台湾ボランティア記・第5週

30日目 1月1日(火)
 年越しということでテンション上がってなのか眠れず、「旭日の艦隊」なる帝国日本とナチスドイツがドンパチやるアニメを見たが、設定がアホらしく時間をムダにしたような気がする。
 初夢は何か見たのだが忘れた。メールを出したり旅程を組んだりする。もうすぐ玉井を離れ台湾を旅行するので、旅程を組むのに忙しい。
 バスターミナルへ向かって歩いていると五元玉を見つけた。円と縁は同じ発音だが、中国語で元と縁は同じ発音である。何かに縁のある年になるかもしれない。台南旅行中のAさんと新化という、日本時代の建物が残る町で待ち合わせである。13時半のバスに乗って、14時に着く。町は小さいし、日本時代の建物(武徳館など)や資料館があらかた祝日=中華民国建国記念日で閉まっているので、街歩きはすぐに終わる。途中、3階建ての大きな廟(道教の寺)があって登ったのが楽しかった。
 その日は果物しか食べておらず、腹が減ったので、来る前にネットでちょっと見た、焼き餅の店に行く。ずいぶんと並んでいる。日本人とわかると親切にしてくれて、まあ座って待ってな、みたいなことを言われ、みんな立って待ってたけど座ってAさんと色々話した。Aさんは電車の会社に勤めているから、鉄道の話しが聞けた。台湾の鉄道はいまは不便だが、便利にしようとしている。台北の地下鉄建設はひと段落ついたが、地方都市は今が建設ラッシュである。在来線も便利にしていくらしい。新幹線は駅を在来線接続を考えず作ってしまったので、絶望的であるが。さて、焼き餅ができた。中に肉やニラかネギか何かが入っている。熱くてうまかった。Aさんは台湾で5本の指に入るうまさと言っていた。Aさんは食べ物に詳しい。味覚が繊細でうらやましい。ぼくはうまいかどうかそんなにわかってなくて、野菜や肉や魚を健康のために食べている感じである。味に鈍感なのは、毎日食べているばあちゃんの料理に味の素が入っているせいなのか、それとも他の理由があるのか、よくわからない。けれどたぶん、やり方しだいで味覚の繊細さは取り戻せるのだと思う。やり方がわからないので、信頼している気功の先生や整体の人に聞いてみよう。
 街役場と書かれた1934年からあるという美しい建物があって入ろうとしたら、全部レストランになっていて、中が見れなかった。新化の街をぶらつく。これまた日本時代の建物が、美しく修復されて、図書館になっているようだったが、例のごとく祝日で入れなかった。他に、奉安殿といって、御真影(重要な学校に配布される天皇皇后の写真)をおいた神棚みたいな場所が保存されていたりした。新化の外れ、徒歩30分のところには、かつての神社跡が少し残っているらしい。この日は日の入りも近いのであきらめた。またの機会に行こうと思う。
 Aさんは日系の大きな会社で働いているから、「台湾と関わる仕事がしたいんですけど、日本の大企業に入って台湾に関わる部署につくとか現実的ですかね」と聞いたら色々答えてくれた。やはり特別な技能がない限り、配属はそんなに自由にならないみたいである。やっぱり他のルートを探そうと思う。
 16時半くらいにAさんとお別れし、玉井に帰る。晩ご飯を前に一度入った小汚い店で食べる。店の人はよく覚えてくれている。肉と野菜が入ったご飯(ライス)を頼んだら、甘辛くてとろっとしたスープに入って出て来た。米が多すぎて食べきれなかったが、別に頼んだ卵とニラを炒めたものをスープにからめるととてもうまくなった。ハマグリのスープもうまい。体が野菜を欲していたので、空芯菜を茹でてもらった。これもとてもうまい。さらに、果物をサービスしてもらった。しかし色々頼んだので210元(700円くらい)もした。
 台湾版アマゾンの博客來で注文したアニメ『風立ちぬ』の子ども向けの本の中文版をセブンイレブンで受け取り、非モテ研の仲間が書いた文章を印刷して読んだ。セブンイレブンの店員の女性もぼくをよく覚えてくれていた。

32日目【裏】 1月3日(木)
 久々の【裏】であるが、【裏】はこれで最終回である。
 リョウタツと一緒に夕ご飯を食べたのだ。前に一緒にご飯を食べる約束をしたが、その日程はリョウタツから伝えることになっていた。なので連絡をただ待つ身であり、待ち遠しく思っていた。しかも4日朝に去らないといけなくなり、リョウタツには5日朝に去ると伝えていたから、タイミングが合わなかったらどうしようかと戦々恐々としていたのだった。
