台湾ボランティア記・第4週

22~23日目 12月24日(月)〜25日(火)
 24日は朝はひとついいことがあったが、基本的にだるかった。その前の日、夜中の0時半までにアニメの「ハイスクール・フリート」(女子高生が軍艦でドンパチやるやつ)を見たせいだろうか。本を読もうとしても入ってこない。
 午後は住友化学のゆるキャラと思しき「sumikaちゃん」が来て、プレゼントを障害者の人たちに渡していた。sumikaちゃんはググっても出てこなかったからよくわからない。住友化学がお金をくれているのだろう。しかしアホみたいだからスマホをさわっていた。
 だるいから早めに帰って、今日はもうダメだなと観念して、そのアニメを最後まで見た。海軍の号令はカッコいいなあ。数字をひと、ふたと呼んだりとか、取り舵いっぱいとか。
 夜はクリスマスイブということでカトリック教会でごはん会があった。施設の人に誘われて行ったが、ずいぶんと高齢化していた。となりの長老派教会はいろんな世代がいたのだが。少し拝んで帰った。前日に果たせなかった約束である将棋を、同居人のドイツ人と指した。ヨーロッパ大会にドイツ代表として出たというからどんなもんかと思ったが、弱かった。だるいので日誌も書かずに寝た。
 そして翌日の今日は、ゆっくり起きてシャワーをあびた。時間を気にせずシャワーを浴びられるのはすばらしいが、贅沢をいえば湯船に浸かりたいものだ。ボスが昼ご飯に連れて行けるかもと昨夜言っていたから、ずっとたまっていたメールを出すなどの仕事をする。お昼に連絡があり、食べに行こうということである。車で迎えに来てくれる。近くの店だろうと思っていたら、麻豆という30kmくらい離れたところまで連れて行かれた。ボスは女性だが、制限速度90kmの道を時速140kmくらいで、しかも施設の名前がどーんと入った車でぶっ飛ばしていて、豪快である。今まで乗った車で一番速かった。新快速ですら時速130kmなのだからすごいと思った。
 麻豆について名物のものを食べた。やわらかいお餅がご飯の器いっぱいに入っているもの。特別うまいというわけでもないのと、炭水化物が少ししか食べられない体なので、残してしまう。他はきれいに食べたのだが。それですぐ帰る。台湾人は○○は食べたかということをめっちゃ聞いてくるし、食べ物へのこだわりがすごい。食べるの好きなことを中国語で吃貨というらしい。帰りに旧糖廠のアイスを買って食べようということで入ったが、休みだった。旧糖廠は台湾の至る所にあり、どこもかしこも文化センターになっている。どれも日本時代に明治製糖などが作っているから、日本時代をしのぶよすがともなっている。ここ麻豆の糖廠跡も、当時の宿舎などがきれいに残っている。和服を着た台湾人の子どもたちが写真撮影をしていて、ここは日本なりやと一瞬まがいそうになる。あいにく休館日で建物の中には入れなかったが、外から見物できてよかった。少し寄り道しながら帰る。近くの店だと思って水を持たずに出たので、喉が渇いて困った。
 帰ってからも、ずっと出そうと思っていたメールやwechatやらを送る。テレビでこち亀とドラえもんを見た後、2度ほど行った店で夕食にしようと出るが、その店は閉まっており、しばらくうろついて、他の店に入る。いささか汚そうで賑わっている店にした。あらかじめ、「飯 湯 菜」とノートに書いておいて見せた。それぞれご飯、スープ、野菜の意味である。「リップンナ」と店の人たちが言っているが、これは台湾語で日本人の意味である。台湾語わからないけど、これとドゥオシャー(ありがとう)だけはわかる。ちなみに「日本人」は北京語では「リーベンレン」なので全然違う。台湾語と北京語はドイツ語と英語よりも離れているらしい。さて、何の飯や、何のスープや、何の野菜やと聞かれ、これがあるで、あれがあるで、ということで、炒飯と魚のスープと青い野菜を注文する。持ち帰るか中で食べるか迷うが、中で食べる。隣りに座っていたおっちゃんに店の人が、リップンナと、つまり日本人だと言い、隣のおっちゃんは簡単な日本語で話しかけてくれた。店の人とも、どのくらいいるのかとか、日本のどこからかとか話す。炒飯が食べきれなかったので持ち帰る。全部で150元(500円くらい)であった。やはりそんなに安いわけでもない。
