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基板設計物語(上巻)


<プロローグ>


「センスが無ければ辞めた方がいいよ」

新山明(にいやまあきら)が配属後に主任から掛けられた言葉は厳しいものだった。思えば就職活動からすでに大変だった。
工業大学に在学しているのだから、進路希望はメーカーに決まっている。
なのに明が在学する地方の大学に回ってくる求人票は、辛うじて親会社のメーカー名が分かる程度の子会社ばかりだった。

「応募理由は?」「どんなことを実現したいですか?」
いや入社しないと分からないでしょう? 御社では何をモチベーションに仕事をしてるんですかと逆に聞いてやりたい。
就職率95%超を誇る工業大学で、明には答えが見つからず、4年生の夏を過ぎても就職が決まらずにいた。

幾度となく選考に落ちてたどり着いたのは、およそ明の人生にかかわりが無かった地方の、企業城下町を持つ歴史のあるメーカーだった。入社前にその社名を聞いたことはない。
同期は10人ほどと多くないが、ほぼ有名大学出身が占める。つまり古色蒼然とした会社は大学名で選考したのだろう。わずかに地元出身の同期もいるが、第一希望だったとは思えない。明自身も完全な成り行きだった。
内定を貰ったのは最終選考のグループ面接が理由だとは思う。無我夢中で話した記憶は残っているが、話した内容は何も覚えていなかった。

第1章   スタート

入社研修は2カ月あった。明たちがお互いを知り仲良くなるには十分だった。明はアパートを借りたが、男子寮や女子寮にお互い行き来し、大人になること――自分が稼いだお金で生活することを楽しくも実感していた。

その企業城下町は「日本のシリコンバレー」と呼ばれる山間部にあった。中学の授業で習うほどの水が綺麗で精密工業に向いた土地だったが、峠を抜けなければどこへも行けない。同期の中にはすでに車を持つ者もあり、誘い合っては買い物や遊びに出かけた。入社研修には別の拠点にある工場実習もあり、研修が終わるころにはさらに仲間意識が芽生えていった。

配属は工場勤務と本社勤務に別れ、明は本社にある技術管理部に配属された。営業部でも技術部でも、工場勤務の生産部でもない技術管理部である。業務内容が明にはまったく想像がつかなかった。

配属後、指導役に30代半ばの男性社員がついた。
「では基板設計をやって」
その指導役の町田主任はいきなりそう言って忙しそうに去っていった。
目の前にはUNIX端末がある。
明はパソコンを持っていなかったし、しかもUNIXは大学で調べ物をするぐらいでしか使ったことはなかった。しかも基板設計とは何だろうか。

周りを見渡すと何人かが明と同じように端末に向かっているが、他人の作業に構うほどの余裕は無さそうだった。
仕方なくマウスを動かしてみる。左クリックと右クリックで違うコマンドがモニターに表示されるが、それが何を意味するかは分からない。
何度かクリックして、「配線」というボタンが表示されていることに気が付いた。主任は配線を繋いでと言っていた気もする。
試しに「配線」をクリックすると今度は「タレット」と表示された。タレット? いちいち分からない。
その時隣に座っていた人が親切に
「タレットは1番でいいと思うよ。主任は何も言わなかったでしょう?」
と教えてくれた。言われたとおりキーボードで1を入力し、続けてスペースを入力する。

そうこうしているうちに昼休みになり、先輩社員に交じって社員食堂に向かう。テーブルに同期が集まると皆、何か言いたげな、それでいて周りの先輩社員に聞かれたくなさそうな複雑な顔をしていた。
明は自分が仕事できていないことを不安に思ったが、同期たちもそうだったかもしれない。それに今日は、いつもより新人が集っているテーブルは周りから注目されている気がしてみな黙っていた。

「俺、寮の先輩が指導してくれることになってさ」
食事を終えた吉田が照れくさそうな笑顔を浮かべながら仲間たちに告げた。
寮に住む吉田は技術部への配属で、他にも何名か技術部に配属されていた。技術部は人数が多く、担当製品によってグループが分かれている。
吉田はモーターの開発部門だったが、他の同期にも歳の近い先輩が指導に付いたようだった。
明に付いた町田主任は三十代半ばだった。22歳の明にとって歳が近いとは言い難い。吉田たち技術部に配属された同期をうらやましく思った。

昼休みが終わると明が配属された技術管理部で昼礼があった。
20人ほどが集まり、各々の報告に部長が指示を出していく。最後に町田主任が明を紹介し、「基板設計を担当して貰う」と言うと周りがざわついた。
不安に思ったが、明には相談する相手がいなかった。

昼礼が終わり席に戻ると、主任に「操作は分かる?」と問いかけられた。
山本さん――昼礼の時に隣の端末に座っている先輩の名前が分かった――がタレットについて教えてくれたと答えると、
「そう、タレット1番は配線幅0.15mmね」と主任が応じた。
未結線と配線と、幾つか明には理解できない単語を言い残し、「山本くんよろしくね」と隣席に向かって言うと主任がまた去っていった。

さて、どうしたものか。明は腕を組んだ。
未結線と呼ばれる糸みたいな線は「配線」コマンドを使うと少し太めのラインになる。マウスをクリックしていくとその軌跡にラインが引かれていく。糸を全部ラインに変えていくのが正解な気もするが、これが「設計」なのだろうか。
「山本さん、これをこうやってラインに変えていけばいいんですかね?」
隣の席に座る山本に話しかける。
「そうそう。DRCがONになってるから違反はしないはず。練習だから自由にやってみて」
特に迷惑気なそぶりも見せずに山本が答えた。

15時。休憩時間を告げるチャイムがなる。
会社には決まった時間に休憩し、休憩終わりに体操をする習慣があった。
「じゃあ休憩室に行こうか」
山本に誘われ明は休憩室へ行った。自動販売機の前には行列ができており、並んでコーヒーを買った後、山本の向かいに腰を下ろす。
「どうだった? 配線は進んだ?」
「それが、配線ができなくなっちゃって……」
最初は配線できていた。それが次第にできなくなった。マウスは動かせるのだけれども、クリックをしても糸がラインに変わらない。
「あー、それはエラーがあるからかも。DRCをオンにしてるから」
「DRC? オン?」
「だから、エラーになるような配線はできない。設定を変えれば配線はできるけど…… オフにするのはマズいからIGNOREにしようか」
「いぐのあ?」
「イグノアーにDRCの設定を切り替える。エラーは出るけど配線はできる。配線した後にエラーの内容を確認すれば良いと思うよ」
「ありがとうございます、じゃあそれでお願いします」

もうひとつ明には気になっていることがあった。
「町田主任は忙しいんですか?」
「情報システム室を兼務してるからね、君たち新人が配属されたからアカウントを作ったりとか。今がちょうど忙しいんだよね」
「そうだったんですか。……主任は基板設計をやらないんですか?」
「やるよ! 会社で一番設計が早いよ。あと僕はフレキの設計だからちょっと新山くんとは違うけど、大ベテランの相原さんと技術から転向した成瀬さんは同じリジッド基板の設計をやってる」
「フレキ? リジッド?」
「まぁそのうち分かるよ」山本が笑ってみせた。

休憩が終わると、山本が明の端末の設定を変えた。配線ができるようになって明は安心した。取りあえずだけど、分からないままでも作業を進めることはできる。
少し落ち着いて周りを見渡すと、少し年配の相原が斜め後ろの端末にいることが分かった。山本が言う成瀬の姿は見えず、休んでいるとのことだった。

明が配線をすると、何かメッセージがモニターに表示されては消えた。
これが「エラー」だろうか? でも確認の方法が分からない。
そして配線が白く表示される。緑色の配線に白色の配線が混ざっていく。
幾度となく繰り返すとモニターには白の表示があふれ、見にくくなった。
なんだろう? でも配線はできる。

そしてデータを保存して開きなおすと白の表示が消えることに気付いた。
すべての配線が緑色で表示されている。明はこの方法で配線を緑色に戻すことに決めた。
やがて町田主任が戻ってきて、UNIX端末の他にwindows端末があてがわれた。メールの設定やアプリのインストールをおこなってその日の作業は終了した。

明は寮に住まず、会社の一駅隣りのアパートを借りて住んでいた。
たしかに寮は安い。しかし食事は会社の食堂で代わり映えがしないし、田舎のここでは思ったよりも安くアパートを借りることができた。
無事に配属1日目が過ごせたこと、そしてこれから本当に始まる社会人生活にひとりビールで乾杯し就寝した。

次の日の朝、席に着くと金髪を一本に束ねた若い女性が明に近づいてきた。
「よっ。おはよう」
「おはようございます」
「成瀬です。昨日休んでたからはじめましてだね、よろしく。話は、まぁ飲みに行った時にでもすればいいか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
成瀬は手を振ると空いていた明の右隣の席に腰を下ろした。

その日の昼礼後、明は主任に基板データを見せることになった。
「今こんな感じなんですけど……」
「え、ショートしてるじゃん!」
主任がマウスを操作してデータを見ていく。
「あれ、DRCの設定が変わってる。いじったの?」
左隣りの席に座る山本が答える。
「それは新山くんが配線ができなくて困ってたので……」
「たしかにDRCをオンにすると配線ができない理由が分からない時もあるからね、良い判断だったと思う。けど」
「新山くん、なんでエラーを無視したの? 白くなったでしょ?」
主任に問いかけられて明が答える。
「それはデータを開き直したら消えたので問題ないと思って」
「……なるほどなぁ。でもちょっとセンスないかな」
主任が苦笑いを浮かべる。

「新山くん、おれが最終選考にいたの、覚えてないかな?」
明は主任がいたかは覚えていなかった。様子を見て主任が続ける。
「その時新山くんはものづくりがしたいって言ったんだよね。メーカーで働きたいと。他の学生の子はもっと具体的だった。うちの製品を勉強してきて、その製品の開発や営業に大学で学んだ知識を活かしたいと」
そう言ったことは明も覚えていたし、今でもそう思っていた。

明の学生時代の成績は、留年こそしなかっただけで良いものではなかった。だから他の就活生と同じように大学で学んだ知識を活かしたいとは言えなかったし、今でも同期に勝てるとは思わない。だけどものづくりはそれだけではないはずだ。
明に関心があるのは「人の役に立つ」という一点だった。
人の役に立って、その人がものづくりを進める。たまには大学で学んだ知識を使うことがあるかもしれない。それが何かは分からないけど。
業種にこだわりが無いから、就職先はメーカーなら何でも良かった。
明が入社研修を通して思ったことは、有名大学出身の同期はやっぱり頭が良いということだった。内定を貰ったきっかけは大学名かもしれないが、明と同じかそれ以上の夢もあるし行動力もある。
研修期間に彼らと仲間と呼べる間柄になれたのは良かった。

「その時の選考で、おれが新山くんを技術管理部に貰いたいと提案したんだよ。ものづくりはひとつの部署でできるものじゃない。
すべてを見渡せる部が必要。って分かるかな?」
「あ、それが技術管理部の役割なんですね。技術部と生産部を繋ぐような……?」
「そうそう、購買部や、たまには営業部もね。技術管理部は部署間の潤滑油であり、司令塔でもある。
話を戻すけど、知識を活かしたい子は専任部署で、新山くんみたいな子はうちが採用。これが適材適所」

「でもなぁ」腕を組んで主任が続ける。
「センスがないなら辞めた方がいいよ。ショートが分からなかったの? 大学は電気やってたんでしょ?」
「主任、まだ早いですよ」隣で聞いていた成瀬が話に割って入った。
山本も心配そうに見ている。
「主任が面白い子を拾ってきたのは分かりました。だけど昨日配属されての今日。基板のことを何も知らないんじゃないですか?」

「そうなの? 新山くん」聞かれた明が主任に頷く。
「はい、見たことも聞いたことも無いです」
「主任、せっかく若いのが入ったんだからいじめないでくださいね?」
成瀬が言い咎めると主任が明の方を向いて手を合わせて謝る。

「てっきり基板のこと知ってると思ってた。ごめん!」
「いえ、ちゃんと聞くべきでした。それでショートとは……」
主任がモニターを指差して説明する。
「ほら、ここに信号名が出てるてしょ? 配線が違う信号の配線とぶつかってはいけない、は分かるよね?」
「はい、それなら分かります」
「今使ってるツールはCADといって基板設計をするためのもの。
上から見た平面になってて、DRCはショートしないようにしてたってわけ」
「そうだったんですね。平面かー」

「こら新山」成瀬が今度は明の方を向く。
「知らなかったとはいえ設計をミスったんでしょ。練習台のデータ? 主任、練習ですよね? え、違うの? まじかー。
新山、どちらにしてもミスったならすみませんと言わないと。教わったならありがとうございました、ね」
「すみませんでした。気をつけます」
「それでよし。筋は通さないと!」
束ねた髪を揺らして、成瀬が口角を上げて笑ってみせた。

第2章   再スタート

「相原さん、ちょっと良いですか?」
主任が声をかけると、我関せず作業を続けていた相原が後ろの席から振り返ってこちらを見た。相原は主任よりもさらに年上のように見えた。

「改めて紹介です。こちらは基板設計チームに加わった新山くん。みなさんよろしくお願いします。
新山くん、見てのとおり基板設計チームはなかなか新人を取らない。
新卒では新山くんが初めてだね。
山本くんと成瀬さんは若いけど中堅だし、もとは他部署だったし。
……つまり教えることに慣れてない」
山本と成瀬がうんうんと首を縦に振る。

主任が言葉を続ける。
「それと、やっぱりセンスがなければ基板設計を続けるのは難しい。これは新人だからベテランだからという訳では無くて。
技術部から挑戦した人で続けているのは成瀬さんくらい。簡単な基板ならできるけど、メイン基板(※)は駄目という人が多い。
半年ぐらい様子を見て、厳しいようだけど場合によっては他のチームへの移動を考えたい」

※メイン基板とはCPUやMemoryがある、製品の中心になる基板

それを聞いて不安げに辺りを見回すと、成瀬が笑いかけてきた。
「とにかく基板設計をやろうよ! 明日の心配は明日すればいい」

以来、明は本格的に基板設計に取り組むことになった。
毎日少しずつ新しいことを覚えていく。
教えるのに慣れていないどころか、基板設計チームは操作マニュアルを何も作っていなかった。共有の棚にあるのは分厚いCADの説明書のみ。

