沖縄・台湾旅行記(1/3) 沖縄編

台北の図書館に於いて記し始める。今日、台南から新幹線に乗って、知人の日本人Hさんが住む台北の宿に着いた。台北に行くべきかどうかは迷っていた。しかし、ちょうど暇な日があることと、Hさんが台北にいつまでいるかもわからないからいい機会であるし、今回の旅の目的を達するにHさんのところに行くことが必要であったから来た。迷っていたというのは、旅をはじめてもう3週間になって疲れていたし、台北の寒さに耐えうる服装もないからである。午後4時半にHさんの住むところに着いたのであるが、ここは現代芸術界隈の人たちが集うところで、Hさんもその担い手の一人である。泊まるところを案内されたが、相部屋でまた車の音がうるさく、落ち着かないところであったから、グーグルの地図で「圖書館」と調べ、近くの市立図書館が夜9時まであいていることを発見し、やって来たのである。どこでも寝られるような人がいるが私はまったくそうではない。もっと適応力があればと思うし、高校生や大学の前半のころは、外国のドミトリーに泊まり闊達にコミュニケーションをするという、沢木耕太郎の『深夜特急』のような世界に憧れたのだが、やってみようとしてもできなかったので、もうあきらめている。はじめにどういう人かを知っていないと何を話せばいいかわからないかんじがする。このこととは関係なしに、知人に「優等生的だ」と批判されているが、「正解」がわからない話ができないのかもしれない。今日そこに泊まるとわかって、心臓がドキドキし、地に足が着かなくなって、救いを求めるように図書館に来たのだが、しかし落ちつかないのは飲んだLサイズのお茶にふだん摂らないカフェインが入っていたためであろうかともおもう。図書をしばらくみて、いまは自習室にいる。旅中ともにした山田風太郎の『戦中派虫けら日記』を読もうとしていたが、ふと思いついてノートを取り出し、山田の日記のマネのようにいまの状態をつづる。書いていると、少し落ちついてきたような気がする。ちょうど6時である。

なぜ台湾に来たのかを記す。そもそもは京都からはじまったのだ。岸井大輔という40代後半の劇作家がいて、東京を中心に全国で活動しており、大阪に来られたときは戯曲の読書会などに参加させてもらっているのだが、その人が京都のダンサーの呼びかけで氏の戯曲「会/議/体」(岸井大輔著『戯曲は作品である』に収録)を筆談で上演するというものをされ、それに参加したのである。「会/議/体」を簡単に説明すると、会議出席者は6〜8名で、参加者の「本当に解決したい問題」について、他の参加者がそれぞれ「自分が一人でやれる、やりたくてやれること」を思いつき、問題を提出した人はその解決策を容れるかどうかを選び、また解決策の実施に対する協力者も募るというものである。戯曲として完成しているものを、このように下手くそな言葉でまとめると、著者に怒られるかもしれないが、おそらく気づかれないのでそのままにしておく。さて、そこで私は「台湾に住みたいがどうすればいいかわからない。日本語教師として就労ビザをとるという手があるが、吃音であるから難しい」ということを述べた。その結果、岸井さんが「今度沖縄によばれて行くことになっているが、よんでくれた人が台湾でも活動しており、その友人も台湾に行ったりしているようだから、一緒に来るといい」と言ってくれ、行くことにしたのである。だから、旅のメインは沖縄であったのだが、沖縄で台湾の人を紹介されるかもしれないから、そのまま台湾に行こうと思い那覇→台北のPeachチケットを予約し、せっかくだから前からしてみたかった、花蓮→台東を自転車で行き、道中点在する4つの日本時代の神社を巡ろうと、計画を練っていた。そんなとき、同じ大学の一年下で、吃音の当事者団体で知り合ったFくんとチャットをしていて、台湾旅行のことを話すと、Fくんも行きたいと言い、一緒に行くことになったのだった。実際、Fくんが来てくれて助かった。現実的には、宿泊費が半分になるとか、自転車旅行に慣れた彼が一緒だとパンクしても直してくれるから安心だとかいうことだが、むしろ精神的に助かった。一人旅はさびしいものだが、気心の知れた彼が一緒だと楽しかったし、またFくんと行動をともにすることには、大きな学びがあった。

