ジャイアント彼岸花

小学生のころ、図画工作の時間が一番の苦痛だった。前提として絵が下手というのはもちろんだがそれ以上に自分の内側の何もなさみたいな、未熟さ、拙さ、恥じらいみたいなものが絵や工作になって現れるのが嫌だった。小学生のくせにそんなことが気になっていた。

六年生の時、それぞれに空の木箱が配られて、その箱に各々が自由に絵を描くという授業があった。多分オルゴールか何かだったと思う。いまだにそうだが、他人から自由に自己を表現してくださいと迫られると俺は固まってしまう。表現できる自分なんてありませんが……とスタート地点で卑屈になりいつまでも前に進まない。周りのクラスメイトが動物や好きなキャラクターの絵を描き始めるなか木目の立方体を前に途方に暮れた。描きたいものが全くない。

そんなもん適当に動物でもポケモンでも描けよとは思うが、例えばその時仲が良かった友達は絵がうまく、今でも覚えているぐらい見事な鷹の絵を描いていて、何より自由に絵を描けと言われて鷹を描くという選択がとれることに決定的な違いを感じた。俺の場合はなぜそれを題材として選ぶのかが自分の中で納得できないと何も始められない。できないくせに心に職人がいる。日ごろから鷹が大好きで鳥類図鑑でも持ち歩こうものなら迷わず鷹を選ぶことができるのだが、俺にはそういう自分を表すような好きなものが怖いくらいなかった。これに関しては今も悩んでいる。その友達も別に鷹が好きというわけではなかったと思う。でんぢゃらすじーさんとかのほうが好きだっただろう。

結局悩んだ末に俺は木箱を紫に塗り京都サンガFCのエンブレムを描いた。別にサンガファンではないし特に好きでもない。意味不明だ。【なぜそれを題材として選ぶのかが自分の中で納得できないと何も始められない】んじゃないのかよ。

一応理屈はあった。小さいころにサンガの試合でエスコートキッズをしたことがあり、ゆえに俺と京都サンガFCには多少なりともゆかりがあるので、俺は空の木箱をサンガのユニフォームカラーに塗って、エンブレムを描いてもいい、そう自分を納得させた。あれこれ考えた末にこだわりが捻じ曲がってわけのわからないものが出来上がる、そんなことが本当に多い。

彼岸花を写生する授業があった。みんなが画用紙の中に2本か3本の彼岸花を描く中、俺は絵が下手で縮尺がわからず、大きく描きすぎて画用紙に収まりきらなくなり、画用紙一面を虫眼鏡で拡大した彼岸花の一部が埋め尽くすような絵が出来上がってしまった。描いた絵は教室の後ろの壁に張り出されるのだが、俺の描いたドデカ彼岸花は異様な存在感を放っていて、恥ずかしくてたまらなかった。授業参観の日は頭を抱えた。

親も先生も俺のジャイアント彼岸花を個性的だと褒めちぎった。俺にとっては恥部同然だったから、褒められるたびに違うんです、俺は絵が下手で、手先の動かし方も、画用紙に対してどのくらいの大きさで彼岸花を描けばいいかもわからなくて、あいつは醜い怪物なんです、個性を発揮しようとしたんじゃないんです、と弁明したが、子供の謙遜が微笑ましく映ったようで大人はニコニコするだけだった。彼岸花自体は結構すきです。

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