ある日、休憩室でコーヒー片手に新聞を開いている山本にそのことを言うと、ちゃんと説明書を読んでいるのは主任だけということだった。聞くと「主任の趣味だから」と答えた。
主任がいつも最初に遊び倒し――説明書を見ながらあれこれと試して、という意味――、そのあとは口頭で教えながら人に使わせるらしい。情報システム室を兼任してるのも、新しい物好きゆえということだった。

仕方なく明は、聞いたこと学んだことをメモとしてパソコンに入力していくことにした。例えばビア。配線が行き詰まった時にビアを入力すると、別の層に移動して配線を続けることができる。
配線ができる導体層以外にも役割を持った層があり、それらを重ねてひとつの設計データ(※)ができている。ミルクレープみたいなもの、らしい。

※層構造と言う。導体層のほかにシルク層やレジスト層などがある

また別の日は、主任は「配線が終わったら面を入れて」と言うなりどこかへ行ってしまった。配線が終わったら設計は終わりではないのか。
結局何をするのか分からなかった。

他にもいろいろ分からないことがあった。
いろいろな層を表示して眺めていたら、配線を接続するパッドと同じ大きさの図形が導体層以外にもあることを見つけた。
層名称には「メタルマスク」とある。見ていくと一部はパッドと違う形状だったり、「メタルマスク」の図形は無いということもあった。
これはおかしい。あるならある、無いなら無いのが普通のように明には思えた。もしかして操作ミスで図形を削除してしまったのだろうか?
ただ、試しに削除してみようと思ってもコマンドが分からなかった。
メモには「メタルマスクは謎」と書き記した。

配属から数日後、席に戻ってきた主任が明に声をかけた。
「新山くん、歓迎会は月末に「だるま亭」でやることになったからね。
部長の許可を貰ったから、技術管理部で盛大にやろう。
あと別件。明日は他の仕事をお願いしたいからそのつもりで」
横の席の成瀬が顔を上げて反応する。
「だるま亭は鯛の塩釜がおいしいですよね、久しぶり!」
「そうそう。部長に飲ませて金をいっぱい払わせよう」
親指を立てて成瀬が笑ってみせる。束ねた金色の髪が揺れた。

「ところで主任、面を入れるって何ですか?」
明がメモを見ながら質問を切り出した。
「うん? 配線率は100%になった? じゃあデータを見るか……
うんうん、今度はショートしてないね。面を入れるっていうのは、このコマンドを使って、こうやって配線の上をなぞっていくんだ」
「全部、ですか?」
「いや全部じゃないよ、GND(グラウンド)と電源だけ。電源の配線が太かったらGNDだけでもいいけど」
「どうして入れるんですか?」
「接続する端子の数が多いからね、配線だけでは細いんだよ(※)。
ちゃんとした理由もあるけど教えるには早い。今はおまじないで」
「分かりました、ありがとうございます」

※表層ベタ面入力後にGNDを100%結線にする手法もある。ここではGNDも先にパターンで配線する手法で教えている

主任は「おまじない」という言葉をよく使った。
そのたびに明(あきら)はメモに「おまじない」と書き記し、今は分からないけどいつか理由を調べるものとして蓄積していった。

次の日の朝、ショートカットの小柄な女性が主任のもとにやってきた。幾つか言葉を交わした後に、今度は明に近づいてくる。
女性は中野と名乗り、入社三年目の技術管理部の先輩だった。
「じゃあ新山くん、一緒に資料室に行こうか」
何をするのだろう? でもとにかく行くしかないと思い明は席を立った。

基板設計チームのみんなに見送られて中野についていく。
社内とはいえ、中野は通りすがりの人に分け隔てなく声をかけて歩いた。明もそれに続いて挨拶をして歩く。
休憩室の前を通り過ぎ、人通りが少なくなり、さらに廊下を置くに進むと日の当たらない資料室にたどり着いた。大きなドアを開けると暗闇から紙の匂いがする。
中野が電灯をつけると室内の広いスペースが見渡せた。たくさんの分厚い書籍やリングファイルが本棚を埋めている。
そして大きな金属製のキャビネットが床に並び、明の目をひいた。

珍しそうに見回している明に中野が声をかけた。
「資料室に入るのは初めて?」
「はい、基板設計チームのところ以外は行ったことはないです。
あ、食堂と休憩室は毎日行きますけど」
けらけらと中野が笑う。
「技術管理部なのになー。もっといろんなところに行かないと。
よし、今度お姉さんと散歩しよう!」
「はい、よろしくお願いします!」
胸をそらす中野に明がぺこりとおじぎする。
「まじめで大変よろしい。で、きょうはファイリングをしよう」
手招きして明を棚の前に呼び寄せる。

「えっと、この棚に納入仕様書をファイリングしていきます。
この棚全部が部品の納入仕様書になっています。
……部品、って分かるよね? 基板設計で使っていると思うけれど」
「何となくなら。山本さんがライブラリー登録という作業をしている時に少し教えて貰いました」
「そっか。部品をCADで使えるようにしたものがライブラリーだね」

「ただ山本さんは、フレキとリジッドで違うからどうしたとか。
リジッドで使う部品は町田主任や相原さんの方が詳しいって」
「え、部品は違わないと思うけど」
「そうなんですかね? よく分からなかったです」
「部品は部品でいいと思う。町田主任はそれを勉強してこいってことで、わたしの手伝いに新山くんを付けたんじゃないかな」

中野がリングファイルを開いて納入仕様書を明に見せる。
「これが納入仕様書。会社間で取り交わす文書で、こういう部品を納めます、こういう部品を買います、という内容になっていて。
この表紙と、部品のデータシートと、納入時の数量や梱包と、あとは部品メーカーで実施した試験内容の記載で構成されている、かなぁ」

続けてファイルの中をぱらぱらとめくって見せた。
「部品によって仕様書のページ数が違う。
ほら、こんなに厚いのもあるし、逆に数枚しかない仕様書もある。
新しく届いた仕様書を分類してファイリングしていくのだけど」

中野が棚を指差す。
「部品の種類ごと、そして表面実装と挿入実装でファイルを分けているの。最近は表面実装が多くて、挿入実装はアキシャルとかラジアルとか」
「アキシャル? そういえば学校で抵抗値の読み方を習いました。線の色で読むのですよね、覚えてないけど……」
明が言うと中野がまたけらけらと笑った。

中野が入り口の脇に置いてあった台車を棚の前に移動させた。
上にはたくさんの仕様書が積まれていた。
「じゃあ作業を開始しよう。今日一日は新山くんを借りていいって町田主任に言われてるし、この分量ならゆっくりでも終わると思う。
わたしが分類するから、新山くんは穴あけパンチを使ってファイルしていって。穴の位置は正確にね」

中野はさっそく台車の仕様書を手に取り分類を始めた。
表紙で判断するのかと明は思っていたが、そうではないらしい。中野は仕様書の中身をじっくり見ているようだった。
挿入実装のコネクターとして手渡された仕様書を明もめくってみた。リード端子が部品からのびた、いかにも部品! という絵が描いてある。この端子をビアに挿して半田付けするから挿入実装と呼ぶことを思い出した。
表面実装のロジックICとして手渡された仕様書には、複数ページに渡って異なる部品の形状が描いてあった。そのなかには挿入実装と思える形状も含まれていた。

「表面実装はどうやって判断したのですか?」
「今渡した仕様書のこと? 表面実装はマウンターという自動実装機を使うのだけど。工場実習で見ていると思う」
「生産部の新卒研修が工場実習でした」
「そうそう。マウンターが基板の上に部品を載せていたはず」
「あれなんですね、すごい勢いで載せていました。
……どうやって半田付けをしているかはよく分からなかったですけど」
「部品が載っている基板を炉に入れて、半田を溶かす。単純に端子を挿さないで実装する部品が表面実装で良いと思うよ(※)」

※現在では部品の小型化が進み、表面実装部品の固定ピンが挿入端子になっていることもある

明は困った表情を浮かべた。
「それが、どの形状を見れば良いのか分からなくて」
「あー、そういうことか。それなら表紙にメーカー型番が記載されているから、同じ型番を仕様書のなかで探すの」
そう言って中野は明が持っている仕様書に手をのばし、ぱらぱらとページをめくった。
「ほら、ここに同じ型番が書かれてる。型番の末尾はパッケージコードと言って、どの形状を見れば良いか示しているの。そしてそれが実際に買った部品の形状となるわけ」
「末尾が違うと挿入実装の型番になることもあるのですね」
「そういうこと。分からないことがあったらどんどん聞いてね!」
それから中野は部品の種類分けについてもやさしく教えていった。

一通り説明が終わると中野が顔を上げて言った。
「ここにある納入仕様書は、各部門のみんなが業務に使用するものなの。この資料室に見に来たり、依頼があればわたしたちが持って行ったりする。
だから分類を間違っていたら大変で、仕様書がすぐに見つからないと設計や生産に支障が出る。ファイリングは技術管理部の大切な業務のひとつです」
「分かりました。中野先輩ありがとうございます!」
照れくさそうに中野が顔の前で手を振る。

夕方、中野に連れられて明が基板設計チームの席に戻ると、待ち構えていたように成瀬が声をかけてきた。
「部品、覚えちゃった?」
「中野先輩にいろいろ教えて貰いました」
「中野先輩? いろいろ?」
少し顔を赤くした中野が答える。
「なんか先輩って呼ばれることになったみたいで。新山くんマジメなんで仕様書に書かれてることをいろいろ聞かれました。わたしの分かる範囲で教えましたけど……」
「そうなの? それは助かる! 中野さんありがとう」
主任がにこにこ笑って感謝する。
「新山くん、また手伝ってね! それじゃ」
中野は手を振りながら席に帰っていった。

主任が明に向き直って声をかけた。
「新山くん、明日からの基板設計だけど、部品配置もやろう。
今までは配線だけだったけど。それで、もし部品のことが知りたくなったら資料室へ自由に行って良いからね」
「はい、分かりました!」

それから明は席に座り、資料室で学んだことをさっそくメモに入力していった。きょうのできごとは忘れないと心に決めて。

第3章   配線が進まない!

明は、基板設計にセンスが必要だと言われたことをずっと気にしていた。
同期に言わせると明がいま一番実務に近い作業をしていて――先輩の雑用が多いと愚痴を聞かされ――、女性社員の多い技術管理部や、先輩が頼りにしている基板設計チームに配属されたことが羨ましいという話だった。
そんなことより一人前の基板設計者にならないとチームをクビになってしまう。役に立たないと烙印を押されることが何よりも怖かった。
部品配置を学ぶことは、ステップアップであり大きな壁でもあった。

翌日、出社するとさっそく主任から新しく設計する基板を指示された。
それから明ひとり技術部に行き、回路図面と基板外形図面を貰った。席に戻るとメールで部品表とネットリストが届いていた。

主任に操作を習いながらCADデータを作成していく。
まず基板外形を描き、その外側に使用する部品を並べる。基板外形図面にはコネクターしか描かれていない。なのに並べた部品はもっといっぱいあった。明は少し困惑した。
「ここからどうやって部品を配置していくんですか?」
主任がにこにこ笑いながら答える。
「外形図面に無い部品はどこに置いても良いんだけど、あまり自由だと困るよね。今回は未結線を見ながら順々に基板のなかに配置してみるかー」

主任がコネクターから出ている未結線をたぐって幾つか部品を配置する。
それを明に見せたあと、undoで全部品を基板の外に戻した。
「分かった? 部品同士は近付けすぎないようにね」
明が覚えたての操作で部品を配置していく。
たまに「あー、そうするんだ」というつぶやきが横から聞こえた。

「じゃあ配線してみて?」
すべての部品を配置し終わった明に主任が言った。
配置を無事に終えたことに安堵し、ビアを打ちつつ配線していく。
「まだ時間が掛かりそうだね。あとで見るから進めておいて」
そう言い残して主任はどこかへと出掛けて行った。

配線の作業開始から1時間経過。配線率が0%から30%へ。
昼休みを挟んでさらに1時間経過。配線率50%。
もう1時間経過。配線率60%。

15時になり、いつものように山本と休憩室へ行く。
コーヒー片手に新聞を机に広げた山本が、明に様子を尋ねた。
「きょうは配置から自分でやっているね?」
「それが、配置は終わったんですけど配線がちょっと苦しくて。だんだんビアを打つスペースが無くなってきちゃって」
「まぁそれはあるかな? 残り数本で30分掛かるとかざらだし」
「そうですよね……」
昨日までも配線作業や練習は何回かしてきた。
その時もペースが落ちたが、今回ほどではなかったと思った。

そして定時になり、主任にCADデータを見せるときが来た。
配線率は70%と少しだった。
「明日も続きをやってみようか。100%にならないと意味ないから」
見上げた主任の表情からは何も読み取れなかった。
その日、20時まで残業したところで主任に帰るよう促された。
「今日はもう帰ろう。頭がまわってないでしょ」

家に帰ってからも明は基板のことをずっと考えていた。
配線率が100%にならないと基板は、製品は動かない。
まだ完全に配線ができなくなったわけじゃない。でも、できなくなるかもしれない。ここで苦戦しているようでは。
その夜はベッドで目を閉じてもプレッシャーと不安が消えなかった。

翌朝、明が配線の続きに取り掛かると、主任が成瀬に声を掛けてから出掛けて行った。
「主任はきょう生産部に行ってくるんだって。……さて、と」
束ねた金色の髪を揺らし、右隣の席から成瀬が明のモニターを覗き込んだ。
「ほら、ここを見て。2本の配線を跨ぐのに、4本の配線でビアを使ってるでしょ? どう思う?」
「……あ、逆にすればいいのか」

「うん、いいね! じゃあこの配線はどう思う? 難しいかな?」
成瀬が操作して表示領域の拡大と縮小を繰り返す。
「……ビアを使わないでも配線できる、とか」
「いいじゃん。配線を跨ぐのにビアを使ってるけど、上に行けばその配線が無いから跨がなくて良いよね」

「いい? 拡大と縮小はこうやって操作する」
成瀬がキーボードでshiftキーを押しながらマウスの中ボタンをクリックすると表示されるエリアが広がり、何度もクリックすると基板全体が表示された。今度はshiftキーを押しながら右ボタンをクリックする。クリックするたびにズームされ、最後は配線の1本、それも一部分しか表示されない。

「いつでもビアを使わない方が良いってわけじゃないから。そこは自分で見て考えて。あとキーボードと組み合わせてショートカットコマンドを使うのは基本。プロなら道具を使いこなさないと。
……教わったら何て言うんだっけ?」
「ありがとうございます!」
「じゃあ主任が15時に帰ってくるから、それまでに完成させてみ?」
成瀬がポンと明の肩をたたいて笑った。

明は改めて自分のデータを見た。
指摘された箇所以外にも消せるビアがあることに気付く。
配線を入れ替えて無駄なビアを消していくうちに、最初からビアを入力しない配線が良いのではと思い始めた。ビアを入力すると配線するスペースが少なくなる。でも、いつでもそうではないと言っていた。教えられたとおりに表示領域の拡大や縮小を繰り返してみる。
「あ」思わず声が出てしまう。
ビアを使わないと配線が長くなりすぎる気がする?