ここまで書いて、腹が減ってたまらなくなったので、なにか食べようと図書館の近くを歩いたら、うまそうな店をみつけ、スープに麺と魚団子(中国語で魚丸)が入ったものと豚の心臓を頼むと、とてもうまく、また暖かさがしみ入り、生き返る心地がした。先ほどは寒くて仕方がなかったが、書いているいまはその寒気もひいている。

旅行記をはじめることとしよう。

1日目 12/4 大阪(釜ヶ崎)→那覇

前日までNHKのEテレ「バリバラ」の収録が三重県の志摩であり、交通の便がよくまた通い慣れている新今宮のゲストハウスCocoroomに泊まる。朝の飛行機で那覇へ行く。那覇で岸井さんがよばれた展示をみるが、少しみて「これはぼくには理解できない」とおもってすぐにみるのをやめて、昼ご飯を近くで食べる。また展示会場に戻ると岸井さんがいて、「展示みた?」と聞かれ、「まだ」と嘘を言うと「あっ、そうですか。じゃあ一時間くらいかかるね」と言われる。待たせると悪いというと、別にかまわないと言う。そうして、階段をのぼって(展示はビルの2階より上にあった)みようとするがやはりわざわざみるほどでもあるまい、岸井さんを待たせるのも悪いと思い、すぐ降りてくると、「ずいぶん早いお帰りで」と言われる。その後、ナハウスというところへ。岸井さんは私をここに泊めたかったようである。「どんな雑多な環境でも人がいきられるということを見せないといけない」とか何とか言っていたような気がする。岸井さんははじめて会ったナハウスの人たちと親しげに話しているが、ぼくは現代芸術もわからないし初対面の人たちと闊達に話すのは前述したようにできないので、ソファーに座ってぼおっとしている。その後、岸井さんと、そこにいた人たちと、那覇の市場を歩きながら、トークイベントの会場に向かう。その道中、岸井さんに「君は展示をすぐに見終わったけどどうしてか」と聞かれ、種々の問答をする。「わからないもの・おもしろくないものはなかったことにする」という態度が自らにあることを感ずる。それは以前も岸井さんに言われたことであった。「『おもろかったらいい』は関西の文化であり、他地域では通用しない。君は関西から出ようとしているんだろう」と言われる。ありがたくおもうと同時に反省する。トークは難しいところとそう難しくないところがあった。わからなくても聞こうと試みる。その後、トークの参加者と食事をする。沖縄そばを食べる。夜中11時に、那覇在住の吃音の知人と会い、近くの韓国料理店に行く。リラックスして話ができる。これで緊張がほぐれてよかった。ナハウスに戻って寝る。雑魚寝である。さっきも書いたが苦手だ。近くに女性もいて服を脱いだりするのにいちいち気を遣うから、シャワーなしで済ます。岸井さんはぼくに、ナハウスの人たちと親しく交流してほしかったようで、夜に吃音の知人と会うこと伝えると「なるほど。君は何もわかってない」と言われた。が、こういう性格なので仕方がない。

2日目 12/5 那覇

岸井さんのトークイベントが夜からある以外は自由である。昨日夜遅くまで飲んでいたので、朝はゆっくり起きる。まず、おもろまちの県立博物館兼美術館に行くと、美術館では「彷徨の海」というタイトルで、沖縄=台湾特集がされている。戦後台湾の書画や、戦前に沖縄と台湾をまたにかけて活動した人の作品が展示されている。江明賢の「神秘香格里拉」に感動する。戦前の沖縄で作られた映画が2本上映されていて、両方とも全部みる。一本は「執念の毒蛇」(1932年、吉野二郎監督)で、一本は「吉屋チルー物語」(1963年、金城哲夫監督)である。「執念の毒蛇」は話が稚拙で笑ってしまうところが多くあった。「吉屋チルー物語」は沖縄方言であったためほとんど言ってることはわからなかったが、ウルトラマンの金城哲夫が作っただけあって近代的な構成で、わかりやすく思えた。そうしていると昼になり、昨日一瞬で見終わった展示を見に行く。やはりよくわからないが、粘ってしっかり見る。文章も全部読む。無感覚ということを言いたいのだろうか、こちらからは見えているのに感じられないという悲しみがあるのだろうか、とおもう。1時間ほどかけて見終える。見てよかったとおもう。

