「今」の櫻坂46について自分が思うことをようやく整理する。 ~櫻坂46 1年目編

前回のnoteにて今の自分が思う欅坂46についてのアレコレを書いたので、ようやく櫻坂46の話に移れる。

引き続き今回も主観全開。「私はこう見ました・思いました」というのを中心に進めていく。どうやったところでメディアというフィルター、自分というフィルターを通して変形された情報を、自分が切り取り、並べ、繋ぎ合わせ、さらには自分が選んだ言葉使いで言語化していくことにならざるをえないのだから、そこには客観性なんてものは存在しない。というかそもそも厳密な意味での客観性など確認のしようがないのだから、であればと自分は開き直りの姿勢を貫くことにする。例のごとくあしからず。

なお、コレが前提となるので、本noteを読む場合はこちらから。

前置きはこれくらいにして本題へ。まずは櫻坂46デビューシングル表題曲『Nobody's fault』から始めていく。

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『Nobody's fault』

……さっそくだが、この楽曲を初めて聴いたときの印象はあまり良ろしくない。歌詞の内容がまったく呑み込めなかったのだ。

『サイレントマジョリティー』で幕を閉じた欅坂46『THE LAST LIVE』。エンドロールのラスト「Total Producer 秋元康」の文字列を眺めながら、次はちゃんとプロデュースしてくれよなぁ、なんて無責任なことを思いつつ余韻を味わっていたのもつかの間のこと。櫻坂46デビュー曲『Nobody's fault』は始まった。

No, no, no, 他人のせいにするな
鏡に映ったおまえは誰だ?
勝手に絶望してるのは
信念がないからだってもう気づけ!

『Nobody's fault』櫻坂46

正直、何を言わせているんだお前は、となった。前回書いたように、あの当時の自分には「グループが改名するに至った原因はすべて運営にある」という認識があったため、心機一転リスタート的な位置づけであろうデビュー曲の歌詞がコレというのは、なんだか運営の開き直りのように思えてしまったというワケである。曲調やパフォーマンス自体はカッコ良いし好みなのだが、自分が思っているグループの状況とのちぐはぐさが気になってしまい、認識が変化するまではなかなかノることが出来なかった。

さて、改名後は制作体制が大きく変わり物議を醸していたが、自分においては、それについての抵抗はあまり無かったように思う。1枚のシングルに表題曲を含めて合計3曲のMV付き楽曲を用意し、それぞれに別のセンターを据える。前8人を固定(櫻エイトと呼称)し、後ろ8人を入れ替えるというやや特殊な選抜システム。

なるほど、全員選抜だとごちゃごちゃしすぎる人数帯になったから選抜システムを採用。欅坂46時代の反省を活かしてセンターを分散し、とはいえ基本的な柱自体は構築したいから、と前8人は固定化する。無難な落としどころのように受け取れた。

・森田ひかるセンター楽曲
  Nobody's fault(MVあり)
  最終の地下鉄に乗って
  ブルームーンキス
・藤吉夏鈴センター楽曲
  なぜ 恋をしてこなかったんだろう(MVあり)
  Plastic regret
・山﨑天センター楽曲
  Buddies(MVあり)
  半信半疑

そして、これが2020年12月9日発売、1stシングル『Nobody's fault』の全体構成。当時、困惑してしまったのを覚えている。表題曲を除いた3本柱の残り2曲が恋愛讃歌と仲間讃歌、おいおいどうしちまったんだと。イイカンジにケヤカス(欅坂46オタクの蔑称)っている。カップリング曲もなかなかのラインナップで、正直なところロクに向き合おうという気すら起きなかった。『最終の地下鉄に乗って』は初見で唯一ピンときた曲だが、「欅坂が好きだった人は気に入ると思う」みたいな話をどこかで森田ひかるがしていて、なるほどなとなったことは今でもよく覚えている。

自分の中から「欅坂46」らしい欅坂46という「幻想」を求める心が抜けておらず、自分でもそれは薄々分かっていたので、なるほどコレはこちらの心持ち・見方を変えていかなきゃいけないんだな、そういう1stシングルなんだな、というようなことを、発売日前夜に行われた「櫻坂46 デビューカウントダウンライブ!!」(無観客・映画館にてライブビューイング)を観ながら感じた。楽曲がずっとこの路線でいくなら、ライブにガンガン行く楽しみ方は難しいかなぁ、でもメンバーのことは好きだしなぁ、というようなことを帰り道で思っていた。