 「あさって去らないといけなくなったんだよ」と連絡しようかと思ったが催促しているようでいやらしいなと迷っていたとき、明日の夜はあいてる?と連絡があり、ほっと胸をなでおろしたのであった。
 17:20くらいにリョウタツに行こうぜと誘われたが、楊くんに一緒に、セブンイレブンに行ってもらいケータイのsimの延長について聞きに行く約束が17:30なので、少し待ってもらうよう伝える。するとリョウタツ、「なら楊くんと一緒でいいのでは…」みたいなことを言ったが、つい中国語が聞き取れなかったふりをして、「楊くんにsimについてセブンイレブンに一緒について行ってもらうんだ」と事情の説明をして、会話の流れを変えてしまった。楊くんはぼくも好きだし、一緒でもいいのだが、リョウタツとふたりの方がおもしろいかと思ったのだった。しかし楊くん、仕事が終わらないらしく、結局セブンに行ったのは17:45で、聞き終わったのが18時、ずいぶん待たせたが、リョウタツは平気な顔をしていた。台湾人は待つことには慣れているように見える。鉄道もいつも遅れてるし。
 リョウタツは車通勤なので、車の助手席に乗せてもらう。で、何食べたいの?と聞かれるが、よくわからんので台湾料理と答える。リョウタツは台湾料理つっても色々あるやん、という様子である。どこか郊外にあるオシャレなレストランにでも連れて行かれるのかしらんと思っていたが、玉井の街中の、台湾でよくある小汚いがうまそうな店の前に停めて、ここかここかどっちがいい?みたいなことを聞かれる。たまたま互いの入ったことがない店が同じだったので、入ったことのない方に行く。
 しじみのスープやガチョウの肉や何やらを頼む。
 食べながら色々と話した。愛地球博に両方とも行ったことがあることがわかった。いつまでこの仕事をするのか聞いたら、「そうね、それはとてもいい質問だわ。このことは英語で話しましょう」「周りの人に聞かれるとまずい?」「そう」みたいな感じで話してくれたが、ここにはルールがなさすぎる、目標とかがないと…いうことだった。ぼくはルールも目標もいらないと思うのだがもちろんそんなことは言わず(日本語でならややこしいことも言えるが英語や中国語では無理だから)聞いていると、ほんとは病院で働きたいということだった。もともと大学で病院で働ける資格を得ているのだ。ぼくがこの施設をどう思うかという話になって、前に同い年くらいの人と話したときは言えなかったが、「筋トレとかストレッチとか体を緊張させることはあんまりいらないと思う。それよりもリラックスさせることが大事だ。まあこれはぼくが西洋式よりも東洋式を好んでいるからというだけなんだけどね。気功をやらせてもらったりしたよ」みたいなことをたどたどしく言った。たぶんリョウタツが大学で習ったこととは違うと思うのだが、ふんふんと聞いて、気功を提案してやったりしたというところでは、おーすげー的反応をしてくれたあたり、コミュニケーションのうまい女性という感じがした。
 リョウタツはもともと美術系のことを小さいころからやっていたらしく、しかし大学に進む、つまり職業を考えるにあたって(日本の大学はとりま行っとけ、仕事は就活で考えればいいスタイルだが、台湾はもっと学んだことと仕事が直結することが多いと思う)、美術だけで食っていけないと思っていたときに、障害者の職業訓練のようなことを学べると知り、これならクリエイティビティがあっていいと思ったそうだ。
 日本について何が好きか聞くと、あんまりなさそうだったが、音楽は好きらしく、椎名林檎の「東京事変」や宇多田ヒカルの名前があがった。他に、英語の音楽も聴くらしい。台湾の音楽はあまり聴かないらしい。
 4連休なにした?という話になって、ぼくは斗六で芝居を見たり台南にいたことを話したが、リョウタツは台湾の各地を巡っていたということだった。しかし「彼氏と行ったんだけど、それでね…」と、当然のように彼氏がいることを話され、おー、彼氏がいるのか、ふーん、あ、そうなんか、と心の中で思いつつ、聞いていた。
 なんでわたしを食事に誘ったの?と聞かれ、あなたと話したかったから(こう日本語に直訳するとキザっぽくなるけど、我覺得想跟妳聊天と中国語下手な外国人が言ったわけでふつうに簡潔な表現です)と答えると、ふうーん、どうなのかしら的な顔をしていた。
 車で送っていこうかと言われたが、10分ほどで帰れる場所だったから、店の前で別れた。
 というわけで片思いごっこは終わりである。でもふつうによい友達ができてよかった。楊くんとかリョウタツとかは、次に台南に行くときは連絡することにしよう。