 その隣のセブンイレブンに、台湾版アマゾンの博客來で注文した本が届いたとメールがあったので取りに行く。店の同い年くらいの女性に話しかけると、英語で答えてくれた。台湾コンビニは荷物が受け取れたりsimが買えたりですごい。買ったのは、『伊沢修二と台湾』という出たばかりの本である。ふつうに買うと1200元(4000円くらい)とおそろしく高いが、博客來で22%オフになっていた。台湾大学の出版センターが出しているが、中身はすべて日本語である。伊沢修二は日本領台湾の近代教育の先駆けとなった人であり、また近代日本の吃音治療の先駆けの人である。吃音と台湾というぼくの関心事はふつうつながりそうにないが、伊沢修二においてつながるのである。というわけで22%オフでも高いけれど、日本で手に入らなさそうだし、買ったのだ。
 夜もメールを出したり、今後の予定を確認したりした。こういう日も必要である。これから『伊沢修二と台湾』を読もうと思う。

24~25日目 12月26日(水)~27日(木)
 明日結婚のセレモニーをするとかで、紅白の湯圓(台湾式ぜんざい)の準備をする。ぼくはひたすら紅白の餅をまるくした。
 夜市で揚げ物を食べたせいでビールが飲みたくなり、同居人の障害者の人を前に「我想喝啤酒!(ビールが飲みたい!)」と子どもみたいに飛び跳ねながら言っていたら、おじいさんに買いに行けと言われて、ドイツ人の分も買った。同居人の障害者の人は実年齢40くらいだけど精神年齢が12歳くらいに見える。施設の障害者の人たちの多くがそんな感じである。彼らを前にすると気兼ねなく子どもに戻れて楽なのだ。
 ビールを飲みながらドイツ人と将棋を指して、相変わらずボロ勝ちしてしまった。次やるときは飛車落ちか二枚落ちにしよう。ビールのせいで日記が書けなかった。
 AKB48から派生した上海のアイドルグループSNH48をyoutubeで見て、中国語の勉強に歌を覚えようかなと思った。SNH48は日本の本部に反乱を起こして独立しているらしい。だからか、中国のはやりの歌(小蘋果)を歌っていたり、愛国的な歌(歌唱祖国)を歌っていておもしろい。台北のTPE48も日本の本部とごたごたがあったとかで、AKB48 Team Tp として再出発したらしい。なんか権利関係たいへんだな。チームタイペイの新しいPVが昨日出たとかで見た。阿里山で踊っていた。日本人のアイドルが中国語で歌っているのはおもろい。時代が変わったな〜と思う。
 今日は朝8時に施設に行く。元職員が結婚するらしく、みなで写真を撮ったりした。終わってから、リョウタツがドイツ人とふたりで写真を撮っていて、「あ〜、やっぱりイケメンの白人が好きなんやな…」としょんぼりしていたら、「ともひろ!一緒に写真を撮ってくれる?」と聞いてくれ、リョウタツはなんと優しい女なのだろうかと、感銘を受けたのであった。楊くんに「彼女いる?」と聞かれ、いないと答えると、「ぼくもいないんだよ、23年間ずっといない」ということであった。しかし楊くんはとてもいい男である。
 そういえばリョウタツについては先日、「どこかに一緒に遊びに行く時間はありますか?」と聞いたところ、4連休は台南にいないから、一緒に出かけるのは都合があわないけど、どこかで晩ご飯を一緒に食べましょうと返事をもらった。楽しみだ。
(公開設定を変えたので【裏】じゃないです 無印と裏とふたつ書くのめんどくなった)