腕を組んでじっと考え込む。その横顔を成瀬がちらりと見た。
明が操作してある配線を追っていくと、部品を避けるのに何回も折れ曲がって遠回りしている箇所があった。これが長い気がする原因か。
試しにビアを打ってみると直線的に短く配線できた。
あまりに遠回りになるならビアを打った方がいい。

15時を過ぎ、休憩室から戻ると主任が生産部から戻っていた。声が掛かり、明が端末を操作して主任に基板データを見せる。
「おっ、配線率100%にできたんだね! よかったよかった」
主任がデータを確認しながら成瀬に話し掛けた。
「成瀬さん、新山くんの作業を見てどうだった?」
「ちょっと粗いですね。でも新山が自分で気が付いて直したので」
「えっ、そうなの?」
「わたし、ほんとに見ただけです」
「それにしてはだいぶ良くなったね。でももう少しかな? ここを見て」
主任がモニターを指差し、また髪を揺らして成瀬が覗き込んでくる。
「この部品はこちら側にある方が良いよね」
「あー、なるほど」
ふたりの会話についていけない。それを察した主任が明に説明を始める。

「部品同士の間隔にメリハリが必要だと思って。ちょっと見ててね。……ほら、この部品を動かしたらどうなった?」
主任がundoとredoを繰り返して変化点を見せる。
「……部品と部品の距離が近くなりましたけど。だけど反対側にある部品とは遠くなりますよね。それでも動かした方が良いですか?」
明がよく分からないままに言うと、にこにこして主任が答えた。
「適切な部品配置って何だと思う? 近付ける、あるいは離すもっと明確な理由。配線を通すスペースを作るため、というのも立派な理由だ」
成瀬が横で頷いている。
「そういう判断の積み重ねが、」
話しながら主任が流れるような操作で配置や配線を直していく。
配線が主配線方向に整い、基板がある種の旋律を生み出していく。
「基板設計になる」
修正が終わる。明はそれを美しい基板だと思った。

「なんちゃってね。はい、undo、undo、undo!」
もとの基板の姿に戻る。
「今回の基板は新山くんが設計した状態のもので合格です。だけどもう少し簡単な基板で修行をしようか?」
「はい、ありがとうございます!」
明の瞳がかすかに輝くのを主任は認めた。

第4章   4層基板への階段(1)

配属からひと月が経ち、明の歓迎会の日を迎えた。
三々五々、電車で移動して隣町にある居酒屋「だるま亭」に技術管理部の面々が集まる。貸し切りで総勢20名ほどが集まった。
乾杯の音頭は主任。
「やっと基板設計チームに新人を入れて貰いました」
と頭をかきながら言うと、あちらこちらから笑いが漏れた。

明がチームで固まって飲んでいると、しばらくして技術管理部の先輩である中野が近づいてきた。中野は会社ではいつも作業服の袖をまくっているが、いまは花柄のブラウスをシンプルに着こなしていた。お酒が入って頬を薄く染めている。基板設計チームの成瀬はと言えば、姉御の風格そのままに白いシャツに黒のジャケットを羽織り、焼き鳥片手にビールをあおっていた。
中野が輪に加わりビールを飲み始める。普段はあまり喋らない相原も、最近の流行を中野から聞き出してはいちいち驚いてみせていた。

しばらくして中野が明に声を掛けた。
「新山くん! そろそろあいさつ回りに行こうよ」
そして席を立とうとするふたりに成瀬が声を掛ける。
「中野先輩、新山をよろしく!」
中野が顔の前で手をぱたぱたと振った。
「そんなそんな。成瀬さんにまで先輩とか呼ばれると困りますよ」
「ほら、さっさと行って。部長が待ってるよ」
けらけらと中野が笑い明を連れ出す。
「新山くん馴染んだねぇ、よかったよ。だって」
言い切らないうちに部長の隣の席に座った。
「主賓のおいでだ。配属おめでとう、かな? よく来てくれました」
部長は当然明の上司でもあるが、基板設計チームは主任が仕切っていたためあまり面識が無かった。それに会社では作業着の下にネクタイを締め、今もスーツ姿でいる初老の男性は住んでいる世界が違うように思えた。
「ありがとうございます。それに歓迎会を開いていただいて」
明がお辞儀をして言うと部長が吹き出して笑う。
「いや、そんなに堅苦しくしないでも。ほら、中野さんも飲もう。新山くんは日本酒は好きかい?」
返事をする明を横目に、中野がガラスの杯に冷酒を注いだ。

水が綺麗な日本のシリコンバレーには、銘酒自慢の酒蔵が幾つかあった。峠を越えなければ遠出はできないが、日本酒と温泉があり仲間がいる。古色蒼然とした町であり会社だが、明はそれを居心地よく思った。

いつの間にか明を中心に小さな輪ができていた。
ふだんの交わりが少ない同僚の輪のなかであらためて乾杯する。
「あいつ、町田は俺の言うことはことごとく聞かなくてね。自由なやつで人の面倒は見ないし、よく新人が欲しいだなんて言ったものだ」
部長が笑って言う。
「聞こえてますよ」離れたところで主任が言い咎める。
「まぁ、これから誉めてやるから。……とにかく、町田にとって仕事は趣味みたいなものなんだ。新山くん、今使っているCADが幾らか分かるか?」

明は買いたいと考えているパソコンの値段を思い起こした。
たしか20万円ほどで、貯金をするかボーナスを使うかしないと買えない。それはさておき、仕事で使うCADがパソコンよりも高いことは確かだろう。
「50万円ぐらいですかね……?」
明が答えると部長が笑った。
「それはいくらなんでも安いな。1台500万だ。それを相原くんと2台で1000万だよ、凄いだろう?」
「1000万!」
「最初はな。それでその後に3台。山本くんと成瀬さんと、そして新山くんがいま使っているやつだ」
「部長、その3台は1台400万に安くして貰いましたよ!」
また離れたところから主任が言う。部長は取り合わない。
「それでも費用対効果は凄かった。十年も前のことじゃない、紙に手書きでやっていたのが嘘のようだ。成瀬さんなんか発表されたばかりのDDRの設計(※)をやろうとしてる。CADを中心にした新しい設計と製造の仕組みを構築したのが町田と相原くんなんだ」
「分かったか新山! それと部長、ご馳走さまです!」
今度は成瀬の声が飛んでくる。
部長が親指を立てて期待に答える。わっと歓声が上がった。
「大変だろうが、CADが使えるのは新山くんの武器になるだろう」
「はい、頑張りますのでよろしくお願いします!」
中野が空になった明の杯を満たしながら言った。
「堅苦しいぞ? それより彼女の有無と好きな女性のタイプを言え!」
「さすが中野先輩!」
また成瀬の声が上がり、技術管理部の女性陣が盛り上がる。そして明の歓迎会は夜遅くまで続いていった。

※2000年頃。Windows2000やXPとともに普及していった

―――――

「そろそろ4層基板をやってみようか?」
明が両面基板の設計に慣れてきた頃、主任はそう言った。あと半月もすれば社会人として初めての夏休みになる。そんなタイミングだった。

明はメモを何度も書き直していて、基板データの作成からシルク入力(※)までひとりでできるようになっていた。まだ製造手配は人に代わって貰っていたが、時折中野に連れ出されては他部門を見て回り、仕事の流れが何となく分かるようにもなっていた。

※基板に製品名や回路記号を文字入力する作業のこと

「はい、やってみます。やっぱり両面基板より難しいですか?」
「そんなことはないよ、配線層が2層増えるからね。ただポジネガ層はちょっと戸惑うかな? ……でもやれば分かるか」
主任がひとり納得する。
「そうだ、配線は簡単なんだけど配置がちょっと苦労するだろうな。
両面に上手く配置すること。ま、部品が多いから4層基板にするわけだし」

言われて4層基板のCADデータを作成する。
部品をすべて表示してみると、過去に設計した基板よりも明らかに部品数が多かった。未結線もぱっと見では1本1本が判別できない。
明の不安をよそに、主任がいつものにこにこした顔で説明を加える。
「両面に面実装部品を配置していいけど、大きな部品はオモテ面にまとめて。実装するときに炉に落ちるとまずいから。
それと4層基板のうち2番目の層はGND、3番目の層は電源に使うから、両面基板みたいに電源とGNDを表層で引き回さなくていいよ」

「GNDだけの層と電源だけの層、ですか?」
「ま、やってみるじゃん」
言い残して主任は打ち合わせに出掛けて行った。

明はさっそく部品を配置し始めた。が、未結線が上手く整理できない。位置が指定されているコネクターから順に未結線を追っていくが、ICを配置したところで未結線があちらこちらに飛び、その先が分からなくなった。
相談しようと思っても、山本と成瀬は打ち合わせに出掛けているのか席にいない。斜め後ろを振り返ると、相原が気難しい顔をしてモニターを見詰めていた。話し掛けにくいと思いながらも、明は覚悟を決めて話し掛けた。
「相原さん、部品が多い場合の部品配置はどう考えますか?」
「ん? ちょっと見てみるか」
腕組みをほどいて振り返り、相原が明のモニターをのぞき込んだ。

「たしかに部品は多いけど。……あれ、回路図は? 貰ってないのか?」
「いえ、貰ったんですけどよく分からなくて。引き出しにしまってます」
「しまってるって。見ていないのか」
相原が目を見開いて驚く。
「それが原因だね。今まで何とかなったのかもしれないけど今回は無理。回路図を見て配置していけばそのうち未結線も整理される。しかしね、たとえ簡単な基板でも回路図を見ないのは駄目だよ」
相原は明を軽く叱った。
「すみません。気を付けます」
明があやまると相原は自分の席に戻って行った。

回路図面を取り出し、見ながら部品配置を再開する。
なるほど回路図どおりに配置すると未結線が整理されてきた。特にICはその周辺に配置する部品が分かる。でも部品に繋がっていない信号があり、回路図をよく見ると接続先が分からないICが幾つもあった。基板のどこにどれを配置したら良いのだろう?
明はまた振り返って相原に話し掛けた。
「相原さん、すみません」
「今度は何?」
「結局基板のどのあたりに何を配置したらいいか分からなくって」
相原がため息をつく。
「それを考えるのが基板設計でしょうが」

相原が明の机に広げてある回路図を指差す。
「まずは信号処理の流れを追う。これはシートコネクターと言って、この先は違うシートに接続することを意味する。
例えばこれ、6:C2と書いてあるけれども、回路図6シート目の左からC番目、上から2番目の区画に接続先があるという意味」

相原が6シート目を開いてその区画を指し示した。
「こちらにもシートコネクターがあって、このICが接続先だと分かる。信号処理には流れがあって、それを追っていくと最終的には接続の全体像が分かるわけだ。全体像が分かれば配置位置が自然と決まる」
「そうやって決めていくのですね、ありがとうございます」

「町田くんは大事なことを教えないのかな?」
その言い方に険があるのを明は感じた。
「いえ、俺が未熟なだけです」
「それじゃ部品の役割も知らないだろう?」
「……少ししか分かってないです」
「だったら資料室に行って部品の納入仕様書を見てきたら?」
「えっ、設計を止めてですか?」
戸惑う明にまた相原がため息をつく。
「回路図が読めないのに設計と言われてもな」

すでに開始しているのだから今できる範囲で設計を、部品配置を進めた方が良いのではという気の焦りもある。が、一方では相原の言うとおりだとも思った。中野と初めて資料室に行った時、部品を理解した方が良いと言われたことを思い出していた。
「相原さんありがとうございます! ちょっと行って来ます」
「そ、そうか。困ったらまた相談してくれ」
態度を変えた明の顔を一瞥し、相原が自分の席に戻った。

それから明は回路図面を持ち、ひとり資料室に向かった。誰もいない休憩室の前を通り、長い廊下を奥へ進む。
そしてたどり着き、誰もいない資料室の灯りを点けた。夏の陽が届かず、ひんやりとしている空気が気持ちいい。古書店のような匂いがした。
「さて、どうしたものか」
思わず声を出しても応えるものはいない。

とりあえず納入仕様書が挟んであるリングファイルをひとつ手に取った。
だが、社内採番で並んでいる納入仕様書の中から、回路図に書かれている部品を見つけることはできなかった。席に戻れば部品表があり、社内採番から部品の型番、そして部品種類が分かる。でもまた叱られるかもしれないと思うと取りに戻れなかった。

仕方なくファイルを開いて眺めた。
先頭の納入仕様書には1987年と発行日が記載されている。10年以上前から購入している部品だと分かった。明が生まれてからは10年後になる。資料室は時空を超越している。ラベンダーの香りはしないけれども。
図面のページを開くと、部品外形と寸法が手書きで描かれた感光紙だった。明はファイルが古い順に並んでいることにふと気付いた。新しいものを見ようと、後ろに並んでいるものを取り直す。そこには中野を手伝った時の仕様書がファイリングされていた。

ぱらぱらとページをめくると、ある仕様書にはこう書かれていた。
『水晶発振器:水晶に電圧を加え、周波数を得るためのデバイスです』
水晶の挿絵がある。メーカーのロゴマークも水晶を模している。
水晶も電子部品として使われているということに明は興味を惹かれた。

またぱらぱらとページをめくる。フォトカプラと書かれている。
『フォトカプラ:発光素子と受光素子を1パッケージに封入し、電気信号を光信号で伝達することで絶縁スイッチとなります』
次の仕様書にはフォトインタラプタと書かれている。
『フォトインタラプタ:発光素子と受光素子を1パッケージに対向して配置し、遮蔽物がそのあいだを通ると検知します』
発光素子はLEDのようなものだろう。受光をどうやって検知するかは分からないけど、光を使って絶縁したり検出したりする。
基板設計は電気しか使わないと思っていた明は、更に部品に興味を持った。