その後、トークイベントに行く。岸井さんの自己紹介がされる。実にわかりやすくおもしろい。いくつか質問をしたりする。岸井さんを呼んだSさんに、台北で活動している、先述のHさんを紹介してもらう。夜は、「山羊汁」の店に入って食べていると、岸井さんやSさんや、Oさんがたまたま入ってきて、一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだりして、楽しく過ごす。お代もほとんど持ってもらう。ありがたい。ナハウスのお土産に柔軟剤を買って帰る。泊まる人は生活用品を買う仕組みになっているらしい。何がいいか尋ねると柔軟剤がほしいとのことであった。ナハウスのリビングに、箕面出身の同年くらいの女性がいて、親しげに話しかけてくれて少し話した。ナハウスでは階下で何やら楽しく歌を歌っていた。途中、混ざろうかとおもったが、気まずい思いをするのがこわくてやめた。自分から人に関われないのは、優等生的であるとともに、臨床心理士、岩宮恵子の『好きなのにはワケがある 宮崎アニメと思春期のこころ』で示される、千と千尋の神隠しのカオナシそっくりだとおもう。カオナシは、千尋の招きがないと湯屋に入れなかったし、親しくしてくれた千尋に執着を示す。私も同じようなことをしている。カオナシは湯屋を出て、銭婆のところに行って落ちついた。私は如何するべきか。

3日目 12/6 那覇→辺野古

やはり昨夜遅かったので、ゆっくり起きる。バスに乗って北上する。途中、ステーキを食べ、普天間の佐喜真美術館に寄って有名な沖縄戦の絵を見るが、特になんともおもわない。同じ部屋に展示してあった、沖縄戦を沖縄方言で語るおじさんおばあさんの写真が印象に残った。標準語でなく、沖縄方言で語るときに、深い話が出てくるらしい。そういうものなのだろうとおもう。少し歩いていると基地があり、「無断で立入ることはできません。違反者は日本国の法律によって罰せられる」と書かれてある。空は時折米軍機が飛んでいる。

私は先の大戦のことを調べるのが好きで、また当時の日本人の気持ちにかなり同化してしまっているから、米軍機をみて反射的に「あっ、敵機や」と言ってカメラを取り出し、後からそのおかしさに笑った。

当時の日本人にとって、いまの沖縄に飛んでいる米軍機は敵機であろうが、いまの日本人にとっては同盟国の飛行機である。しかし、いまの沖縄人の多くにとってはやはり敵機であるかもしれぬ。だが、爆撃してこない敵機というのもおかしな話である。バスで岸井さんが話していたイオンモールに行く。西日本2番目に大きいらしい。入り口に大きな水槽があって驚く。またバスに乗り、胡屋に行く。基地によって発達した街である。ゴザ暴動の展示を見る。またバスに乗って北上し、辺野古に着く。車いすの人がやっている宿に泊まる。ちょうど明日、「辺野古障害者の集い」が初めて開かれるとのことで、吃音の君も出ろといわれる。この宿に2泊するが、ひとり部屋にしておいた。少し高いがそれでよかった。

4日目 12/7 辺野古

「辺野古障害者の集い」に行くがこんなもんかと拍子抜けする。座り込みをしたかったが、宿の車いすの人を手伝っていたら間に合わなかった。大浦のマングローブの森を散策する。美しい。

海では工事が進んでいるが、それに抗議するボートも浮かんでいた。

やはり、この海や山を基地でよごすのはよくない。宿の庭で、いつ失明するかわからないから歩いて日本中をまわっているという男性と話す。この人も美しいようにおもう。しかし連絡先を聞かなかった。Facebookなど交換しておけばよかったと今になって思うが、しないこともまたいいのかもしれないとおもう。

5日目 12/8 辺野古→那覇→桃園→新竹

バスで南下、一路那覇へ行く。那覇の対馬丸記念館に行く。また、瀬長亀治郎の「不屈館」にも行く。沖縄も思ったより寒い。那覇空港からPeachで台北へ。空港MRTで新幹線桃園駅に行き、10分ほど新幹線に乗って新竹に着く。清華大学で先生をしている人に会ってご飯を食べる。この先生はよくサービスをしてくれるが、ちょっと申し訳ないようなかんじもする。

続く。

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