26日目 12月28日(金) 孤独なりフライデーナイト〜発達障害っぽい行動記〜
 少し風邪ぎみで起きる。台湾の家は防寒対策がされていないから、早朝、外の空気が冷えるとそのまま部屋の中まで寒くなる。午前はひとりで布を切る作業をする。午後は「人在囧途-Lost on Journey-」なる人情ものコメディをみなで見る。大陸のものである。台湾人は大陸の作品もふつうに見るのだろうか。言語が(ほぼ)同じだから見るんじゃないかな、ぼくだったら見るなと思う。にしても囧なんてはじめて見たと思い調べると、大陸で使われる顔文字らしい。映画はとてもおもしろかった。
 障害者の人たちが帰ってから、彼らが手洗いや歯磨きを毎日したというチェックシートを、何日分もまとめて書く作業をする。一日につき何項目もあるが、出席の日はすべてに✓を、欠席の日はすべてに△を入れるので、ようは出席か欠席かだけでいいはずである。市役所にでも出すのだろうか。なんにせよ、おそろしく意味のない仕事である。
 金曜は同居人の障害者の人たちもおじいさんも実家に帰る。帰っても寂しいから施設に残っていたが、点検があるから早く帰るように言われる。帰ったがドイツ人はどこかに行っているのかいない。テレビを付けてこち亀を見たがあまりおもしろくない。暇だし腹が減ったからから夕食を食べに出かける。施設の中を通ると、受付の人に明日から4連休だからセキュリティのために施設に入る鍵を返すように言われ、なんじゃそりゃと思いつつしぶしぶ返す。途中、楊くんに遠くから話しかけられたが、楊くん誰かと何かしていたし、返事できずに通り過ぎる。門を出てなじみの店の前まで行ったがなぜか気が進まないので引き返す。思うに、さっき楊くんに話しかけられたのに、返事しなかったのが気にかかっている。確かに少し遠かったが、それなら歩いて楊くんのところへ行けばよかったわけで、つまらないことをしたと思った。施設の裏門はさっきまで持っていた鍵で自由に出入りできるが、表門はインターフォンで名前を言わないと入れない。名前を言って入り、何しに来たのか聞かれたので忘れ物を取りに来たと言う。さきに、楊くんを無視してしまったのが気にかかっていると述べたが、この時点ではそれはしっかりと自覚できていない。綾屋紗月さんが『発達障害当事者研究』で書いていた「意味のまとめあげがゆっくり」が自分にはとても当てはまると思うのだが、何をしたいのかがわかるのに時間がかかり、それまで思考と行動が停止することがある。ちょうどその状態だった。だから、せっかく施設に入ったのに、楊くんを尋ねることができず、ない忘れ物を取りに行き、施設を出てまた店の前に行き、やっぱ違うなと思いまた施設の前に戻ってきた。それでやっと、楊くんを夕ご飯に誘おうかと、現実的な行動を思いついた。しかし施設に入るにはまたインターフォンを押さないといけない。それは不審な感じがする。LINEをしようかと思ったが、対面で言う方がいいと思い、施設と外をわかつ壁が低くなっているところがあるので、そこをのぼって入った。その少し前にパトカーがそばを通っていったので、危なかった。ぶじ施設に入ったものの、受付を通らずに楊くんに会うための道がすでに閉じられていた。いったん落ちつくために家に帰る。家の玄関までたどり着いて、楊くんにLINEをした。しばらくこち亀を見ながら待っていると、OKの返事があり、一緒に食べに行った。実家暮らしだから家でご飯があるなら一緒に食べなくていいよと言ったが、ふだんから外で食べているらしい(台湾では普通)。「今夜はひとりでご飯を食べたくなかったんだよ。だからありがとう」みたいなことを言った。草履の鼻緒が切れたのだが(昨日切れて応急処置したがまた切れた)、直すのを手伝ってくれた。これがうまいよ、とか言って注文もしてくれる。