さらにいろいろな仕様書を見ていく。
明はコネクターの種類の多さに驚き、ICやトランジスタの特性グラフには首をかしげた。飽きることなく見ているうちに昼休みになり、そのまま資料室から食堂へと向かった。

第5章   4層基板への階段(2)

同期が1日に1度集まる昼食は、最近では情報交換の貴重な機会になっていた。それぞれの世界が配属先を中心に回り始めたからだ。

明がなんとなく「車が無いとやっぱり不便だよね」と言うと、試乗に行こうとか車を買ったら遠出しようという話がとめどなく出てきた。
「新山くんの部署の成瀬さんってかっこいい車に乗ってるよね」
不意に同期の女子から聞かされた。
「そうなの? 何に乗っているんだろう」
明に車のこだわりは無かったが、どうせなら本人に聞いてみようと思った。

昼休みが終わり席に戻ると、主任と相原が何事か言い争っていた。それを山本と成瀬が心配そうに見ている。
「だからこの方が効率がいいんだって」
「いやだから相原さん、安全を考えてと言ってるんです」
明が山本に小さな声で事情を聞くと、相原が何かCADの設定を変えたとのことだった。データ作成後にいつもと違うと気付いた山本が、主任に相談して発覚したらしい。

成瀬が主任と相原のあいだに割って入る。
「どちらも正しいと思いますけど。ここしばらく相原さんは高密度実装基板の設計が続いていたから。だからグリッドピッチを小さくして部品同士のクリアランスを詰めたいんですよね(※)。でも主任は、全部がそういった基板じゃないから変えない方が良いと。ケースバイケースじゃないですか?」

※グリッドとは配置や配線で使う格子状のポイントのこと。マウンターの性能やインサーキットテスター使用の有無により変わる

主任が成瀬の方を見る。
「俺は安全な設計じゃないと駄目だと思う。大変なことは分かるけど、グリッドを細かくするのは最終手段かなって。近付けて、実装のずれでもあって部品がぶつかったら困るでしょう? おおもとの設定を黙って変えてしまったのも良くない」
今度は相原が成瀬の方を向く。
「たしかにおおもとの設定を変えたのは悪かった。しかし、やみくもに設定を細かくしたわけじゃない。余裕が必要なことは分かるけれども、最初から詰めないと部品が載りきらない基板だってあるんだ。マウンターの性能を考慮した数値にもしている。成瀬さんなら分かってくれるだろう?」

成瀬が主任と相原の顔を見て、そのどちらにもうなづいてみせた。うなづくたびに束ねた金色の髪が揺れる。そしてびしっと言いつけた。
「だからどちらも正しいですって。メリットデメリットがあることで言い争わないでください。ちゃんとコミュニケーションしてください!」
それで和解とはならなかったが、ふたりとも渋々と自分の席に戻っていった。それぞれが自分の端末に向かい、午後の業務を開始する。

場が落ち着いたのを感じ、明は今度は忘れずに部品表を持ち、午前中と同じように資料室に行こうとした。それを見て主任が呼び止める。
「どこに行くの? 部品表を持って」
「はい、資料室に行きます。回路図を少しでも理解するために、部品について調べようと思って。相原さんが、」
急いで山本が駆け寄り、明がしゃべるのを遮る。
「相原さんみたいに回路図を理解したいなら、技術部の回路設計者のところに行くべきじゃない!?」
「あ、たしかにそうですね」
主任が明に笑いかける。
「部品を勉強したいなんて凄く良いことだ。とは思うのだけど、基板設計は決められた時間で配線を100%にしないといけないから。いまは山本くんの言うように回路設計者のところへ行くのが良いね」
やり取りを席を聞いていた相原が、他に知れないように明に目配せを送る。明がそれに気付き、うなずき返す。
「そうですね、では回路設計者に説明を受けてきます」
山本が胸をなで下ろし、成瀬が片側の口角を上げる。
明はそのとき、何となく大人というものが理解できたように思えた。

それから明は回路設計者のところで回路図の見方を教わった。
その基板の役割と各部品のおおよその役割。信号処理は図面の左から右に流れ、それとは別に電源の分配がある。クロック信号はノイズ源になるから、両脇をGNDの配線で挟んでほしいという依頼も受けた。席へ戻り部品配置を再開すると、あっという間に15時になった。

休憩室で明は山本に気になっていたことを尋ねた。
「主任と相原さんは仲が悪いんですか?」
山本が新聞から顔を上げ、びっくりしたように明を見る。
「仲が悪いんじゃなくて。主任よりも相原さんの方が年上だからね、お互いにやりづらいところがあるんだと思う。けど新山くんがいるといいクッションになるよ」
「そんなものですかね?」
「そうそう」
山本が新聞の続きを読み始める。明もコーヒーを飲みながら部品配置を終わらせる方法に思いを巡らせた。

二日後。部品配置が終わり、明は主任に基板データを見せた。
「意外に早かったね。ところで回路設計者から何か言われてる?」
「クロック信号の両脇をGNDの配線で挟んでほしいと言われてます」
「そっか。それでどれがクロック信号?」
「これです。回路図にも注意書きがありました」
図面をめくり、その箇所を指し示す。
「じゃあ操作を教えるから見ててね」
主任がマウスを操作してモニターに信号名一覧を表示する。その中からクロック信号を選択すると、1本だけ未結線が点滅して表示された。
「未結線を点滅させると、どれがクロック信号か分かりやすいでしょ? 信号だけじゃなくて部品でもできる。あと、点滅の解除はこう操作する。はい、やってみて」
明が操作するのを眺めながら主任が言った。
「……ちょっとクロック信号の配線が長くなりそうだな。部品を近付けられないか考えてみて」
「はい」
表示領域の拡大や縮小を繰り返して確認してみる。
「周りの部品を逃がしてスペースを作れば近くに配置できます。でもそうすると、今度はクロック以外の信号が長くなりませんか?」
「いいんじゃない? クロック信号を短くする方が。GNDガードは結構面倒な作業になるから(※)」

※GNDガードがあると単純に3本分の配線スペースが必要になる。また配線が長いとGNDガード中に適当な間隔でGNDビアを打つ必要が出てくる

「あと内層について。今回は4層基板だから2層目と3層目がポジネガ層になるね。サーマルランドとクリアランスランドがネガ図形で、って分からないか。ちょっとマウスを貸して」
そう言うと主任は2層にGNDの面を入力し、そのあとにビアを2つ打った。1つはGNDのビアで、もう1つはクロック信号のビア。そして層の表示方法を塗りつぶしに切り替えた。

「GNDのビアを打ったらサーマルランドが発生して2層に接続。クロック信号の――GND以外のビアを打ったらクリアランスランドが発生して未接続。銅箔が丸く抜かれてショートしない」
「たしかにサーマルランドの方は穴と面が4方向で繋がっていますね」
「分かった? はい、undo、undo、undo!」
主任が操作する前の状態に基板データが戻った。
「ね、前に言ったとおり4層基板は電源とGND専用の層があるから簡単でしょ? ビアを打つだけでいいんだから。では配線よろしく」
そう言って自分の席へ戻って行った。

明は順調に4層基板の配線を進めていった。そして15時になり、いつものように山本と休憩室へ行く。
「今度車を試乗しに行こうと思うんですけど」
「とうとう買うの?」
「はい、どうせ買うなら早い方が良いと思って」
「ま、田舎だからね。でも僕はバイクしか分からないからなぁ……この辺のお店も分からないし。車なら成瀬さんに聞いたらいいよ」
「バイクですか?」
怪訝そうな顔を見て山本が笑う。
「いや、通勤は車だよ。冬には雪が積もるからね。バイクが趣味でBMWに乗ってるんだ」
「BMW? バイクの名前ですか?」
山本が吹き出す。
「BMWはメーカー名だよ、ドイツの」
「外車ですか!」
「外車だけど車ほど高くないから。乗っている車は中古の軽自動車。でも成瀬さんの車はすごいよ。ジェットコースターみたいに加速する」
「へぇー、乗せてほしいですね」
「お願いしたらいいよ。新山くんの頼みなら断らないと思うし」
気になることを言って山本は新聞を読み始めた。

数日後、明が異変に気付いたのは信号の配線を終えた時だった。
いつものように短い信号から配線をスタートし、それが終わってから電源やGNDの未結線を表示させた。画面が未結線で埋め尽くされる。主任が言うには、ビアを入力すればすぐに内層と接続するはずだった。
「山本さん、見て貰えますか?」
「どうしたの?」
設計の手を止めて山本が明のモニターを覗き込む。
「電源とGNDのビアを入力したいのですが、エラーではじかれて」
「どれどれ?」
山本がマウスを操作して基板データを確認する。
「あー、反対側に別の部品の端子があるね。クリアランス不足でビアが入力できない。エラーを無視して入力したらショートするよ」

「ビアのスペースを考えなかったな?」
いつの間にかうしろから相原が覗き込み、明にそう指摘した。
「両面に部品を配置する場合はビアのスペースを考えないとね」
山本が言い相原がうなづく。
「配置から直さないと駄目だろうな」
そう言い残して相原が席に戻って行った。

「ところで新山くんは、どうして短い配線からやるか理解してる?」
「簡単な配線からやった方が気持ちが楽かなって思ってました。配線率がすぐに上がるし」
後ろの席に座る相原が、こちらを向かずにふふっと笑う。
山本が明に答える。
「分からなくはないけど、実は短い配線の方が大変なんだよ。配線が長ければ幾つかルートが検討できる。けど、短い配線は逃げ道がない。短い配線を後回しにすると、今みたいに困ることがある」
山本が端子間の近い場所を指し示す。ビアの入力どころか配線を引き回すスペースも無かった。
「4層基板だと、電源やGNDも一般信号と同じように考えるんですね」
「そうなるかな? 両面基板でも変わらないと思うけど」

「山本くんの言うとおりだな。両面だろうが4層だろうが電源と信号を区別するのはおかしい」
相原が再び振り返り、口をはさんでくる。
「ただ、電源やGNDは繋がる端子数が多いから幾つかルートが検討できる。今回は単純に、端子の近くにビアを入力しようと思ったらスペースが無かった、というだけだ」
「相原さん、補足ありがとうございます。新山くん分かった?」
「……4層基板もそう楽じゃないですね?」
「それはそうだよ!」
「簡単なわけないだろ!」
ふたりが同時に言って笑う。明もつられて笑った。
「でも直すのって大変ですよね」
明がため息を漏らす。
「やるべきことはやらないと。それで次の設計に活かす……何を直すのかは知らないけど」
どこからか席に戻ってきた成瀬が、通りすがりに明の肩をぽんと叩いた。
「はい。……相原さん山本さん指導ありがとうございました」
ふたりが自分の席に戻る。

「そういえば成瀬さん、相談が。ちょっといいですか?」
「なに? お金の相談以外なら何でも」
「車を買おうと思って、」
「車!?」
自分の席に座りかけていた成瀬がいきおいよく立ち上がった。いきおいそのままに明のもとに詰め寄り、腕を組む。
「車の話だとちょっと長くなるかな。仕事中に話すことでもないし。金曜に飲みに行くか」
「成瀬さんが良ければ。どこの店にします?」
「新山は『ばんや』に行ったことある? 予約を入れておくよ。男女でさしのみすると周りがうるさいから、誰か友達をひとり連れてきて」
相原が振り返り無言で手を上げる。
「と・も・だ・ち、です。それに相原さんは車に興味ないでしょ」
残念そうに相原が手を下げる。
「『ばんや』、名前は知ってます。駅の近くですよね」
「そっか。新山は寮じゃなくて駅近くのアパートに住んでるものね。じゃあ時間はまたあとで決めるとして、今は4層基板に集中だね」
「はい、頑張ります!」

さらにその数日後、明は配線率が100%になった基板データを主任に見せた。一瞥した主任がにこにこ笑う。
「この基板は満身創痍だね。よくこれで100%までこぎつけたものだ」
CADを操作し、主任がデータを確認していく。
「はい、部品を動かしてスペースを作りながら配線しました。それで何だかごちゃごちゃになっちゃって」
「4層基板は簡単だと思ったのになぁ」
「主任、簡単の意味が違いますよ」
主任が言うと、即座に明の横から成瀬の突っ込みが入った。
「成瀬さんの言うとおりです。設計が簡単になるわけじゃない」
山本も成瀬に助勢する。

しばらくして、主任が難しい顔をして明を見つめた。
「前に『部品配置の方法は幾つかある』って言ったの覚えてる?」
「未結線をたどって配置するのじゃなくて、ですよね」
「それは今新山くんがやってる方法だね。もうひとつ、回路ブロックを作って配置する方法があるんだ」
「回路ブロック、ですか?」
「簡単に言うと、基板の外で部品を回路ブロック単位に配置し、配置しながらブロック内の配線のイメージもつかむ。それから基板の中に入れていく。回路をもっと理解する必要があるし、基板の中に上手くまとめるセンスがいる。基板の外と中で2回配置するから、まとめ方が悪いと余計に時間が掛かるんだ。あるいは、」
主任が少しためらって言う。
「……今後も基板設計者として飯が食えるかの最初のステップかな。もう少し簡単な基板で遊んでからでもいいと思ったけど。やってみる?」

一人前の基板設計者にならなければいけない。そのことを明は思い出した。配線率を100%にすることさえできれば大丈夫だと考えていたが、部品を移動しながら配線するのは作業的にも精神的にもきつかった。やり方を変えなければいつか通用しなくなるだろう。何より基板設計の先を見たい。

山本も成瀬も、相原も黙り、じっと明の答えを待っている。
「やります。その、回路ブロックを作る方法で」
明の答えに主任が笑みをこぼした。

第6章   夏の出会い

夏休み前の、待ち焦がれていた金曜の夜。
明は同期の吉田を連れて居酒屋『ばんや』に歩いて向かった。
扉を開け、店員をつかまえてしどろもどろに成瀬の名を伝える。個室に通されると成瀬はすでに友人らしき女性と飲み始めていた。

「おつかれさま!」
その女性が立ち上がり、手早く明たちのビールを注文する。
「あ、律子のジョッキも空きそうだね。ビール頼んでおくね」
下の名前で呼ばれた成瀬がこくんとうなづく。
ジップアップパーカーのそでをまくったその人は、会社では見掛けない人だった。ビールとお通しが届くと、明は立ち上がって店員を手伝った。
「なるほど新山くんは気が利くみたいね」
明は改めてその顔を見た。やっぱり会社の人だろうか?
聞く間もなく成瀬がジョッキを高く掲げた。
「暑いと生ビールが旨いよね。じゃあ乾杯!」
いきおいそのまま明たちは半分を一気に飲み、のどを潤した。
「さて、おつまみの注文は新山たちに任せるか。えーっと、誰?」
「吉田ですか? 技術部の同期です」
「あー、寮に住んでるって子ね。あそこは寮母さんが認めた女の子以外
立ち入り禁止なんだよね」
「知らなかった……彼女いないんで困らないですけど」
吉田が応じる。それから自然と自己紹介になった。