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続いて、2021年4月14日発売の2ndシングル『BAN』。1stシングルから半年弱経ち、リリースされた合計14曲を踏まえ、自分においては、ようやく「欅坂46らしい」欅坂46への未練のようなものが抜け、櫻坂46の見方・解釈ができ始めた時期になる。

・森田ひかるセンター楽曲
  BAN(MVあり)
  君と僕と洗濯物
・藤吉夏鈴センター楽曲
  偶然の答え(MVあり)
  Microscope
・山﨑天センター楽曲
  思ったよりも寂しくない(MVあり)
  それが愛なのね
・全体曲
  櫻坂の詩

なるほど、このグループは今、積極的に色々な方向性の楽曲に取り組んでいこうとしている時期なんだなという気づき(ようやくかよ)。なぜか。それは「欅坂46らしさ」に縛られてしまった欅坂46の二の舞を防ぐため、そして櫻坂46としての可能性を色々と模索するためで間違いない。

前回のnoteで書いたような、欅坂46改名に関する解釈のひな形はこの時期にできている。そしてこの時期まで自分が持っていたグループに対する目線についての気づき、さらには「罪悪感」のようなものもこのあたりから。

「ずっと見守るということ、と思います。それこそ、点じゃなくて、長く続く線で。」

僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46
TAKAHIROの台詞より

この言葉についての解釈が変わり、ぐさぐさと突き刺さるようになる。まだ始まったばかり。見守り続けけなきゃいかんでしょ。そういう心持ち。

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6月16・17・18日に3列目メンバーのみで行う「BACKS LIVE!!」、7月9・10・11日には全員参加かつ日向坂46との合同ライブ「W-KEYAKI FES.2021」が開催。感染症対策によるイベント制限の影響から、1stシングル発売から半年以上経ってようやくの有観客ライブ。もちろん行きましたとも!!

彼女たちは過去に披露してきた欅坂46名義の楽曲すべてを封印し、櫻坂46名義の楽曲だけでライブを行った。

ライブコンセプト的に「BACKS LIVE!!」は問題無いが、「W-KEYAKI FES.2021」の1日目、櫻坂46単独公演については非常に大変だったと思われる。まずシンプルな話、普通にパフォーマンスすると尺が持たない。曲が少ないのでそれはそう。また、偏ったフォーメーションの曲しか持っていないというのも大きな問題である。なにせ会場がとても広いので、複数個所に設営されたステージを使用する必要がある、曲ごとにメンバーが大きく移動する必要がある。しかし、前8人はすべての曲に参加するシステムなので、曲の最中に次の曲のメンバーがステージ裏に待機しておいて……といった方法も取りにくい。結果、尺の問題と移動の問題は、ほぼすべての曲の間にダンストラックを挟むという荒業で乗り切ることになった。

このライブは改名後にメンバー全員で行う初の有観客ライブだったことから、メンバーの気迫は十二分。手元にある櫻坂46名義の楽曲すべてを使い、できる限りのパフォーマンスを行った。都合上どうしてもちぐはぐなライブ構成にはなってしまう、それでもなんとか持てる手札でやってやろうというメンバーの力強さ。地の果てのような座席からではあったが、それがばっちり伝わるライブだったと思う。『Buddies』ラスサビ前間奏、山﨑天の演説に心を打たれたことは今でも鮮明に覚えている。

この日からファンの呼称が「Buddies」になった。

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こうしてグループの方針について自分なりに消化ができ、心持ちが切り替わり、現地でライブも観たとなれば、楽曲やパフォーマンスに対する解像度もぐっと上がる。なのでここで少し脱線して、このあたりの時期に感じた1st・2ndシングル楽曲についてのアレコレおよびセンターを務めた3人についての話を少し書いておこうと思う。

まずはじめに、藤吉夏鈴センター楽曲『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』について。櫻坂46の可能性の模索という意味では、この曲が1stシングルの3本柱の一角として用意され、そのセンターに藤吉夏鈴が抜擢されたというのは非常に大きなポイントだと思う。彼女は2ndシングルでも『偶然の答え』のセンターを担当し、その後、外仕事として恋愛ドラマの主演を務めるまでに至る。

『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』はシンプルに恋愛讃歌と捉えても良いが、要所要所の言葉回しやMV・ライブ内で取り入れられる演出のメタファーを加味すれば、もっと大きな枠組みで解釈できる曲ではなかろうか。

