別に買えばいいだけだが

3年ほど前の鬱屈で膨れ上がっていた自分が渇望していたものは殆ど手に入れてしまったので、今は世俗的な欲求に支配されている。
社会的に認められたいし、お金を稼いで良い家に住みたい。
高円寺の190cmくらいある不動産屋に圧倒的体格差で促されるままに入居した六畳のワンルームが少し物足りなくなってきた。
台所と居住スペースが近すぎる。流し台から壁を隔てず2歩で寝床に入れてしまう。自炊などした日には部屋中が料理から発せられる臭気に制圧される。こんなもん台所に住んでいるようなもんじゃないかと思う。1Rというか、K(ケー)に住んでると表現したほうが正しいと酔っぱらって喚いたこともある。
小規模なアパートには珍しく、オートロックがついている。立派なもんだと思う。
一人暮らしの男の住居にオートロックがついていて何が嬉しいかというと、特に嬉しいことはない。自宅のオートロックは目下、カギを持たずに家を出た俺を締め出すぐらいしかその機能を発揮してない。どっちかというと敵だと思ってる。

散々に飲酒をしてから寝るので毎朝酷く喉が渇く。甘いものは特段好まないが、寝起きに炭酸のジュースを飲むのが好きだ。二日酔いで目を覚ました日曜の昼前に、歯も磨かずスウェットのまま家を出た。一番近い自販機の、唯一の炭酸飲料であるがぶ飲みメロンクリームソーダを購入し、家に戻ろうと5歩進んだところでカギを持っていないことに気づく。他の住民が通りがかるのを待つ間、右手のがぶ飲みメロンクリームソーダの馬鹿馬鹿しい名前と冷たさが憎くなる。がぶ飲みメロンクリームソーダは、オートロックに締め出された男の持ち物としてはこれ以上ないくらいしっくりくる。
がぶ飲みメロンクリームソーダに相応しい日々を送っていたとは思うが、がぶ飲みメロンクリームソーダはいつのまにか近くの自販機から姿を消していた。あの間の抜けたジュースを手近な範囲で買えないのは少し寂しい。

もはや陳腐かもしれないが、失ってからその大切さに気が付くということは常であって、がぶ飲みメロンクリームソーダ同様、眼鏡を紛失してからようやく自分の生活には眼鏡が必要なのだと気が付いた。いや、がぶ飲みメロンクリームソーダなんて比較にならない。なぜなら俺はとても視力が低く日常生活に支障が出ている。
今から考えれば数か月前から俺は眼鏡を失くしつつあった。目が悪い癖になんとなく心地が良くなくて、眼鏡をかけるのがあまり好きではなかった。
一番上のランドルト環の向きさえ判別できない人間のすることとは到底思えないが、「冬は曇るから」などと、誰へともつかない言い訳を唱えて、眼鏡をかけず、あろうことかコートのポケットなんかに突っ込んで家と会社の往復を繰り返すうちに眼鏡はなくなっていた。

よく考えれば思い入れのある眼鏡のはずだった。東京に引っ越す数日前、最後に、と友人と飲みに行く数時間前、丸眼鏡が欲しくなって河原町の眼鏡市場に入った。
丸眼鏡は意外とないもので、一番安くても2万円ほどしたのだが、東京に行く前にどうしてか、どうしても丸眼鏡が欲しくてその場で2万円を出した。引きこもりとフリータの中間に位置していた当時の自分のどこにそんな金があったのか。財布の紐が固い自分としては本当に珍しい買い物だった。どういう発想だったのか、上京に際して必要な装備だと考えていたのかもしれない。

己が何に支えられて何を必要としているのか考えもせず、手近な心地よさを求めた結果、画面がぼやけてテレビを見ることもままならない。せっかく東京のテレビにはトミーズが映らないというのに。

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