成瀬は吉田を指導する技術部の先輩のことを知っていた。それから吉田が九州の出身であることや、明の遊び相手で車の試乗にも連れて行く――吉田は車を持っている――ことなどを話した。
自己紹介が女性の番になる。
「はじめまして。中野涼子です。中野先輩のお姉ちゃんね」
「あっ、それで俺のことを」
「妹にも律子にも聞くからね、新山くんのことは。技術管理部に新人で男の子が入ったって大騒ぎだったー」
そう言って笑う。
涼子は湖畔にあるガラス美術館で館員兼職人をしているということだった。成瀬が補足する。
「涼子はあたしのダチ。地元の同級生で、そのまま地元で就職して」
「そうそう。律子は融通がきかなくて大変でしょ? 面倒を見てるの」
明には涼子の優しくて温かい雰囲気が伝わってきた。
明自身は郡山の出身だったが、東京や仙台の大学に行って、そのままそこで就職する友人が多かった。夏休みに帰省しても集まりはきっと悪いだろう。

成瀬が日本酒を注文し、さっぱりした夏野菜と合わせる。頼んだ日本酒は酒の王と呼ばれ、このあたりの酒蔵で成瀬が一番好きだという銘柄だった。

「で、車の相談って?」
「車を買いたいんですけど、同期の女子に成瀬さんがかっこいい車に乗ってるって聞いて。いろいろ教えて貰えるかなって」
「うれしいなぁ、今度その女の子を紹介しなよ」
「律子、おっさんくさい! それにあの車は特殊だし」
涼子が突っ込むと、照れながらも成瀬が車について話し始めた。

「新山はGT-Rって知ってる? ……やっぱ知らないか。え、吉田くんは知ってる。吉田くんのレガシィってターボ? やっぱりターボ良いよね!」
話に付いていけない明がふと涼子の方を見ると、けらけら笑っていた。
成瀬が話を続ける。
「GT-Rが欲しくて、貯金を600万したの。頑張って何年かかったか。それでいざお金が貯まって買おうっていう時、これで600万使ったら残りがゼロになることに気付いたんだ」
「それって当たり前だよね。ねぇ?」涼子が明に目配せする。
成瀬が杯を空け、涼子が冷酒をつぐ。
「まぁそうなんだけど。……嫌だったんだよね。速い車って人より速く走れるから欲しい訳で、600万払って買っても、他の買った人たちと同じ速さでしょ? 同じ性能なんだから」
興味を持った吉田が食い付く。
「テクニックでカバーとか考えなかったんですか?」
「うーん、レースしてるわけじゃないからね。それにデザインがまぁ、すっきりしている方が好きで。ウィングとか要らないから」
「ウィングって車の後ろの板ですか? たしかに邪魔そうですね」
明が言うと吉田にはたかれた。
「空力だよ空力!」
「くーりき?」
「成瀬さんの話の邪魔をするな。それでどうしたんですか?」
「結局GT-Rは買わなかったんだ。グレードを落として300万のモデルにして、それで200万を掛けて好きに改造。残り100万は貯金のまま。でもGT-Rより速い!」
「それは凄いですね!」
吉田が驚嘆する。
「でもそれで冬は走れなくなって」
「え?」思わず明が聞き返す。
「速すぎて危ないのもあるけど、雪を削っちゃうんだよね」
成瀬が顔を染めてはにかむ。
「車のことは分からないですけど、その考え方って面白いです」
「さすが新山!」
手を伸ばして成瀬が明の肩を叩く。そして明が顔を曇らせる。
「でも参考にならないです」
「その素直さ、なお良し!」またばんばんと肩を叩いた。

涼子が明の杯に冷酒をついだ。
「吉田くんが一緒に試乗に行くんだから大丈夫でしょ。冬も走れる安くて普通の車がいいよ」
真顔に戻った成瀬が腕を組み、うんうんうなづいた後に付け足す。
「買う車が決まったら教えて。あたしが改造して貰った車屋を教えるから。ん? いや改造するんじゃなくて、ディーラーよりも安く買えるように交渉してあげる」
涼子が明に笑いかける。
「良かったね! まだ大分先の話かもしれないけど、車を買ったらあたしの職場にきてね。ガラス工芸を見せたいな」
「ありがとうございます!」
明はふたりに頭を下げた。
「よし。それじゃ新山たちの好きな女性のタイプを聞こうか!?」
「律子、そんなことを言ってばかりいると……いいね!」
そうして、ああでもない、こうでもないと夜を飲み明かした。

夏期休暇に明は実家の郡山に帰ったが、仕事や新しい暮らしのことが頭から離れず、早々に会社がある企業城下町へ戻った。車の代金だけは父親に話を付け、月々の返済を守ることで貸して貰えることになった。
ディーラーが夏期休業中で試乗こそできなかったものの、吉田と相談して候補を幾つかに絞ることができた。

―――――

夏期休暇が明けた。
新しい基板設計が始まり、明はメモを見返した。基板外で一度回路ブロックごとに部品をまとめる。その際に配線のスペースを空ける。特に前回失敗したビアのスペースは確保しなければならない。部品配置の手順を思い出したところで、明は技術部へと向かった。

技術部の回路設計者は概要を教えてくれたが、電源の配線は相原に確認するようにと言った。聞けば大電流が流れる基板で、相原がどう設計すれば知っているということだった。さもなければ基板が焦げる――。

「焦げるってどういうことですか?」
明を新人だと知る回路設計者は、実物を棚から取り出して見せた。
「この基板、右下のところが薄く変色しているでしょう?」
「基板が燃えたんですか?」
「火は出なかった。部品がショートしたんじゃなくて、おそらく電源配線が細くて発熱したんだろうと思う。基板自体は燃えないからね(※)」
「そうなんですか」
まじまじと基板を見つめる明に回路設計者が笑った。
「基板設計者なんだから、基板のことは知らないと」
「そうですよね、見せていただいてありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて明は技術部をあとにした。

※UL94規格のこと。火災を防ぐために難燃性が定められている

4層基板では、電源は内層で配線する。細いってことがある?
明が考えごとをしながら歩いていると、うしろから声を掛けられた。振り返るとそこに中野がいる。笑顔こそ浮かべているものの、明に視線を合わせようとしない。
「うちの涼子ちゃんとお酒を飲んだって?」
「はい、成瀬さんの友人ということで、成瀬さんと一緒に中野先輩のお姉さんにも車を買う相談にのって貰いました」
「それだけ?」
「はい、でもおかげで候補が絞れました」
「なんだー。合コンかと思った」
「それはないです。そもそも成瀬さんは俺の設計者としての目標ですし」
「そっかそっか」
中野がけらけら笑う。
「それじゃ配達の途中だから。バイバイ」
小さく手を振って中野が去っていく。
うちの涼子ちゃん? 言い方に違和感を感じつつ明は席に戻った。

相原は端末に向かい配線をしている最中だった。明がやっているものよりも部品点数がずっと多い、むずかしそうな基板だった。
「相原さん、忙しいところすみません。いま大丈夫ですか?」
「大丈夫、目処が付いたところ。どうした?」
振り返り見る相原に明は事情を説明した。
「ああそういうこと。電流値に対して配線が細かったか」
「でもそんなことってあります? 電源はベタ面ですよね」
「ベタ面だって配線は配線だから。ちょっと見てて」
相原はCADを操作して自分の基板データを見せた。

「電源のベタ面にビアのクリアランスランドが並ぶと、ビアのあいだに細い部分ができる。たとえば1mmピッチでクリアランスランドの径が0.8mmなら、あいだの銅箔の残りは0.2mmしかない」
「じゃあビアを入力する間隔が重要なんですね」
相原がうなずきながら机にあったシャープペンをカチカチとノックし、芯を出して明に見せる。
「この芯が0.5mm。0.2mmはこの半分より細い。そんな細いところに大きな電流が流れたら、銅箔の抵抗値で発熱する」
「なるほど」
明が芯を見詰めながら答えた。
「ただし」
相原が人差し指を立てて振る。
「ビアの間隔が数か所狭いぐらいでは、変色するほど発熱しないだろうな。もっと根本的な設計ミスがあったはずだ」
「……電源系統図(※)が間違っているとか?」

※回路図の補足資料として電源系統だけをまとめたもの。各電源部品の消費電力や分配の記載がある

「それもあり得る。分配先が足りなかったり計算ミスがあったり。記載が正しくても、読み間違えることはあるだろうな。とにかく、電源系統図よりも余裕を持った配線幅(※)で設計すると安心だ。ほかは?」

※銅箔厚35u(0.035mm)のとき、配線幅1mm=1Aが一般的な目安

「ほかに、ですか。ベタ面が細いとか?」
「まぁそれもあるが。クリアランスランドによる細りと言っていることは同じだな。じゃあまたちょっと見てて」
相原が操作して、12Vの電源ベタに接続している部品をひとつ、5Vの電源ベタのところへ移動させた。当然その部品に12Vの未結線が伸びる。

「さて、新山くんはこの部品にどうやって12Vを繋げる?」
「12Vのベタ面を拡げますね。あ、でも5Vのベタ面をなるべく削らないようにします。……結局細いベタ面になりそうですけど」

「つまり何が問題? なぜ変色するほど発熱するのか」
「ベタ面を細くしすぎた場合ですかね」
相原が首を振る。
「発想を変えて。センス見せてみろ」
「……もしかして、部品を遠くに置いたから? 部品をまた12Vのベタ面に戻せばそれで済みます」
まるで謎かけだ。見当違いな答えじゃないかと心配になり相原の顔を見る。

相原が珍しく笑顔を見せた。
「そうだよ、遠いってことが問題なんだ。もしこの部品に流れる電流が大きかったらどうだ? 技術部で聞いた基板は電源系図のミスか配線のミスか分からないが、根本的には配置が遠かったんだろう」
「同じ電源に繋がる部品同士はまとめた方が良いですね」
「そのとおり。これを電源の島割りと言う。ただ、近くに置ければ良いが実際にはそんなに簡単ではないね。スイッチは操作し易い位置に置くし、コネクターはケーブルを差し易い位置に置く。それらに繋がる電源はなかなか1か所にまとめられない。なかには複数の電源に繋がる部品もある。繋がる電源の中で優先順位を付ける」
「どうやって、ですか?」
明が問うと相原が腕を組む。
「それを考えるのが設計だろうが。……と言いたいところだが経験だね、これは。電流値の大きさが目安にはなるなぁ」
「難しいですね。でもありがとうございました、少し分かった気がします」

明は席に座り情報を整理した。
電源の島割りはそれ自体がとても重要である。同時に回路ブロック同士の関係を把握するうえで役に立つのかもしれない。基板外に整然と並ぶだけの部品は、今はまだ明に何も語ってこない。さて、やるか。そうつぶやいて基板設計を開始した。

2回目の4層基板は半月で完成した。
配線しながら配置を修正した箇所もあったが、以前ほど汚い基板にはならなかった。主任のにこにこ顔と回路設計者の安堵が、明にとっては何よりも嬉しかった。

第7章   誤記で失う世界

夏が終わり稲穂が黄金に色付く頃、明は成瀬が運転する白いスカイラインの助手席に座り、成瀬の知り合いだという自動車修理工場へ向かった。エンジンの音を響かせて旧道を走る。

着いた自動車工場の入口には、宮坂モーターズと書かれた看板が掲げられていた。手慣れた様子で成瀬が駐車場に入っていくと、陽気なオープンカーのとなりに優等生顔のコンパクトカーがとめられていた。
「鮮やかな赤だね。かっこいいじゃん」
駐車しながら成瀬が横目に言う。そのコンパクトカーは明が選んだ車だった。建物の扉を開けると、一目でヴィンテージだと分かる車が置かれていた。そしてどこからかカチャカチャと金属音がする。しばらくして車の影からつなぎを来た若い男が現れた。

「こんにちは。こちらへどうぞ」
案内され、明たちは車の前に置かれた皮のソファーに座った。
「成瀬さんが男の人を連れてくるなんてなぁ」
「会社の弟分でね」成瀬が片えくぼを作り笑い返す。
「新山といいます。あの、お世話になります」
「このたびは注文ありがとうございました。成瀬さんの紹介だから、どんな人が来るかと楽しみにしてたんです」
若い男は宮坂省吾と名乗り、ふたりに淹れたてのコーヒーを差し出した。香りがあたりに漂う。

明たちがコーヒーを手に談笑していると、ドアが開いて中年の婦人が書類を持ってやってきた。
「ごひいきにしていただいて。省吾、整備はしっかりやった?」
「それはもう。エンジンの回転数がECUでノンリニアに制御されてるみたいで、その確認にちょっと手間取ったけど」
「なに言ってるのよ。ねぇ」婦人が明に笑いかけた。
「初めて買う車ですってね。それが中古車じゃなくて新車で、エクステリアが素敵ねって話をしていたのよ」
「実は、中古車は買い方も選び方も分からなかったんです」
明が言うと省吾が吹き出して笑った。
「いや、ごめんなさい。まずは中古車を買って練習して、という人が多いから。でも運転はすぐに慣れると思いますね」
成瀬があきれながら明に言う。
「分からないとか言って新山は正直すぎるなぁ。そんなの関係ないでしょ。気に入って選んだ車じゃないの?」
「もちろん気に入ったんです!」明が口を尖らせる。
「あらいいじゃない、正直な子の方がわたしは好き。もっと値引きしてあげようか? だからいっぱい練習してね」
「ありがとうございます!」
「え、母さん!?」
明が婦人に向かって頭を下げると同時に省吾が悲鳴を上げた。
そして宮坂モーターズの母子が明の面前で打ち合わせをした結果、事前の見積もりから更に値引きした請求書が明に手渡された。
「点検は無料。車検も安くするからまたよろしくね」
明の支払いが終わると、そう言い残して婦人は去っていった。