でも恋をしてみてわかったんだ
人は何のために生きるのか?
巡り合って 愛し合って 無になって
自分じゃない ホントの自分 見つけたい

『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』櫻坂46

幸せは 参加すること

『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』櫻坂46

メンバーが持つ沢山のロープに絡められ、左右に揺さぶられる藤吉夏鈴という演出(しかも楽しそうな笑顔で!)、MVの舞台である螺旋階段。恋愛讃歌にしてはちょっとずらした言葉遣いなど。この楽曲、本質的に人生そのもの・人間として生きるということについての話を書いていて、それの具体例の一つとして「恋愛」を表層に配置している。そういった読み方をするのはそこまで飛躍していないように思う。社会を否定して個に籠ろうとしがちな「欅坂46らしい」欅坂46(その最終着地点は『黒い羊』)と、社会に参加してみたら=人間と関わってみたら(その具体例としての「恋愛」)なんだか楽しくなっちゃった、を歌う櫻坂46という対比。

これを踏まえると、この楽曲を藤吉夏鈴に歌わせる・演じさせるという采配および、彼女の受け止め方そして立ち振る舞いの変化は非常に面白い。初期の彼女の印象はまさに髪型どおりといった具合だったが、今の彼女について、内気であるといったような見方をする人はいないだろう(表面的にはずっと変わらず寡黙な雰囲気ではあるのだが)。どこのメディアでだったかは忘れてしまったが、『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』について藤吉夏鈴自身が「なんでこの曲のセンターが私なのかというのを考えた。曲を自分なりに解釈して納得した。その解釈を自分では言わないから、各々考えてみてほしい」といったことを言っていたように思う(おぼろげなので細部違ったら勘弁願いたい)。最高ではないか??藤吉夏鈴という人間が大好きになり、彼女がセンターを務める楽曲も大好きになった。

続いて、山﨑天がセンターを務める楽曲について。山﨑天、グループ最年少。このタイミングではまだ中学3年生~高校1年生。そんな彼女に宛がわれたのが『Buddies』という仲間讃歌であり、『思ったよりも寂しくない』という別れの寂しさを振り払う曲であり、そして斜に構えた恋愛観を歌う曲。この采配に『二人セゾン』が宛がわれた当時の欅坂46みを感じるのは自分だけだろうか。「欅坂46らしい」欅坂46ではなく、欅坂46がやろうとしていたであろうこと。それを今度こそはという「運営」の心意気を感じる(買いかぶりすぎだとは思わなくもないが)。

現在高校2年生になった山﨑天は日々、自己肯定感全開の立ち振る舞いを自分らに見せてくれているが、その一つの要因として、櫻坂46(そして欅坂46)の幅広い楽曲たちが、その時その時に沸いてくるさまざまな方向性の感情や、社会・他者との向き合い方など、とにかくよく分からないモノについてのアレやコレをひとまず言語化してくれているから、というのは少なくないように思う。言語化できれば理解ができる、理解ができればコントロールできるようになる。逆に言えば、言語化できないものはコントロールできない。すると悩みがちになる。もちろん先天的なものは大きいと思うが、とはいえ自己肯定感に関する自分の考え方はそんな具合。

もちろんそれは、彼女自身がそれらの楽曲を表現するうえで内容をかみ砕き、自分なりに消化できる素晴らしい能力を持っている、というのが大前提。その能力をフルに活かして繰り広げる表情、その中でも特に「笑み」を用いた幅広い表現が彼女は最高だと思う。長身を生かしたダイナミックなダンスもめちゃくちゃカッコイイし。山﨑天、最高。

最後、森田ひかるのセンター曲にも触れたいところではあるが、問題の『Nobody's fault』については自分の中で本当の意味で腑に落ちたのが12月9・10日開催の「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」になるので一旦保留。2ndシングル表題曲『BAN』の話から始めていく。

……と言ってもそこまで記すことは無い。いや、この楽曲はシンプルにただただ強いのだ。調子が良くてノリやすく、ダンスパフォーマンスもキマってる。歌詞の内容についても「大人になれないどうするよ」という、とても普遍的で耳障りが無いモノ。何もかんも自分好み。『BAN』をライブで観たい!ノリたい!という思いは、2021年上半期の、まだ「幻想」が抜けていない自分を櫻坂46に繋ぎとめていた大きな要素で間違いない。