 ふだんぼくは実家暮らしだから、ひとりでご飯を食べることがあまりない。でもたまに旅をして、ひとりでご飯を食べるのが続くと、親しい人がご飯を作ってくれたり、あるいは誰かと一緒に食べるというのはすばらしいことだなと実感する。
 日本語パートナーズという台湾で日本語教師の助手をする仕事に応募しようと思って、推薦状がいるので施設のボスに書いてくれるよう頼んだが、ボス曰く5ヶ月以上働いた人でないと書けないと理事会の人たちが言っているからダメだということである。なんじゃそりゃと思うが、やむなしである。ボスは「日本はいいところだけど堅苦しいね」と言っていたが、この施設も堅苦しく見える。もちろん様々な事情があることは想像できるのだが。

27~28日目 12月29日(土)〜30(日)
 この日から四連休である。施設は休みで、同居人の障害者の人たちとおじいさんは実家に帰っている。のんびりシャワーを浴びて、出さないといけないメールを出し、今後の予定を考える。今夜は斗六という雲林県(台湾中南部)の町で台湾人の友人Tくんと観劇の予定である。三時前に玉井を出るバスに乗り、約一時間かけて善化に行き、そこから鉄道である。鉄道は距離80kmほどなのに急行で一時間半もかかった。台湾の鉄道は本数が少ない上に遅い。沿線人口や経済規模からしてポテンシャルがあるだけに惜しい。
 斗六駅でTくんと一年四ヶ月ぶりの再会である。彼はアメリカに留学していて、冬休みで帰っているのだ。Airbnbの宿に荷物を置いて、少し夕ご飯を食べてから、劇のシアターに行く。彼は劇のチケットをまだ買っていないという。ギリギリに着く。チケットは日本でやるように現地でメールを見せたらいいのかと思ったが、セブンイレブンで発券しないといけないらしい。発券しようとしたが、ネットで買うときに入力を間違えたのか、それともすでに劇がはじまっているためか、発券できない。シアターに戻る。ボランティアらしきおじいさんおばあさんにメールを見せると、入れ入れと言ってくれて、チケットを買っていないTくんまで入ることができた。劇を見る。台湾語の音楽劇で、日本統治時代の警察が公學校(台湾人用の小学校)の女教師と恋に落ちる話である。結婚するが(日本人と台湾人はある時期まで正式な結婚はできなかったはずだから事実婚か?)、日本の敗戦で夫は帰国せざるをえなくなり、妻が夫を追って密入国してThe Endである。台湾語はさっぱりわからないが、隣でTくんが解説してくれた。この劇のことは台湾の新聞記事をFBの台湾人の友人がシェアしたことで知ったのだった。新聞記事で催しを知って何かに行くというのははじめてだ。日本の新聞記事が紹介している催しは行きたいと思うものが全然ない。さて、この劇は大きなホールにお客さんいっぱいだった。音楽劇であるが、曲がたいへんよかった。
 翌日、つまり今日だが、知人も出るという台北の芝居を見ようかと思ったが、台北は寒いし(この二日ほど急に寒くなった)遠いし雨降りそうだし、Tくんが台南に行くというから、それに同行するために、台北行きはやめる。行啓記念館なるものが斗六の街中にあるので行く。昭和天皇が皇太子時代に訪れたのかと思って行ったが、裕仁皇太子殿下の汽車が斗六駅に一分間停まっただけで、別に斗六の町を歩いたわけではないようである。台湾は同様に、特に皇太子が歩いたわけでもないのに、台湾に来たというだけで建てた記念館がそこらじゅうにあったらしい。盛り上がりが推察される。
 その近くに日本時代の警察の宿舎が保存されていた。これも台湾のいたるところにある。日本領台湾の警察は本土の警察とは違い、地域のなんでも屋さんだったらしい。つまり治安維持以外にも、行政官のような役割も担っていたのだと思う(あんまり正確に覚えていないので調べてください)。