三人は駐車場に移動し、省吾がコンパクトカーのドアを開けて操作方法を説明し始めた。
「うわ、ベンチシート!」
「コラムシフト? ないわー」
説明のいちいちに成瀬が嘆きの声を上げた。
省吾がため息をつき、ぼそっと言う。
「誰かのみたいに走り屋の車じゃないから」
成瀬が省吾を睨む。
「走り屋じゃないし!」
「冬に走れないくせに」
「乗らないの!」
「でもこの車はかっこいいよね」
「うん、色がいい」
言い争いが誉め言葉に変わり、明は顔をほころばせた。
説明が終わると、省吾がずっしりとした工具箱を明に渡した。
「はい、これはプレゼントです。自分で車をいじった方が絶対面白いと思って。多少失敗しても直してあげるから」
「ありがとうございます!」
受け取った工具箱を明は大事そうに抱えた。
「……改造するの?」成瀬が怪訝そうに聞く。
「改造は分からないですけど、車に興味がでてきました」
「やっぱり成瀬さんの弟分だなぁ。そういうところ」
そう言って省吾がうなづいた。
「では鍵をどうぞ。気をつけてお帰りください」
「じゃあ新山、ここで解散するけど気を付けて運転してね。納車直後に廃車とかあり得ないから」
「……自分で運転して帰るんですよね?」
「当たり前でしょ! 新車おめでとう!」
そう言って成瀬が声を出して笑った。

―――――

自分の車を持ち、明の生活は変化した。毎日会社が終わった後は、運転の練習に湖畔を走った。観光客が多い国道とトラックが走る裏道では、交通量も速度もまったく違う。買い物の回数が増え、自然と自炊するようになった。土日は明が車を運転し、峠を越えて同期と遊びに出かけるようになった。

10月に入り、明は資料室に行く回数が増えた。部品について理解するという目的もあるが、以前よりも中野の手伝いで納入仕様書の分類をするようになったのであった。今後、非接触センサーやカラー液晶を搭載する製品が増えるとのことで、新しく使用する部品が増えたと教えてくれた。

また、設計した基板の製造手配を明自身がおこなうことになった。サンユー工業という業者で基板を製造するが、直接データを送ることはしない。メールで購買部に依頼し、その後購買部がサンユー工業に発注する。
部品座標データは生産部に送る。たびたび主任が生産部へ出かけているのは、部品の実装状態を確認するためだと知った。

「手配の際にはCADデータを送るんですか?」
初めて製造手配をするとき、主任に聞くと首を横に振った。
「製造工場ではCADデータを見ないからね、ガーバーデータというのを基板データから出力するんだ」
そう言って主任がCADを操作し、ガーバーデータをファイル出力する。そしてテキストエディターでファイルを開き、記述を明に見せた。
「1ファイルに1層分のデータが書かれてる。たとえば4層基板だと、配線層分の4ファイルは必要ってことだね。そのほかにシルクなどのファイルが必要になる。中身はDコードと呼ばれる番号と構成点の座標値が書かれている――DコードはCADでいうタレット、ライン幅のこと。面はラインに分解されて書かれている、って分かるかな?」

「ラインに分解、ですか」
「そう、塗りつぶし幅と外周幅に分けられ、1本1本分解される。これだとデータ容量が大きいという欠点があってね、いずれ面のまま扱えるフォーマットに変えるつもりなんだけど」
「すごいですね。思ったよりファイルの中身がシンプルと言うか、これで基板が製造できるなんて」
「そうだね。まぁほかにも製造に必要な知識はあるし。そのうちサンユー工業へ見学に行こうか」
それから明は手配に必要なファイルのリストをメモに残し、いつでも確認できるようにした。

明が製造手配メールを購買部に送った後、すぐに基板設計チームに内線電話がかかってきた。電話を取った山本が保留にする。
「購買部の増宮主任が新山くん宛てだって。なんだろうね?」
明が受話器を受け取ると、男の低い声がした。
(増宮です。……おつかれさまです)
「あ、すみません! おつかれさまです。新山です」
(直接話したいので、町田主任と購買部へ来ていただけますか?)
明が町田主任の方を見ると、机に突っ伏していた。
山本が小声で明に用件をたずねた。
「町田主任と購買部に来てほしいそうです」
主任に聞こえるように大きな答えると、伏せたまま手でOKの合図を出した。
「わかりました。購買部に向かいます」
(ではお待ちしております。……失礼します)
「あ、よろしくお願いします! 失礼します!」
明が言い終わらないうちに電話は切れた。
がばっと起き上がった主任が明に歩み寄る。その顔にはあきらめの色が浮かんでいた。
「なんかやっちゃった?」
やり取りを聞いていた成瀬が面白がって明に言う。
「送付ファイルが間違っていたとか? でも連絡が早かったし、まだ中身を見ていないと思います。ただの挨拶かなぁ。製造手配メールを出したのが初めてだったから……」
「え、あの増宮主任でしょ。そんなことで連絡してこないね」
成瀬が即座に否定した。
「つべこべ言っていても仕方ない、怒られに行くか」
主任が答え、それからふたりは足取り重く購買部へ向かった。

建物のあいだの連絡通路を渡り、購買部のあるフロアの大きなドアを開けた。ドアのそばには背の高さほどもある棚があり、壁際に沿ってフロアを囲むように並んでいた。そこにトレイが整然と積まれている。フロアの中央には大きな作業机が幾つかあり、机の周囲には梱包材や、たたまれたダンボールが置かれていた。明がその横を通ると、検品作業をしている人たちが物珍し気に明を見てくる。購買部のデスクがあるのはその向こう側だった。

「増宮主任、おつかれさまです」
町田が窓際に座る男に声をかけた。増宮は椅子に座っていても分かるほどの長身で、作業着の下に白いYシャツを着てネクタイを締めていた。明たちを振り返り見ると、外からの光が眼鏡に反射した。
「おつかれさまです。新山くんのことで少し話がありまして」
「あの、怒ってます?」
町田が言うと増宮がふっと笑う。
「怒ってませんよ。ただ、今回の依頼では発注できません」
町田が明に目配せする。何かミスがあったらしいと明は考えた。
「すみません。あの、間違っているところを教えて貰えたらすぐに、」
増宮が大きな手で明の言葉を遮った。
「新山くん、初めて会いますよね? それなら、新山です、とか挨拶から会話するべきじゃないですか。それに電話でもそうでしたが、すみません、はちょっと。すぐにあやまる人は信頼できないですね」
明は何も言い返せない。じっと見つめてくる増宮から目を逸らすだけで精一杯だった。
「増宮主任、それで用件は?」
困った顔をして町田が話を切り出した。増宮が町田の方を向く。
「そうでした、新山くんに購買部のことを知ってもらいたいと思いまして。打ち合わせ室に行きましょう」
そう言うと立ち上がり、ついて来るよう促した。

打ち合わせ室は業者と商談をするためのスペースだった。入り口に給茶器が置かれ、テーブルがパーティションで仕切られていた。
「新山くんはお茶とコーヒーのどちらにしますか?」
「社員も飲んでいいんですか、ありがとうございます! じゃあコーヒーにします。……あ、運びますね」
増宮は明に備え付けのお盆を手渡した。
「町田主任もコーヒーでしたね。じゃあコーヒーを3つでお願いします」
そう言って増宮と町田は奥にあるテーブルに座った。
「素直な方が配属されたみたいですね」
増宮が町田に話しかける。
「もう分かりますか、ありがとうございます。……増宮主任は最近、趣味の方はどうですか。トライアスロンでしたよね」
「そうですね、このあいだは安曇野のサイクリングコースを走りまして。紅葉はまだでしたが秋の風を感じましたね」
コーヒーを運んできた明が遅れて着席した。
「では改めて。増宮です。よろしくお願いします」
「新山です、こちらこそよろしくお願いします」
明がぺこりと頭を下げた。

「ではさっそく。購買部は製品に使う材料――電子部品の他に機材や消耗品も含みます――の発注と検品が業務です。業者とのお金のやり取りはすべて購買部がおこないます。この業務で何が重要だと思いますか?」
「業者とのコミュニケーションだと思います。すべて、ということだったので、スムーズにやらないと業務が回らないのかなと」
「サンユー工業との、技術的なやり取り、はうちでやるからお忘れなく」
町田が補足し、増宮が大きくうなづいた。
「コミュニケーションは大切です。たとえば技術部門で扱う設計データや図面は、それをベースに設計者間でコミュニケーションを潤滑におこなうためのツールだと思いますね」

図面がコミュニケーションを潤滑にするツール。そう言われ、明は成瀬が紙の図面を大切にしていることを思い出した。
成瀬は夏でも半袖の作業着を着ない。暑くないのかとたずねたら『図面が汗で汚れるじゃん』と言った。腕に張り付いたり、文字が滲んだりする。それを聞いて以来、明も半袖の作業着を着なくなった。

増宮が人差し指を立てて話を続ける。
「コミュニケーションも大切ですが、購買部としてはお金が一番重要です。業者は必ずしも私たちにとって善良であるとは言えません。当たり前ですが、お金を稼ぐための合理的な判断をします。こちらにとって悪い条件であっても、ですね。それを理解した上で業者と折衝し、材料の調達とそれに見合う支払いを管理するのが購買部なので」
「善良でない?」
明が聞き返すと町田が答えた。
「要するに、ぼったくりがあるかもしれないってこと。そこまではいかなくても、あえて自分が不利になるような条件で商売はしないね。お互いさまだけど」
「そういうことです。まさにお互いさまですね。こちらにとって良い条件ばかりでは業者も愛想を尽かして離れていきます」

増宮がテーブルの上に紙を置き、明たちに読めるように差し出した。それは明が送信したメールを印刷したものだった。
「新山くんの製造手配メールですが、改行が無いので読みにくいですね。これでは誤読されても仕方がない。そのうえ誤記もあります」

「えっ、メールって改行するんですか」
「改行してないの?」
明は増宮に向けて、町田は明に向けて同時に言った。3人が驚いて顔を見合わせた。
「……読みやすさのために改行は必要ですが、行間をあけるなどの工夫があるともっといいですね。誤記についてはどう思います? 先ほどの話で例を出すなら、基板の注文枚数が10枚のところを誤って100枚と書いてしまったとしましょうか。業者は100枚製造する方が儲かる訳ですが、うちにとっては90枚分の損失が発生します」
「誤記はよくないです」明はため息をついた。
一文字書き間違えただけで損失になる。しかもその後使うことがなければ、その90枚の基板はただのゴミになる。
「そのとおりです。ただ、見積書で気付けますし、今回の新山くんの誤記は枚数ではないのでそこまで気落ちしなくても大丈夫です」

思案顔の町田が増宮にたずねた。
「改行はともかく、誤記は完全に防げないのでは? 普段と様子が違うけどいいのか、とか業者が聞いてくれても良い気がするのだけれども」
増宮が真剣な目をして明を見た。
「新山くんに分かってほしいのはそこです」
増宮が言葉を続ける。
「誤記を完全に防ぐのは難しいですが、信用信頼関係があれば町田主任の言うように向こうから指摘してくることもあります。でも関係が築けていないうちに製造枚数が100枚と書かれてるメールが来たら、誤記を指摘してくるでしょうか。誤記に気付かないか、あるいは気付いたとしても指摘せずに製造を進めることもありえます。普段よりかなり多い枚数だけど、今回は100枚作るんだろう、メールに書いてあるんだからこちらには落ち度はない、そう考えて」
「それは……そうかもしれない」
町田が腕を組んでうなった。

「信用信頼関係をどうやって築くかは新山くん自身が考えるべき事柄だと思います。まずは誤記をしないことです。誤発注で損失が発生するのも困りますが、そもそも新山くんの信頼を失いかねない。この人は書類を見直さないのだな、と思われます。だからそれを注意するために新山くんを購買部にお呼びしたのです」
「誤記をしない方が良いことはわかりましたが、」
明が言いかけたところを増宮が手で遮った。
「完全に防ぐのは難しい、ですよね。しかし我々はメーカーの人間です。誤記を――ミスを――なるべくしない方法なら知っています」

そして増宮が腕を伸ばし、人差し指をテーブルの上にある紙に向けた。何をしようとしているのか気付いた町田も呼応して紙を指差す。
「新山くんも町田主任のように人差し指を出して。ではご一緒に、メールの内容、よし!」
明は工場実習で習った指差し呼称を思い出し、伸ばした腕を曲げてから掛け声とともに振り下ろした。
「メールの内容、よし!」
「新山くん、それではご安全に」
そう言って増宮が、話は終わりとばかりに立ち上がった。あっけにとられた明が座ったまま見上げると、増宮は笑みを浮かべていた。

席に戻った明はさっそく製造手配メールを書き直し、何度も見直した。そして最後に人差し指を立て、無言でモニターに振った。その様子を見て山本が驚き、成瀬は片えくぼを作って笑った。

第8章   会議

11月になり、基板設計チームの臨時ミーティングが開かれることになった。会議室に向かう途中で主任が技術管理部の中野に声をかけた。
「チーム全員で会議室に1~2時間こもるから。そのあいだの不在対応をお願いしたいのだけどいいかな?」
「何ですか、改まって。あたしも呼ばれたかったですね」
「じゃあ呼んじゃおうかな」
主任が軽く相槌を打つと部長が声をかけてきた。
「俺も呼ばれたいな」
「いえ、それは結構です」
冷たく断ると中野がけらけら笑った。
「あたしも不参加にしておきますね。あとで話を聞かせてください」
そして見送られてチームは会議室に向かった。

「さて、話はふたつあります」
会議室に入ると、主任が白板に議題を書いた。

・DDRの報告
・今後の業務について

「成瀬さんが取り組んでいたDDRの設計について、一発で動作したという連絡が技術部からきています。『さすが成瀬さん』というコメント付き。まずは成瀬さんからその報告をしてもらいます」
成瀬が会議室の椅子にもたれかかって大きく背伸びした。束ねた金色の髪が後ろに大きく揺れる。
「そんなに大したことはしていないけどな。インピーダンス整合というのがあって、それが新しい技術ですね。DDRの解説セミナーを東京でやっていたので参加して勉強し、今回の基板設計に取り入れました」
成瀬が思い返しつつ話した。
「DDRの動作周波数はやっぱり速い?」
相原が質問した。
「それはCPUとメモリーの両方が対応している周波数によります。CPUとメモリーを配線で繋げて、CPUで処理した信号をメモリーに格納したり取り出しだり。今回の動作周波数は200MHz(※1)でした。
もっともDDRはDouble Data Rateなので、信号の伝送速度は倍の400Mbps(※2)になります」
「それは速い。普通のSDRAMと全然違うね」