「大人になれないどうするよ」的な歌詞といえば、1stシングルのカップリング曲『最終の地下鉄に乗って』もそんな括りで捉えて良い楽曲だろう。先ほど書いたようにこの曲は1stシングルの初見で唯一ピンときた曲だが、結局のところ、当の自分がいつまで経っても「大人」にならない・なりたくない・なる気もないくらいのノリで日々を過ごしているからこそ、こういう楽曲に親和性を感じるのだと思われる。一生ガキかよと言われればそうかもしれないが、しかしまぁ、こういう歌詞を歌ってくれる、言葉にしてくれるというのは、それを肯定してくれているように思えるからとても心地が良いのだ。この楽曲に関しては、ラスサビの振り付けコンセプトがシンプルに「応援」であるし、そういう人向けにそういう意図で作ってあるのだろう。

さて、そんな楽曲たちを宛がわれた森田ひかるだが、彼女はとにかく表現の幅が広くて、それぞれの深さも本当に凄まじい。『Nobody's fault』で世界を俯瞰し、こちらの全てを見透かし、最早ニヒルに片足を突っ込んだかのような顔つきをしたかと思いきや、『BAN』では内なる感情を爆発させたようなキレキレのダンスを披露し、『ブルームーンキス』で妖艶な表情を見せ、『君と僕と洗濯物』でただただ可愛い演技をする。藤吉夏鈴は「憑依型」という言葉で評されることが多いが、森田ひかるはその反対にいると思う。すべてを意識下でコントロールし、計算ずくで表現する。めちゃくちゃ器用。いやすごいほんと(あ、あとただただシンプルに顔がやば好き)。

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そんな具合で櫻坂46が大好きになったところで迎えたのが「1st TOUR 2021」、そして3rdシングル『流れ弾』になる。

・福岡 9/11(土) 9/12(日)
  西日本総合展示場 新館
・愛知 9/19(日) 9/20(月・祝)
  Aichi Sky Expo ホールA
・大阪 10/9(土) 10/10(日)
  丸善インテックアリーナ
・埼玉 10/29(金) 10/30(土) 10/31(日)
  さいたまスーパーアリーナ

3rdシングル『流れ弾』の発売日は10月13日だが、ツアーに先立つ8月24日のラジオ「レコメン!」にて表題曲『流れ弾』の音源が公開、9月5日のラジオ「櫻坂46 こちら有楽町星空放送局」にて『Dead end』の音源が公開。つまり「W-KEYAKI FES.2021」以降の追加要素はこの2曲のみという状態で「1st TOUR 2021」はスタートした。この2曲は最初からセットリストに組み込まれたが、依然、手札すべてを使ってなんとか形にしていくライブであることに変わりはない。

大阪公演から『無言の宇宙』が追加(音源の公開は9月13日、ラジオ「さくらひなたロッチの伸びしろラジオ」)、埼玉公演では『ソニア』(音源の公開は9月26日、ラジオ「櫻坂46 こちら有楽町星空放送局」)が追加。ツアー期間中のラジオで音源が初公開されたり、ライブ終演後にMVが発披露されたりと徐々に情報が増えていき、それらがセットリストにも反映されていくという流れがとても楽しかった。

・流れ弾(田村保乃センター MVあり)
・Dead end(森田ひかるセンター MVあり)
・無言の宇宙(渡邉理佐センター MVあり)
・ソニア(3列目メンバー曲)
・美しきNervous(表題曲メンバー曲)
・ジャマイカビール(遠藤光莉 小林由依 藤吉夏鈴)
・On my way(井上梨名 松田里奈)

なお、3rdシングル『流れ弾』の全体構成がこちら。単に曲数が増えただけでなく、3列目メンバーの楽曲やユニット曲がちゃんと収録されたことで手札の色が増え、全体で見たときの面白さがぐっと増した。とても良い構成だと思う。前8人固定の曲しかない、というのは実際のところマンネリ化がやばやばだったから。

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そして1年間の集大成、12月9・10日開催「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」。ツアー途中で1期生の守屋茜・渡辺梨加が卒業を発表しており、このライブにはその二人の卒業セレモニーが内包されていた。