 にしてもこの【裏】シリーズ、おもしろおかしくするために、日本で一般的とされている恋愛観を当てはめて書いた感じがぬぐえない。旅行中に恋愛ごっこするのって、なんか90年代っぽいというか、金持ち日本人っぽいというか、植民地主義っぽい香りがしなくもない。ぼくは非モテ系だから片思いごっこで終わって平和なのだが。しかし台湾で日本人として生きるというのは、植民地統治や戦後の売春ツアー、台湾の人々の現代にいたる「日本ってcoolだよね」意識の歴史を負うということなので、台湾の人々をどうまなざすかは、特に恋愛っぽい表象をするときは気をつけた方がいいような、いや恋愛をことさら取り上げるの自体が嘘っぽいような、と思えて、こんがらがっている今現在である。

33日目 1月4日(金)
 いよいよ玉井を去る日である。部屋を片付け荷物をまとめ、施設の人たちに挨拶をする。名残惜しい感じがするが、ちょうど潮時であったかもしれないとも思う。ボスが土産をくれたが、電池式の筆談ボードだった。ホワイトボードや紙をいつも使っているので、こういうものをもらえるのはありがたい。高いのだ。ただ、こういうの画面が暗いので、案外百均で買えるホワイトボードの方が便利だったりする。おじいさんが車を出してくれる。まず郵便局に寄って、大量に買った本を日本に送る。本は全部で18冊くらい買い、他にもCDや服を送ったので、送料が5000円少しになってしまった。主に買ったのは子ども向きの本で、注音記号がついているから勉強しやすい。日本で出版された中国語の教材を使うより、台湾で中古100円くらいで手に入る子ども向きの本を読んだ方がよほど効果的だし楽しい。
 おじいさんに台南まで送ってもらう。新化の日本時代の神社跡に寄ってと頼んでみたが、台南に直行するという。まあ仕方がない。台南の鄭成功博物館にまだ行っていなかったので、そこまで乗せてもらった。博物館や鄭成功の廟を見た後、近くの魚料理屋に入ったがうまかった。久しぶりに日本料理を食べた感じがした。Airbnbの人から電話がかかってきて、何時に着くのかと問われる。16時くらいと答える。電話でやり取りができたのはすごい。その後、台南駅へ歩いていると、空を戦闘機が爆音を立てて通り過ぎた。台湾にいると、戦闘機の爆音をよく耳にする。空軍に重点を置いているのだろうか。国土が狭いためだろうか。先日、習近平が「統一のためには武力行使も排除しない」と述べたばかりであり、台湾をよろしく頼みます、と戦闘機に言いたくなる。途中、まだ入ったことのない古本屋を見つけた。グーグルマップに載っている台南の駅のあたりの古本屋は全部行ったが、ここはなぜか地図に載っていなかったのだ。いつも通り子ども向けの本コーナーを探していると『北京七小時(北京七時間)』というナイスなタイトルとイラストの、ぼくが一歳のときに出た本が30元(≒100円)で売られていた。台湾の少女が親と一緒に参加した北京ツアー旅行ではぐれ、北京の少年に助けられ、なんやかんやという話みたいである。おもしろそうだから、荷物になるが買う。
 鉄道で高雄へ。普通列車しかなくて、満席だったので台湾式に床に座る。台南からひと駅ふた駅行っただけで田舎になる。沿線を開発すればいいのに、と日本人(特に本家本元の阪急ユーザー)からは思える。でもこれから台鉄が捷運化されると、開発されるかもしれない。電話で伝えた一時間遅れの17時にAirbnbの宿に着いた。宿の人がとても親切だった。疲れがたまっていたので少し眠る。その後、高雄の友人のHさんと一緒に鍋を食べた。Hさんは中学で歴史の教師をしている。出会ってもう6年になる。旧友という感じである。韓國瑜さん勝ちましたね〜などとわからないなりに話す。鍋がうまくて温かくて、そして親しい友達とゆっくりご飯を食べれたことで、少し回復した。鍋の店の隣りに「中国人理髪店」なる看板を大きく掲げた美容院があって、おかしかった。

第34日 1月5日(土) 高雄→佛光山→台東
 鍋の香辛料のせいかうまく眠れず、寝不足のまま出かける。高雄で最も人気の観光地が、郊外にある佛光山である。台湾四大仏教の本山である。しかしのんびりしていて、新左營駅発の直通バスに乗り遅れ、どうしようかと思っていると、タクシーの運ちゃんがひとり100元で乗り合いでどうだと言ってくれる。直通バスは70元だがあと40分くらい待つから、タクシーで行くことにする。タクシーは客が8人で、ぼくは一番後ろの狭い席に座らされた。韓国人の女性がふたり隣りに座っていたが、ぼくだけ縮こまっていた。何か話しかけようかと思ったが、友達同士でもりあがっていたし、韓国語話せないからやめた。韓国語少しはできないとな〜。
