこんな感じだ。でも、ここにはもっと恐ろしいものがある。静寂だ。(中略)すべての人が立ち尽くし、肩をすくめ、額に皺を作って、恐ろしい崩壊の瞬間を待っている。ここでの静寂はそんなふうなのだ。

ライナー・マリア・リルケ.訳:松永美穂.マルテの手記.
光文社古典新訳文庫,2014,p.14


『静寂の暴力』を『サイレントマジョリティー』と重ねて咀嚼するというアプローチは既に多くのファンによって行われているが、自分も、それに乗っ取る形で歩みを進めていこうと思う。櫻坂46は過去(欅坂46)に扱った事柄について、異なる視座からの景色を描き、それを多層化する傾向があると感じていて、それはこの楽曲についても多分に当てはまると思うからだ。

表現者と観客。過去から未来へと一方向に流れていく時間的拘束のもとで、両者は常に変化する。「子ども」から「大人へ」。

であれば、同一のテーマが表現されるに際しても、その消化のされ方にズレが、変化が生じるのは必然と言えよう。

~~

今さら言うまでもないが、欅坂46(所謂欅坂46的なもの)において描かれる登場人物の視点は「子ども」であることが多い。他者との軋轢に悩むさまが描かれるにあたり、そこには広い意味での他者(自らの思いどおりにならない存在)を否定しようとする側面が強調されがちだ。他者を否定し、自らを守る。

しかし、他者を否定したところで、世界はそれでも無視して回る。

この変えようのない事実を受け入れながら「子ども」は「大人」になっていく。なっていかざるを得ない。

(所謂欅坂46的なものの行き止まり、8thシングル『黒い羊』のカップリング曲として収録された『ヒールの高さ』は、その経過を諦念として悲観的に描いた楽曲だと読むことができる。)

「大人」の領域へと足を踏み入れた櫻坂46による表現。それは、1stシングル『Nobody's fault』、2ndシングル『BAN』における三本柱を見れば明らかなように、所謂欅坂46的なものからの離反として捉えられる。

「子ども」から「大人」への変化は避けて通ることができない。であれば、他者の否定はナンセンスだろう。他者の存在を認め、受け入れ、しかし屈服するのではなく、向き合い方を模索する。他者に囲まれたこの世界をなんとか生きていこうとするさま。

櫻坂46の表現に通底するのは、そういうグラデーション的な「リアリティ」なのである。

~~

話題を『静寂の暴力』にフォーカスしよう。

『静寂の暴力』。

その歌詞の中で「静寂」という状況は、主人公における認識の変化のうちで多角的に表現される。「静寂は一つの暴力だと思う」から「思考を停止させる 静寂は暴力だ」に至るまでの経過。ここに『サイレントマジョリティー』の超克を読み取ることができそうだ。

君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな

欅坂46『サイレントマジョリティー』

「物言わぬ多数派」たる彼ら彼女らに、発言と行動を促す楽曲『サイレントマジョリティー』。この楽曲は歴史の教科書において民主主義との関連で掲載されたことがあるらしいが、なるほど確かに、民主主義の持つ難しさがそこには表れている。

まず、我々は前提として、民主主義は難しい、ということを認識しなければならない。ウィンストン・チャーチルの有名な言葉に「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」というものがある。民主主義は他の政治形態に比べたらマシだというだけであって、手放しに称揚できるような類のものでは決してない。それは民主主義の起源とされる古代ギリシャのポリスにおいて、そこに住まう市民に求められた厳格な要素や、前提とされていた奴隷の所有などについて、少しでも調べてみれば分かる話であろう。

『サイレントマジョリティー』はそういう意味において極めて素朴な楽曲と言える。「君は君らしく生きていく自由があるんだ」「君は君らしくやりたいことをやるだけさ」というスローガンの空虚さはもはや言うまでも無いことだし、加えて、そんな空虚なスローガンに触発された人間、手綱の解かれた人間たちが民主主義の名のもとに無秩序的に描いていく世界がどうなっていくのか?という側面について、この楽曲は無責任なのだ。バラバラな意見がバラバラなままでは、社会はどうやったって、成立しない。

物言わぬこと、行動しないこと、即ち「静寂」を否定的にのみ捉え、そこからの離脱を称揚する『サイレントマジョリティー』。しかし「静寂」には否定的な側面しかないのだろうか。

喋りたい願望を捨てて 沈黙を愛せるか?

櫻坂46『静寂の暴力』

どうしても考えてしまう

櫻坂46『静寂の暴力』

こういった話題について考えるにあたり、「悪の凡庸さ」を探るハンナ・アレントの議論は役に立ちそうだ。

この沈黙のうちでみずからとともにあるという存在のありかたを、わたしは孤独と呼びたいと思います。ですから孤独とは、一人であるその他の存在様態、とくにもっとも重要な孤立と孤絶とは異なるものです。

ハンナ・アレント.編:ジェローム・コーン.訳:中山 元.責任と判断.
ちくま学芸文庫,2016,p.162

20世紀に起きた様々な政治的危機。アレントはその中で、人々の間から道徳性が崩壊していく様子を捉えていた。ナチスによる統治のもとでドイツ社会のあらゆる階層の人々が殺戮計画に強力し、そして戦後、ドイツ国民が通常の道徳性に突如回帰したという事実。それらを踏まえながら「道徳」や「良心」といった、これまで形而上学的な領域を依り代とされがちだった概念について切り込みを入れていく。今回、ここで注目したいのは『責任と判断』に収録された、『道徳哲学のいくつかの問題』第三講、人間が一人でいるときのありようには孤独、孤立、孤絶の三種類があるということを説明する箇所にある。