メンバーの卒業自体は欅坂46時代にもそれなりにあったが、こういった催しはグループ結成以来初。欅坂46のときには無かった(できなかった?)こういう催しが櫻坂46になってできるようになったというのは本当に良いことだなと感じた(卒業理由がなんとも言い難いメンバーが多かったから仕方ないのかもしれないが……とはいえ、長濱ねる卒業イベントが長濱ねる単独のイベントだったというのは本当にアレな話だなと思う)。

ライブの内容についてはとにかく大満足。3rdシングルの楽曲たちがセットリストの彩りを華やかにしてくれるので楽しいったりゃありゃしない。2日間で一部の楽曲を差し替えるなんてこともようやくできるようになった。いやぁ長かった……

楽曲について特筆すべきは『ジャマイカビール』で間違いないでしょう。休業していた小林由依が復帰し、左右に遠藤光莉と藤吉夏鈴を従えて披露するこのユニット曲。音楽の知識が無いので上手く言語化はできないのだが、曲は強いわパフォもビジュもやばカッコ良すぎるわで大はしゃぎしたのを鮮明に覚えている。

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そしていよいよ『Nobody's fault』の話。自分はこの「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」の『Nobody's fault』で衝撃的な思いをしたのである。

前提の確認から始めるが、自分は最初に書いたように、この楽曲のファーストインプレッションが良くない。それはあのとき「グループが改名するに至ったのはすべて運営の問題」であるという認識が自分の中に確固としてあり、そんな運営の大元締めである秋元康がこの歌詞を書き、それをメンバーに歌わせるというのは開き直りじゃないか?と感じたからである。そこから数ヶ月経ち、前回の記事で書いたような思考をするようになり(改名の原因がファン=自分にもあったと思うようになり)「罪悪感」のようなモノを覚えるようになる。それに対する責任100%でこの1年間櫻坂46見続けてきた、なんてワケではもちろん無いが、とはいえうっすらとそういう義務感のようなものがあったのは事実として否定できない。身も蓋も無い話にはなるが、そもそも自分は色んな現場に足を運んでつまみ食いしていくのが好きなタイプ。ちょっと違うかなと思ったらすぐに乗り換えるタイプであるから、余計にそういう部分はあったように思う。

『Nobody's fault』について色々考えてみよう、という気になったのは「W-KEYAKI FES.2021」のあたり。前述のとおりこのライブを観た自分は櫻坂46というグループの気迫を存分に浴びて、彼女たちのこれからについての期待に大きく胸を膨らませることになった。とても良いライブだった。

が、世間的には微妙な反応がそれなりに多かった。

「取って付けた感」「物足りない」「欅坂の曲を聞きたかった」。前2つのような意見に関してはその時点での手札的にシカタナイ部分がある(とはいえシカタナイんだからそれは言うなよとは思う)。しかし「欅坂の曲を聞きたかった」これは本当に良くない。思ったとしても、それだけはメンバーに伝わる形で言ってはいけない、ネットに書いてはいけない。

実際、この反応はメンバーにも届いてしまい、数人から「今の櫻坂46を見てくれていない。悔しい。」といったお気持ち表明が出るまでに至った。心機一転リスタートして新しい坂道を登り始めたメンバーたちと、過去に縛られたファン。この歪んだ構造は、このnoteを書いている「今」になってもずっと櫻坂46の根っこの部分に存在しており、それが時折顕在化してしまう。

なぜこんなことを書いたのかといえば、それが「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」の『Nobody's fault』に繋がると思うからである。

『Nobody's fault』の歌詞は口調が荒く、主張が強く、その内容も非常に冷たく現実的。最初に良い印象を持てなかった理由は何度も言うように「秋元康、何て歌詞歌わせてんだよ」という思いが自分の中で強かったから。しかし、実際に歌詞を言葉にし、表情を作り、ダンスするのはメンバーたちなのだ(当たり前)。であればメンバーたちが楽曲とどう向き合い、それをどう消化し、どうパフォーマンスするのか、その様を観るべきだ。

ただ、それにしたってこの楽曲、説得力のあるパフォーマンスをするのは非常に難しいと思う。なにせとにかく主張が強い。欅坂46「THE LAST LIVE」、「櫻坂46 デビューカウントダウンライブ!!」、その年の紅白歌合戦、後から観返してみてもやはりちぐはぐ感が強いという印象を受けた。これからどうなっていくのか見当もつかず、不安の声がメンバーから出ることも少なくなかったあの状況での披露。イマイチな印象になってしまうのはもうシカタナイように思う(そんな中でも必死にパフォーマンスしていたであろうメンバーには本当に悪いのだが)。

No, no, no, 他人のせいにするな
鏡に映ったおまえは誰だ?
勝手に絶望してるのは
信念がないからだってもう気づけ!