 Tくんと一緒に特急に乗って台南へ向かうが、ぼくは手前で降りて普通に乗りかえ、さらにバスに乗って台南郊外の国立歴史博物館へ向かう。3年ぶりである。14時に入るとちょうどアニメーション映画がやっているということで見る。台中郊外に生まれ、今はアメリカに住む女性が、身ごもって里帰りし、小学生時代のことを思い出すという話しで、現代的な内容だった。アニメーションはアメリカ風であり、中身でもアメリカが、少女時代から現在にいたるまでずっと出てきた。台湾は日本に日本統治下はもちろん戦後も大きく影響を受けている。が、同時に台湾が大きな影響を受けている国として、アメリカがある。アメリカに留学する人の割合は、日本よりもずっと多いと思う(データ調べる元気がない)。
 映画を見終わると16時で、特別展に行く。台湾での学校がテーマで、日本時代から戦後国民党の戒厳令下の学校が詳しく述べられている。日本時代の資料がたくさんあっておもしろい。そうしていると17時の閉館時間になってしまった。入るときに常設展用の100元(360円ほど)の日本語音声ガイドを買ったのだが、全くの無駄になってしまった。
 台南駅のあたりでTくんと彼の友達と一緒にご飯を食べることになっており、バスに乗る。台南駅まで50分ほどである。すると、日本人の知人のAさんから連絡があり、台南に着いたということである。Aさんとは一ヵ月くらい前までは台南に行くから会おうと連絡を取っていたが、その後こちらが連絡しても反応がないので、来ないのかと思っていたが、来られたので一緒にご飯を食べることにする。駅前でみなで待ち合わせる。Aさんは暖かいと言っていたが、ここ二日ほど台南も寒い。Tくんは寒いアメリカから来たから大丈夫らしいが、ぼくは体が冷えてきたので、鍋を食べたいと言って、我が希望より鍋になった。成功大学近くの店で食べる。四連休でみな実家に帰っているのか、学生街はむしろすいているようであった。鍋を食べて暖まり、少し古本屋に寄って、Aさんとバス停で別れ、70分かけて玉井に帰った。Tくんを暫定我が家に泊める。

29日目 12月31日(月)
 Tくんと一緒に玉井の我が家を出る。タパニー事件の記念館を見て、バスに乗り台南へ。台南第一高中でAさんと待ち合わせて、日本時代の台南知事の公邸、古本屋などに行く。途中、テレサ・テンと校園民歌のCDが売っていたので買う。どちらも玉井の夜市に売っていたもので、玉井ではそれぞれ300元だったが、ここでは200元だった。校園民歌とは1970年代、80年代に学生たちが歌ったフォークソングで、中国語で歌われている。
 その後、市の自転車を借りて古い台南の中心部へ行く。BRUTUSで有名になった國華街などである。
 今夜は玉井に帰ろうと思っていたが、Tくんが年越しを台南の友達と一緒にしないかということで、迷ったが行くことにする。Tくんは友達と夕食なので、ぼくは古本屋で高校の歴史の教科書を買い、モスバーガーで時間をつぶすことにする。台南は教科書専門の古本屋があったりして、書き込みの入った教科書を安く買うことができる。モスバーガーで豚汁を頼んでそれを読んでいると、その友人の人たちはやっぱり気心が知れた人たちと過ごしたいようで、やっぱり玉井に帰ることになった。
 玉井に帰ったが小腹が空いたので、コンビニで何か買って食べようかと思うも、前まで行ってやっぱ違うなと思い、引き返してスープがうまそうな店に入った。注文しようとすると日本語が達者な女性が来て、メニューを解説してくれた。食べていると、台北のパナソニックで働いていたという、これまた日本語の達者なおじさんが来て、色々と話した。パナソニックと聞いて、ぼくは大阪出身なんですと言うと、三国の工場に研修に行ったとか教えてくれた。玉井のような人口1万4千人の田舎でも、日本語がよくできる人がたくさんいるようである。台湾おそるべし。夜は年越しのためかなかなか寝付けなかった。

第4週終わりです お疲れさまでした 次のページから2019年(民国108年)です