※1 Hz:1秒間に電圧が振幅する回数。1MHz=1秒に百万回振幅
※2 bps:1秒間に送れるbit数。1Mbps=1秒間に100万bit

「だからインピーダンス整合が必要になるんです。配線はもちろん、直列終端と並列終端(※1)もそれぞれ使用します。そうしないと過渡現象(※2)でオーバーシュートやリンギングが発生します」
明には話されている内容がまったく分からない。それでも単語を拾ってひたすらノートに書いていった。

※1 ODT(内部終端)の実装はDDR2から。DDR1は外付けする
※2 LOW/HIGHの切り替えから電圧が安定するまでの波打つ現象

ちらっと明の様子を横目で見て、成瀬が立ち上がり白板の前に立った。
「DDRは配線のインピーダンスを50Ωにするのですが、その50Ωは基板の配線層間の距離と配線幅で決まります。サンユー工業にその値を教えて貰い、設計したという感じですね」
そう言って白板に絵を書いた。配線の断面として長方形を書き、幅にW=0.2mmと書き込む。
「新山、要するに0.2mmの配線幅で設計したってこと」
「50Ωって抵抗なんですか?」
「抵抗部品とは違うよ。インピーダンスは交流に対してだから」
明の質問に答えてから成瀬は白板に等長と書き加えた。

「等長は配線の長さを揃えることですが、その処理が大変でした。
8本単位でデータ信号の配線長差を1mm以内にしています。それが4レーン、合計32本です。未結線長のばらつきが小さくなるように部品の角度を考えて配置して、配線層も適当にやると破綻するので注意しました」

「等長ってどんな感じでやるんですか?」
明が質問すると主任が答えた。
「そのうち新山くんにもやってもらうからそのつもりで聞いて。
対象が8本であれば、まずその8本の配線をする。その中で一番長い配線をもっと短くできないか検討する。これ以上短くできません! となったら、残りの配線を伸ばして長さを合わせる」
「配線を伸ばす、ですか?」
明が主任に聞き返す。
「空きスペースを使って、配線をうねらせてある長さまで伸ばすということだよ。あらかじめそのスペースを確保しておく」
「配線は短ければ短い方がいい、じゃないんですね」
明が言うと主任は手を振った。
「DDRはパラレル伝送だから、データ信号がほぼ同時に届く必要がある。だから等長にしたいわけで、基本的には短い方がいいよ。無駄な配線をしないと言った方が的確かもしれない」

相原が成瀬に話し掛けた。
「DDRはクロック信号が差動なんだよね?」
「はい、それがDouble Data Rateにできる理由ですね。クロック信号が2本、半周期ずれている状態です。それぞれの信号立ち上がりでトリガーが掛かるという話でした。
もっともデータ信号の基準にはデータストローブ信号というものがあります。クロック信号とデータストローブ信号の同期、データストローブ信号とデータ信号の同期、そしてクロック信号とアドレス制御信号の同期、ざっとこんな組み合わせです」

山本がため息をつく。
「難しそうだねぇ、DDRの基板設計って。おれには無理かなぁ」
「今回は等長が思っていたよりも大変だったけど。最初からそれを考慮すれば、もう少し楽にいけると思う。
それにセミナーではDDRよりもDDR2の方が設計は簡単になるだろうって。
ま、やってみないとわからないけどね」
成瀬がそう言って片えくぼを浮かべた。
「成瀬さん、報告ありがとうございました。新技術の取り入れが順調で良かったです」
主任がにこにこしながら総括した。


「次は今後の業務について。新山くんが配属されて半年経つのと、案件数が増えてきているので今一度明確にしておきます。
モーター駆動製品の担当は相原さんと山本くん、オートメーション製品の担当は俺と成瀬さん、そしてここに新山くん。
また、高密度実装とデジタル-アナログ混在が進んでいています。それに対応するためにチームで基板設計のレベルを上げたいと考えています」
そう言って主任が全員の顔を見回した。

「具体的には各自のテーマを設定します。高密度もデジアナも製品に限らない話だから、各自がレベルアップして、しかもお互いの設計を手助けできるようなテーマがいい。で、まずは相原さん」
相原が腕組みをほどきペンを持った。
「相原さんには静電気対策を研究してほしいのですが、どうですか?」
メモを取りながら相原がうなづく。
「今までも基板端での配置配線は避けていたのですが。高密度実装で、そうも言っていられないケースが増えるということですかね」
「そうなると思っています。フレームグラウンド(※)の設計手法を決めるとか、避雷針のように意図的に回路から離れた場所に静電気を落とす経路を作るとか、そういったイメージです」
「わかりました。幾つか実験はさせてください」
主任が笑顔を見せてうなづいた。

※電気回路のグラウンドはシグナルグラウンド(SGND)といい、フレームグラウンド(FGND)と分ける

主任が山本の方に向きを変えた。
「山本くんにはモーター駆動製品のメイン基板に挑戦してほしいというのがひとつ。やり方は相原さんと相談してください。で、もうひとつテーマがあって、フレキ基板(※1)の設計効率化を考えてほしいです」
少し考えた後に山本が口を開いた。
「それならリジッド基板(※2)用だけでなくフレキ基板用のパッドも部品ライブラリーに登録するのが良いですね。いまはフレキ基板の設計が始まってから急いで必要なパッドを追加登録しているので(※3)」

※1 フレキ基板:フレキシブル基板(FPC)の略。銅箔をフィルムで挟んだ構造で柔軟性がある
※2 リジッド基板:ガラス繊維にエポキシ樹脂を含ませた基板。リジッドは硬いという意味。基板と言えば一般的にリジッド基板を指すが、フレキと区別する際に使う
※3 フレキ基板用のパッドはその銅箔をフィルム(カバーレイとベース)で挟む構造になる

「それいいじゃん。あらかじめ用意しておけば設計期間を短縮できるし、リジッドとフレキ間の部品移動が楽になる」
「なるほど、リジッドが高密度で大変だったら部品をフレキに移動してそれを緩和すればいいんですね。
……ただ、部品ライブラリーの登録の手間が増えます。そのあたり、新山くんに手伝って貰えたら助かるんですけど」
主任が大きくうなづいた。
「そのうち新山くんには部品ライブラリーの登録を覚えて貰おうと思っていました。その話はまたのちほど新山くんのときに。当面は俺が手伝うことにします。
あと全部品じゃなくてもいいと思うので。たとえば多層基板じゃないと実装しても配線できないでしょっていう多ピンの部品は省いて良いです。その判断含め、もろもろ山本くんに任せます」
「ありがとうございます。では困ったら相談するようにします」
そう言って山本が軽く頭を下げた。

「じゃあ次は成瀬さん」
「はい」
成瀬が返事をして顔を上げる。金色の束ねた髪が揺れた。
「成瀬さんはエースとして難しい設計に対応してほしいです。新しい技術の評価など、研究開発案件も振ります。何というか、仮に失敗したとしても目的は達成してほしいです」
「もちろんいいですよ。詰まらない設計には興味ないので」
成瀬がこともなげに答えた。
「それでいいです。俺と勝負だ」
「受けて立ちます」
成瀬が即答した。
しばらくの沈黙があり、そして主任が声を出して笑った。
「難しい設計ほど美しくなる可能性を秘めています。成瀬さんだけじゃない、チームでそこを目指します」

「最後に新山くん」
「はい」
ノートを取り続けていた明が顔を上げる。
「新山くんを戦力として迎え入れたいですが――ほぼ戦力になっているけどね、最終試験として6層基板の設計をしてもらいます。
基板設計はその性質的に、一度スタートしたら難しくなってきても他の人と代わることはできません」
「えっ、主任に設計を代わってもらったことがあるような」
「代わったっけ?」
逆に聞かれ、明は記憶を巡らした。満身創痍な基板を直して貰ったことがある。それにガーバーデータを自分で出力するようになったのはつい最近のことで、それまでは主任が最後の仕上げをしているものと思っていた。
その顔を見て察し、主任が笑った。
「直すのと設計を代わるのとでは違うからね。undoもするし」
「それは違うと思いますけど」
「6層基板はそんなレベルじゃないから。新山くんの次の設計は1ヶ月掛かる。たとえばその終わりの10日前に、配線が難しくなったからって設計が代われると思う?」
「えっ、1ヶ月掛かる設計ですか!」
「あれ、そんな話をするつもりじゃなかったけど。でもまぁ、成瀬さんの案件はいつもそれくらい掛かるよ」
「いつもではないけれど。だいたいは3週間ぐらいかな」
成瀬が当たり前のように答えた。
「成瀬さんで3週間なら、新山くんで1ヶ月でしょう?」
明にはまったくイメージがつかなかった。
「基板設計で1ヶ月って、どんな感じで作業を進めるんですか?」
「配置で1週間ぐらいかな。配線でもう1週間、残作業に1週間」
「それに余裕を加えてもう1週間」
成瀬の答えに主任が付け足した。

「話を戻すけど、1ヶ月間も連綿と判断を繰り返して設計するから、途中から人と代われないってこと。たとえば小説を書いている人がいて、『最後がまとまらないから新山くん代わってよ』とお願いしたとする。そのとき新山くんならどうする?」
明が腕を組んで悩む。
「うーん、断れないという前提ですよね。そこまで書かれた内容を読み解くしかないですね。その上でどうやって最後をまとめるか」
「そもそも読み解くことができるか」
相原が突っ込みを入れた。
「ちょっと意地悪な質問だったかな。基板設計としては『最初からやり直す』もひとつの選択肢になる。読み解く時間もまとめる時間も惜しいからね。でもそんなの、代わる方も代わられる方も嫌でしょう?」
明がうなづくのを見て、主任は話を続けた。
「だから新山くんには次の基板を完遂して貰いたい。きついだろうけど得るものも大きいと思う。
設計は代われないけど相談には乗るし、みんなもサポートしてくれるよ」
その言葉に山本も成瀬も、相原もうなづいた。
真剣な顔をする明に成瀬が声を掛けた。
「設計が難しくなっても裏技が幾つかあるから。安心していいよ」
「どんな方法ですか?」
「今は教えない」
そう言って片えくぼを作って笑った。

「で、6層基板ね」
主任が白板に層構成を書いていく。

L1 部品配置(優先配置)、信号配線
L2 グラウンド
L3 信号配線
L4 信号配線
L5 電源
L6 部品配置、信号配線

「ざっとこんな感じ。L2とL5を信号配線層とする方法もあるけど、今回はこれでいい。信号配線が内層でもできる。ラッキー!」
無音が会議室を満たす。
「……主配線方向を考えないとですね、」
主任が諦めて話を続ける。
「配線層がオモテウラの2層分しかない場合は、1層を横、1層を縦の配線でまとめると、善し悪しは別にして、理論的には100%の結線ができる。
自動配線ツールはそういった考え方で配線するけど、美しくはないねぇ」
「自動配線ツールなんて存在するんですか」
「まあね。製品の基板には使えないけど、デバッグボード――基板サイズを製品の基板よりずっと大きくしたデバッグ用の基板だと、動けばいいし、さっさと設計したい。だからツールを使う」
「そんな便利なツールがあるんですね。でも製品の基板には使えないのはどうしてですか?」
「配線が長くなるし、無駄にビアを打つから。結局そのせいで製品の基板サイズではスペースが足りなくなる。もう自動配線ツールより新山くんの方が上手く配線すると思うよ」
「そうなんですか。ちょっと見てみたいですね」
「今度見せてあげるよ。それで、配線が長くなるというのは、斜めに配線してくれないから。でも6層基板だと配線層が4層分あるから、縦と横のほかに配線方向が斜めの層を作れる。しかも内層なら障害物になる部品がない」
「何となく雰囲気がつかめました。ありがとうございます」

「あの、部品ライブラリーの登録の件は……?」
話が終わりそうな雰囲気を察して山本が言った。
「そうだった。データシートを読むのもそうだけど、実装を理解することも良い設計に繋がる。だから新山くんにもライブラリー登録を通して、実装の知識を身に付けて貰う。新山くんの設計が終わったらレクチャーしてあげてほしいな」
「分かりました。新山くん、6層基板の設計がんばってね」
山本が言うとみんながうんうんとうなづいた。
そして緊張と少しの安心を覚えて臨時ミーティングは終わった。

第9章   電圧と電流と(1)

「臨時ミーティング、どうだった?」
ミーティングが終わり、席へと戻る明を中野が手を振って呼び止めた。
「今後の業務についてでした。知らない単語がほとんどでしたけど」
「メモは取れた?」
「頑張って取ったです」
明がノートを開いて見せる。そこにはインピーダンスやフレキシブル基板といった単語が書き連ねてあった。
「えらい! あたしはよく分からないけど! その調子で頑張りたまえ」
明の肩を中野がぽんぽんと叩いた。
「ところで車の運転は上手になった? いつ雪が降るか分からないから、今のうちにマスターしておいた方がいいよ」
中野がハンドルを回す仕草をしながらそう尋ねた。
「まだちょっと車幅の感覚が。そうですよね、雪、降りますよね」
「新山くんの実家って雪は降るの?」
「はい、郡山なので。たまに大雪になることもありますよ」
「そうなんだ。もしかして雪道の運転をしたことある?」
「それが実家の車を運転させて貰えなくて。免許取り立ての頃なんですけど壁にぶつけちゃって。なので雪道は運転したことがないです」
それを聞いて中野はけらけら笑った。

「ところで、さ。うちの涼子ちゃんが『いつ明くんは来るのか』って」
笑みが消え、少しうつむいて中野が言った。うちの涼子ちゃん。前にも聞いた言葉だ。自分の姉をなぜそう呼ぶのだろうと思いつつ明は答えた。
「お姉さんが勤めているガラス工芸店に行く話ですよね。車の練習で湖畔を走っているときに見かけたんですけど、ガラス美術館っていう大きな建物がそうですか?」
中野はうつむいたまま何も答えない。
「そろそろ行きたいですね、雪が降る前に」
困った明が言葉を重ねると、中野が小さな声で返した。
「そう、ガラス美術館。……あたしも一緒に行こうかな?」
「えっ、いいんですか? 中野先輩が一緒だと心強いです!」
明が言うと中野がぱっと笑顔を咲かせた。
「じゃあ再来週の日曜日に行こう。うちの涼子ちゃんに伝えておくね」
「同期の吉田を連れて行っていいですか?」
「もちろん。それじゃまた日が近くなったら」
そう言って別れ、明は席に戻った。
ノートに書き取った内容をパソコンのファイルに書き写していると、しばらくして主任から次の設計――6層で設計する基板の回路図面を渡された。その図面を持ち、明はさっそく回路設計者のもとへ向かった。