 佛光山は博物館が一番有名だが、本山の寺を見たかったので、寺に行く。寺もずいぶんと広い。しかし、金ぴかなばかりで、正直あまり品がないなと思う。ちょっとした美術館があって、そこで大陸から渡ってきた人が開いた寺だと知る。最後に、博物館も見たがつまらなかった。寺は悪くはないがよくもない。
 新左營駅に戻ったが少し時間があるので、近くの蓮池潭を見に行く。日本の旅行ツアーで「高雄」と調べると、たいていこの湖の廟にある龍と虎の塔の写真が一番に出てくる。湖は見れたが、時間がなくて塔まではいけなかった。ただ、いい湖だと思ったので、今度行くことにする。
 走って新左營駅に戻る。台東行きの列車に乗るためである。なんとか間に合った。列車はすぐに地下へ。一年前は地上を走っていたが、ようやく地下化されたようだ。地下化とともに駅も増えている。途中、駅弁の車内販売を買って食べ、野坂昭如の『軍歌・猥歌』を読んだり、眠ったりしているうちに台東に着く。所要時間2時間半ほどである。高雄の東、潮州から台東(知本)は台鉄環線で唯一の未電化区間で、この区間の電化が2020年に完成すると、最速1時間半で結ばれるようである。
 台東では去年Airbnbでお世話になったクリスチャンの人が迎えてくれる。その人の車で家に行く。着いてのんびりしていて、晩ご飯はどうしますかと聞くと、夜は何も食べないということである。疲れたのであまり食欲もなく、近くのコンビニで暖かい海苔巻きを買ったが、あんまりおいしくなかった。その後、Airbnbのおじさんが芭樂を一緒に食べようと言ってくれて、食べながら色々話した。クリスチャンになれと言われ、うーん、そですねーみたいなやり取りをした。

第35日 1月6日(日) 台東の教会へ
 なんで台東に来たかというとそのAirbnbのクリスチャンに誘われたからだが、彼がなぜ誘ったのかというと、私を彼の教会に連れて行きたかったからである。教会の役員のようなことをしているらしい。一年前にお世話になったときは、ちょうどクリスマス前で、その教会の人々と「メリークリスマス」言ったりきよしこの夜歌ったりしながら町を一緒に歩いた。楽しかった。
 途中車に彼のお母さんも乗せ、郊外の教会へ。教会は原住民の人たちがたくさんいた。祈りは、牧師さんの話は寝ていたのだが、歌を歌うのは楽しかった。その後、バスケのゴールがあったので、子どもたちと遊んでいたら、「オトコのグループ…キテクダサイ」と言われ、男性何人かで感想をシェアした。そして昼食をみなで食べ、後は小3くらいの子どもたち3人と一緒にかくれんぼをしていた。そのうちのひとりの女の子と、Airbnbの人とそのお母さんと、日本語を学んでいるおじさんとで、旧台東糖廠を見に行った。先月の施設の旅行で少し寄ったが、すぐ去らないといけなくて気にかかっていたのだった。日本時代の学者が書いた台湾研究の本が売られている。昭和0X年東京初版、民国8X年台北初版などとありおもしろい。もちろん日本語である。小3くらいの女の子は、服でぼくを叩こうとするという遊びをはじめた。あたると金具の部分がけっこう痛いから逃げる。そんなことをしつつ解散である。
 夕食は近くの鍋の店で食べた。店主のおじさんがいい人だった。
 わりと時間があったので、旅程を練った。このまま東回りで台北まで行く。途中、宜蘭に行くことになるが、その一部地域では原住民の言語と日本語がミックスしたクレオールがあるそうである。毎日新聞のサイトで、現地出身の学生が作った映像が紹介されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=4ZsaZr1wpfE
 宜蘭のいくつかの地域ごとに異なるそうだが、総称して宜蘭クレオールと呼ばれている。これを聞くために、宜蘭の少数民族の住む地域に行こうかと思ったが、調べてみるとおそろしく田舎であったりする。ひとつ、鉄道の駅からすぐ行ける場所があるので、そこに行ってみようかと考える。

第36日 1月7日(月) 花蓮M社へ 
 台東のクリスチャンの人の家に泊まっていた。朝、バイクでその人に駅まで送ってもらい、11時の列車で花蓮へ。列車は太魯閣號で、JR九州で走っている885系の輸出版である。台車が振り子型なので、花蓮−台北のカーブの多い路線で活躍するのだ。そして見た目が美しい。885系は日本では「白いかもめ」と呼ばれている。