『Nobody's fault』櫻坂46

内容が極めて現実的なだけに、表層の演技だけでコレに説得力を持たせるのは土台無理な話。であればグループが、メンバーが、これに納得し体現しなければならない。その芽が見えてきたのはやはり「W-KEYAKI FES.2021」からだと思う。この楽曲、聞き手である自分らに主張をぶつける側面と表現するメンバー自身を鼓舞していく側面があり(そもそも大半の楽曲は大なり小なりそういう構造になっていると思うが)、だからこそ、1stシングル表題曲『Nobody's fault』だと思うのだが、あのライブで披露した『Nobody's fault』は間違いなく後者の側面が前景化していたように感じられた。

泣き言なんか聞きたくもねえ
どんなぬ悔やんでも 叫んだって…
やるか ? やらないのか? それだけだ
もう一度 生まれ変わるなら

『Nobody's fault』櫻坂46

この状況(改名からのリスタート)を誰かのせいにしていても意味が無い。やるかやらないかそれだけだ。ああやってやろうじゃないかと、そういう気迫・底力を感じた。あの日終始雨が降っていたのも、もはやそういう演出のように思えてしまう。

しかし前述のとおり、あのライブは「歪み」を浮かび上がらせてしまった。そして、そこからの「1st TOUR 2021」、からの「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」。お気持ち表明していたのもつかの間に、彼女たちはそれをバネにして力強さをどんどん増大させていった。(※勝手な想像)

それを踏まえると、このタイミングでリリースされた表題曲が『流れ弾』というのは効果的だと思う。歌詞の内容は置いておくとして、この楽曲のパフォーマンスは全体的にとても感情的で荒々しい。それゆえにメンバーからの熱量を直接的に感じやすいのだ。

そして「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」の『Nobody's fault』には、まさに1年間の集大成として相応しい、櫻坂46としての自信に満ち満ちたメンバーたちの姿があった。「W-KEYAKI FES.2021」で見えた、メンバー自らを鼓舞する側面としての『Nobody's fault』の芽。それがそこからの半年で立派な大樹へと変容した。しかも、それだけではない。その中央で圧倒的な存在感を放つ森田ひかるが本当に凄まじかった。自らの問題にはけりをつけ、こちらにモノを訴えかけるフェーズに入った、いや、そんな単純な話ではない。上でも書いたように、彼女は、世界を俯瞰し、こちらの全てを見透かし、最早ニヒルに片足突っ込んだかのような顔つきをする。激しい主張に対して表面的にはそぐわない冷酷さ。温度感。それはまさに、櫻坂46としての第一節、

この世界を変えようなんて
自惚れてんじゃねえよ

Nobody's fault 櫻坂46

の体現なのかもしれないし、パフォーマンスのモチーフであろう「プロビデンスの目」の体現なのかもしれない。あの表情、あの目つきで『Nobody's fault』を表現する森田ひかるを見たとき、誇張抜きで崩れ落ちた。1年間でこんなにも変わるのかと、ただただ驚いた。ずっと残っていた「罪悪感」を解消してくれた。(※このあたり、勝手に想像をして、勝手に許されたと思い、勝手に救われたと感じている。あまりにも都合が良すぎる。)

そして、これからの櫻坂46がどんなものを見せてくれるのか、とにかくひたすら楽しみになった。自分が「こういうのが見たい」と思うのではなく、彼女たちがそのときそのときで見せてくれるものを見続けたい、という確信ができた。あ、コレは2年目もヤバいぞとなった。

『Nobody's fault』の手綱を握った櫻坂46は最高で最強なのだ。

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以上が、自分が櫻坂46の1年目をどう見てきたか、ということのあらましになる。今から1年前「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」を観ることで生じた櫻坂46に対する種々の確信は、「今」まったく衰えることが無いどころかより一層増幅するばかり。先日の東京ドーム公演も1日目には色々あったが(オタクが断片的な情報を繋ぎ合わせて勝手な解釈をしているだけとも言える)、とはいえ無事、これ以上ないくらいの素敵な形で菅井友香は卒業していった。そんな〆に至る櫻坂46の2年目の話はまたいつかの機会にしようと思う。

櫻坂46は本当にすごいグループだと思う。

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