孤独は一人でいるのに、それでいてほかの誰か(すなわちわたしの自己です)とともにいることです。それは<一人のうちで二人>であることです。これに対して孤立や孤絶にはこのような自己における分裂はありません。この分裂した状態では、わたしはみずからに問いかけ、答えをうけとることができます。この孤独と孤独のうちでの活動、すなわち思考の営みは、ほかの誰かから話しかけると中断されます。

ハンナ・アレント.編:ジェローム・コーン.訳:中山 元.責任と判断.
ちくま学芸文庫,2016,p.163

ここでは、一人でいること、即ち「静寂」が、自らとの対話である思考を促す場として肯定的に捉えられている。

灯りを消した
部屋の天井は
心の声 聞いてくれる

櫻坂46『静寂の暴力』

アレントはこの後、「思考は孤独な場で営まれるので、他者とともに行動するための積極的な掟を示すことはできない」(p.201) という、否定的な側面も合わせて提示したうえで、内向きの矢印を外向きにしていく要素、人間が持つ意志という能力、判断という機能についての考察の方へ歩みを進めていく。その道のりを辿ることは本筋から逸れるためここでは行わないが、この過程の中で見出しとして用いられる「複数性」という言葉(p.229)については、『静寂の暴力』という楽曲を捉えるにあたっても非常に重要だと思われるため、忘れずに拾っておきたい。

人間の「複数性」。

啓蒙の果てに形而上学を克服した我々、形而上学に頼ることができなくなった現代の我々において、人間の条件である「複数性」をどのように捉えていけば良いのか、という問題はあまりにも重大だ。神との接続無しに、他者との連帯は如何にして育まれるのか。我々は他者とどう関わっていった方がより良くなれるのか。

主観的な視座から、間主観的な視座へ。

哲学者の言葉を引用するまでもなく、他者との連帯のためには他者を他者として、それも否定的ではない形で認識する必要がありそうだ。しかし往々にして我々は、他者に対して無関心になる傾向がある。

この世には自分以外の
何者かいて 騒いでるから
人の気配にホッとするんだ
一人じゃない そう信じたい

櫻坂46『静寂の暴力』

なるほど。

「静寂」は自らとの対話、思考を促すだけでなく、人間は他者を前提としている、他者がいなければそもそも自分がいられない、という、代えがたい事実を我々に突きつける。

世界の中で無意味となる不安。そんな当たり前の事実を有耶無耶にするこの日常は、少し騒がしすぎるのかもしれない。そしてそれを、接続過剰の常態化に伴う意識の欠如と捉えることもできそうだ。

呼吸さえできないほどの「静寂」。

『サイレントマジョリティー』と重ねて読むのであれば、そこから同調圧力という意味を汲むこともできる。しかし「静寂」には否定的な側面しかないわけでは無い。

普段見落としてしまいがちな他者(それは文字通りの他者であり、自らのうちにある自己という他者でもある)を捉えられる場としての「静寂」。とはいえ、人間が、ヒトではなく複数性を前提とする人間である以上、その「静寂」に居続けることはできない。ゆえにもがき、自らの存在を主張する。せざるを得なくなる。「静寂」の多義性。

私から何を奪うつもり?
思考を停止させる 静寂は暴力だ

櫻坂46『静寂の暴力』

だからこそ、本楽曲の結びとなるポエトリーには「思考を停止させる」という条件が付されるのかもしれない。

~~

静寂という名の音が存在する

櫻坂46『静寂の暴力』

ライブにおける『静寂の暴力』は、言葉を、パフォーマンスと演出によって強く引き立て、観客の身体に深く刻み込んでいく。

しかしそれだけではない。

我々は意図的に延長された間の中で、会場を吹き抜ける風の音と演者から漏れる吐息を強く認識し、他者を、世界を、自らをまざまざと感じ取る。その刹那、演者は記号的側面を後景に退け、一人の生身の人間としてステージの上に立っているように、見える。

idolから人間へ。そしてまたidolへ。

ライブという祭りのうちに小さな亀裂が走り、そこから現実が顔を覗かせる。鋭いナイフとしての『静寂の暴力』。

静寂。緊張感。甘美であり、抑圧的。

この世界は騒がしすぎて、色々なものが見えなくなりやすい。そのうちにおいて『静寂の暴力』を直接に体験できることは、ひとつの贅沢だと思う。

最後に。

本楽曲はパフォーマンスに際して、観客がペンライトを消灯するという試みがなされる。立案こそ演者側にあるものの、それは観客に強制を伴うものではもちろん無い。知らない観客もいるだろう。ゆえに、全員のペンライトが消えることは無い。こういった事情について、SNS上には強めの語彙を用いて否定的な意見を表明する観客が一定数いる。

平等は人を同胞市民の一人一人から独立させるが、その同じ平等が人間を孤立させ、最大多数の力に対して無防備にする。

アレクシ・ド・トクヴィル.訳:松本礼二.アメリカのデモクラシー 第二巻(上).
岩波文庫,2008,p.30

「ペンライトを消さないヤツは、Buddiesではない」

「静寂」の暴力性。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?