 それに乗る。今回は窓側であった。ちょうど一年ほど前、花蓮→台東を自転車で友人と走ったのだ。そのときは4日かけたが、それを2時間で行ってしまうことになる。途中、何かが飛んでいるなと思ったら、蝶々が大量に飛んでいるのだった。菜の花的な何かがよく咲いていた。
 花蓮に行くのは、M社の人に会うためである。M社というのは日本のキリスト教の団体で、手島郁郎という内村鑑三の弟子が昭和23年にはじめたものであるが、日本のキリスト教の世界からは基本的に異端視されている。特徴は、原始福音を重んじることで、ユダヤ教から誕生したばかりのキリスト教を基本としているようである。最近知り合った知人がM社の一員で、一度大阪の集会に参加させてもらった。五つの「信条」があるが、そのうち一番はじめに書かれているのが、「我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。」という言葉である。大阪の集会でも大きな日の丸が掲げられていた。私がM社に興味を持ったのは、この右派的なところからである。ググると日本共産党の「赤旗」でひどい書かれようをしているなど、ネット上での評判は最悪であるし、実際に一般のクリスチャンからの評判も最悪なのだと思うが、私が見た限りは、その核には宝のような芯を持った組織である。台湾は手島郁郎も訪れており、台湾M社は何十年もの歴史がある。今は花蓮と台北に拠点がある。そのうちの花蓮M社に泊めさせてもらう予定である。
 花蓮—台東は東西の両側を山に挟まれており、南北に細い平地となっている。山は西側は3000m級であるが、東側は500mくらいだろうか。南北に広がる平地は花東縦谷と呼ばれる。北が花蓮、南が台東であるが、その間に小さな町が点々としてある。町の他は、田んぼが広がる。台湾のなかでも、うまい米が取れることで有名な地域である。台湾の西はひと昔の日本のように、光化学スモッグがいつもあるようだが、東部は空気がおいしい。
 そういう美しい景色であるから2時間などあっという間である。花蓮駅に着くと、幕屋の人が迎えてくれる。バイクの後ろに乗せてもらって、その人の家に行く。立派な一軒家である。家では、奥さんと、20歳前後の女性がいて、昼ごはんをごちそうになる。M社は小さい宗教組織であるが、そのぶん信者間のつながりは強く、この花蓮の家もM社の人が寄付したものであり、これまでも多くのM社の人々がここに住んできたようだ。20歳前後の女性というのは、一瞬ご夫婦の娘さんかと思ったが、M社メンバーとして住みつつ、花蓮市中にある慈濟大学の中国語センターで中国語を学んでいるようである。奥さんも同じようにして、中国語を勉強しているようだ。
 花蓮駅に迎えてくれたM社のおじさんは60歳であるが、若い頃台湾に住んでいたらしく、中国語がよくできる。花蓮の教会に行って、人々と交わることが主な仕事のようである。そのおじさんが懇意にしている教会に連れて行ってもらう。畑のなかにあった。住居のそばに自分で建てたというお手製の教会である。歓迎してくれた。
 夕食は、同じくM社メンバーで慈濟大学の中国語センターに通う、18歳の青年もやってきて、一緒に外の店に行く。青年は夏ごろ来台して通っているらしい。はじめはM社の家に住んでいたが、今は大学の寮で楽しくやっているとのことである。9月からは台北の大学に、学部生として入学するつもりらしい。彼とはなんとなく気が合った。そして、とてもうらやましく思った。ぼくなど京都大学という日本の名門大を卒業したが、自分が勉強しなかったこともあって、特に何の技能も身につかなかった。学んだことは、大学の外からの方が大きい。しかし、20歳前後の若者に、自由に何かを学んでいいと言ったところで、何をしていいかわからず中途半端になってしまうのはやむを得ないではないか、と言い訳しておく。もっとも、優秀な人たちは大学を活用してどんどん学んでいっていたが。うらやましいというのは、やりたいこともなく日本の大学に進むくらいなら、海外の大学にいた方がよほど色々と学べそうだということである。実際昨今の日本でも、高校を卒業して海外の大学に行く人は増えてきているようである。私の周辺は、その発想は生まれるような環境ではなかったが、しかし今後そうする人はどんどん増えるだろうと思う。
 家に帰って今回の台湾ではじめて湯船に浸かった。助かった。

5週目終わりです あと少しだけ続きます