「CPUとSDRAM、そしてFlash Memoryを実装する基板です。だから電圧と電流を意識して設計することが重要なのだけど」
それがまず、回路設計者が明に伝えたことだった。

その回路設計者は三上と名乗った。そして机に置いてあった眼鏡を掛け、明が持っている図面に目を落とした。
「図面を持ってきてくれて助かった。いや、少し前に町田主任から新山くんへの説明をお願いされて、どこから話したものか悩んでいたところだったんだ。じゃあそれをベースに説明することにします。分からないことがあったら何でも質問してね」
明は頭を下げた。
「ありがとうございます。安心しました」
「注意しないといけない設計ではあるから、一緒に取り組もう!」
三上が目で微笑んだ。

「ではさっそく。椅子はそこの空いているやつを使って」
そう言うと三上は明が持ってきた回路図面を机に広げて、ペン先で部品をひとつ指した。
「まずこれがCPU。形状はQFP(※)でピン数が208pinと多く、そのうえピンピッチは0.5mmと狭いです」

※QFPはQuad Flat Packageの略。SOPは部品の両側からリードが伸びる面実装部品であるが、QFPでは4方向からリードが伸びる

明がうなづくのを見て三上が話を続けた。
「水晶発振器とパスコンはCPUの近くに配置してください。水晶発振器はこれ。回路図でもCPUの近くに配置してあります。……ところで水晶発振器が何か知ってる?」
三上がペンで図面に印を付けながら明に聞いた。
「はい、資料室で納入仕様書の整理をしている時に見ました。水晶に電圧をかけると振動するんですよね?」
「資料室で。それはいいね。そう、その現象を利用して周波数を作るのが水晶発振器。CPUに周波数を与えて、CPUと他の部品とを同期させる。同期とは信号のやりとりのタイミングを合わせること」
明がノートに書き終わるのを待って三上は話を続けた。
「注意してほしいことがあります。水晶発振器の出力信号について、その電圧は常に一定の周波数で振幅している。つまり、ばたばたしているということ」
ペンを持っている手を伸ばして上下にばたばたと振る。
「その近くに、他の信号や電源があると伝わります」
振っている手の横にもう一方の手を並べ、小さく振ってみせた。
「伝わってはいけない?」
明がふと思ったことを口にした。
「そうだね、伝わると相手の電圧を揺らしてしまうから。信号の電圧はきれいなHIGHとLOWであってほしいし、電源は決められた電圧であってほしい。ついでに言うとGNDは0Vであってほしい。
学校の授業ではきれいな電圧が当たり前なのだけど、実際には違う。振動が伝わるせいで、誤動作したり電磁波ノイズの原因になってしまう」
「誤動作するって」
「そう、大問題でしょ? 製品開発で一番の問題は動かないこと。次に誤動作すること。絶対に防がないと」

三上がペン先で、CPUに繋がるnRESETと書かれた信号を指した。
「これはリセット信号。CPUが動いているときはこの信号の電圧は3.3Vで、ある電圧よりも低くなると回路にリセットがかかる。
もし振動が伝わることによって電圧が不安定になり、その電圧より低くなってしまったとしたら?」
「リセットがかかります」
明はすぐに答えた。
「いいね、意図しないタイミングでリセットされる。誤動作だ」
「すみません、ひとつ気になったのですけど聞いて良いですか?」
「どうぞ遠慮なく」
「リセット信号は電圧が下がると、その何というか、リセットのスイッチが入るのですか?」
「なぜ電圧が上がったときにじゃなくて、下がったときに、という質問?」
明は首を縦に振った。
「そうだなぁ。デジタル回路だからって、必ずしも電圧がHIGHになることでスイッチが入る訳じゃない。リセットしてほしいのは電源が途切れたときだと思わない?」
「それで電圧が下がったときなのか」
感心する明に三上が笑った。
「これらの信号は負論理と言って、信号名のあたまにnが付く。たとえばnRESETと書いてRESETだけ読む。HIGHとLOWで考えるとややこしいけど、自然に考えれば動作は理解しやすい。
ちょっと脱線したかな? 水晶発振器はCPUの近くに置くという話だったのだけど」
「脱線した話は楽しいです」
「分かるけどね。……それで水晶発振器をCPUの近くに配置する理由は、作った周波数をCPUに正しく伝えたいからです。遠いと減衰してしまうことがあり、それでは意味がない。
また、他の信号配線を近付けてはいけない。電圧を揺らしてしまうからね。シンプルに水晶発振器の性質を考えること」
そう言って三上が話をまとめた。

「じゃあ次はパスコンについてだね」
三上は図面に描かれているコンデンサーに丸を付けた。
「バイパスコンデンサーの略ですよね。町田主任から教わりました」
「いいね。このCPUには電源端子が複数あるので、それぞれの端子の近くにパスコンを配置してください。ところで配線はどうするって教わってる?」
「電源ビア→パスコン→ICの電源端子、という接続順で配線すると教わりました。電源をパスコンで綺麗にしてからICに供給するのかな、と」
「なるほど。電源端子とGND端子が並んでいる場合は配線しやすそうだね。ではもし電源端子に信号端子が並んでいるとしたら、電源ビアの位置はどうしたらいい?」
「それだとこんな感じでしょうか」
明はノートに図を書いた。そして電源の配線順序を守ろうとすると、どうしても電源ビアが信号配線の邪魔になることに気が付いた。

「やっぱりビアが邪魔になるよね」
三上が言い、明は考えつつ答えた。
「信号配線を部品の内側に引き出す方法があります。……でも部品下に配線を引き出すのはあまり良くないと教わっていて」
「部品の下はなるべくGNDベタにしたいんだよね」
三上が相槌を打った。
「あとは電源ビアとパスコンを配線の邪魔にならないところまで移動する方法もあります。配線が長くなりますけど」
「あまり長くなるとダメじゃないかな。これはどう?」
そう言って三上が図を描き足した。それは配線順序がパスコン→電源ビア→電源端子というものだった。

「信号配線の邪魔にはならないですけど。やっていいんですか?」
難しい顔をする明を見て三上が笑った。
「僕が判断することじゃない。ただ配線順序が守れないケースは高密度実装基板だったら出てくるし、今回の基板でもあり得ると思うよ。電源だけでなくGNDの経路も短くしなければいけないし(※)。
回路ブロックのどこを崩して基板の中に部品を配置していくのか考えるのと同じように、パスコンの配線でもメリットデメリットを考えて設計に落とし込まないと。そして何が一番重要か、だね」

※SOPのパスコン位置を題材にした「パスコンの配置まとめ」参照https://note.com/toroa_catch_me/n/nfa692a36eea5

「さきほど三上さんはパスコンを電源端子の近くに置くと。それって配線が短いことが一番、」
明が話すのを遮って三上がパンと手を叩いた。
「それ!」
周りの人が驚いてこちらを向いた。
「あ、ごめん。ひとり盛り上がっちゃった」
三上が頭をかきながら周りに詫びた。

「ところで新山くんは電流の速さを知ってる?」
少し小声になった三上が聞いた。
「いえ、知らないです」
明は素直に答えた。
「基板設計者には必須の知識だし、パスコンを理解するためにも覚えておいた方がいいと思うよ」
明がペンを持ち直すのを見て三上が話を続けた。
「光の速さは秒速30万キロ。電磁波も同じだけど、配線の中ではそれが半減して秒速15万キロになる。
つまり、基板上では1psで0.15mm、1mmでは6.67psになる」
「ピコセック?」
明はずっと首をかしげたままだった。
「学校でやらなかった?
m(ミリ)、u(マイクロ)、n(ナノ)、そしてp(ピコ)」
「マイクロは習った気がします。たしか10の-6乗でした」
「そうそう、だから10の-3乗、-6乗、-9乗、と続いてピコは-12乗。
s(セック)は秒。1psは0.000000000001秒で電流は0.15mm進む」
「よく分からないです。限りなくゼロに近いのはわかりましたけど」
「それは、」
三上が口を開いたところで昼休みのチャイムが鳴った。
「続きは午後にしよう。急いで食堂に行かないと」
「はい、午後もお願いします!」
そう言って明は駆け足で自分の席に戻った。

第10章 電圧と電流と(2)

社員食堂に入ると、すでに同期がテーブルに集まって昼食を食べ始めているのが見えた。明はカウンターに行って定食を受け取り、ひとつ空けられた席に座ってその同期の輪に加わった。

「吉田、涼子さんって覚えてる?」
食べながら明が話しかけると、同期の注目が集まった。
「女性の名前だ。どこの人?」
誰かが言うと他のテーブルからも注目が集まった。
「あ、えーっと。吉田、冬タイヤっていつ買うの?」
明が話を逸らすと吉田はそれに答えた。
「さぁ、雪が降ってからでいいんじゃない?」
間髪入れず先輩のテーブルから突っ込みが入る。
「11月のうちに買うと安いぞ」
「そうなんですか、参考になります!」
明が言うとその見知らぬ先輩が更に話しかけてきた。
「銘柄は一番高いやつだぞ」
「そうなんですか。情報ありがとうございます」
そして先輩のテーブルでは「ワンシーズンなら安くても」や、「いやいや事故った時のことを考えると」などと議論が続いていった。そのやり取りに聞き耳を立てている明に、吉田が周りに気付かれないようにささやいた。
「ガラス美術館に行く日が決まったってこと?」
「え? ああそうだった。再来週の日曜だって。空いてる?」
「大丈夫、いつも暇だから。時間が決まったら連絡してくれ」
「分かった」そう言って明はうなずいた。

別の同期が明に話しかけてきた。
「新山、うちの部署に来て三上さんと何を話していたの? 三上さんが急に手を叩くからびっくりした」
「基板設計のことをいろいろ。ごめん、もしかして騒がしかった?」
「別に騒がしくないけど。でも回路じゃなくて基板のことを?」
明は大きくうなづいた。
「そうそう、回路図について聞きに行ったのだけど。妙に基板設計に詳しいというか、突っ込んだ話をしていると思う」
そこへ吉田が話に割り込んできた。
「寮の先輩の三上さん? 基板設計の経験があるって言ってたかな」
明は納得しながらも驚いた。
「技術部にも基板設計のできる人がいるんだね。でもなぜなんだろう。自分でやったりするのかな?」
「さあ、そこまでは。寮で少し話をしただけだし」
三上のことが気になったが、社員食堂で話し続けることは気が咎めた。それで仕方なく、でも気になってしまう冬タイヤに話を戻した。


昼休みが終わり、席に戻った明は成瀬に話しかけた。
「再来週、ガラス美術館の涼子さんのところへ行くことになりました」
成瀬は顔の前で手をひらひら振って明に向かって笑った。
「車の運転が上手くなっちゃった? わたしは涼子といつでも会えるから一緒に行かない。楽しんできなよ」
「はい、楽しんできます!」
成瀬が小さくうなづくと、1本に束ねた金色の髪が揺れた。
「涼子は職人だから面白いと思う。あかねちゃん――中野さんも一緒?」
「はい。あと吉田も」
「そっかそっか」
成瀬は意味深に腕を組んだ。
「あかねちゃんはあまりガラス美術館に行ったことがない。だからエスコートしてあげて」
「そうなんですか?」
「その先は何も言わん!」
「あ、そうですね、エスコートします」
「それでよろしい」
成瀬が明の肩にポンと手を置いた。
「それはそうとして」成瀬が話を続ける。
「主任に聞いたけど、三上くんに回路図を説明して貰ったって?」
「そうです。水晶発振器とパスコンについてでした」
「難しい話をしているね」明の答えに成瀬が腕を組んだ。
「CPUの近くに置く必要がある部品とのことでした。同期をとるとか電圧を安定させるとか」
そう答えながら明は午前のやり取りを反芻した。学校の授業ではきれいな電圧だけど実際には違うと言っていた。
「なるほどね。この際だからいろいろ教わるといいね、上手に説明してくれると思うよ」
うなづきながら明は気になっていることを口にした。
「三上さんは基板設計に詳しいみたいで。経験があるとか」
明の問いに成瀬が即答した。
「三上くんは頼れるハードウェア設計者だから」
「ハードウェア?」
「部品、回路、基板、筐体を区別しない。ものづくりの原点だね」
「じゃあ成瀬さんもハードウェア設計者ですか?」
成瀬が腕組みをほどいた。
「わたしは基板設計を極めたいんだよね。少し違う」
明が考え込むのを見て成瀬が片えくぼを浮かべた。
「新山が考えるには早い。それより三上くんの説明は終わったの?」
「いえ、途中で昼休みになってしまいました」
「それなら話している場合じゃないでしょ。早く行きなよ」
そう言って成瀬は明を技術部に送り出した。


「新山くん、あれは良かったよ」
技術部に着くと三上がすぐに話しかけてきた。
「あれ、ですか?」言いながら明は午前と同じように椅子に座った。
「1psのことを、限りなくゼロに近いと言ったね?」
「はい。秒に換算したときについ。何回ゼロって言うんだろうって」
明がノートを開くと、三上は自分で描き足した図を指した。その経路は、電流がパスコンを通らないのでは、と明が疑問に思ったものだった。

「概念的には電源をパスコンで綺麗にしてから供給というのも分かるけど、本来の目的はその付近の電圧を安定させるためのもの。だからビアの有無にかかわらず電源端子に近い方が良いね」
「この図の場合でもパスコンから電源端子に電流は流れますか?」
「流れる。パスコンまでの距離が3mmとすると20psぐらいかな。0.00000000002秒の距離にあるパスコンから流れない方が不自然でしょ。
逆に言うと、電源ビア→パスコン→電源端子の接続順で配線しているつもりでも、立体的に見るとパスコン本体を通っていないケースもあるよ。さらに接続順を守ろうとして電源配線を細くするのは本末転倒で、より電圧が不安定になる」

明にはまだ納得できないところがあった。
「でも電源ビア→パスコン→ICの電源端子の接続順が良いですよね?」
「もちろん」三上が間髪入れず答えた。そして図を描いてみせた。

「簡単な話、ビアがある分だけパスコンが遠くなるからね。問題点は経路を守るように打った電源ビアが、他の信号配線を妨げないか。で、その信号配線をするためにパスコンを遠くに配置したり、電源配線が延びたりするのはダメという話」
「なるほど……?」
うなづきながらも明にはまだ分からないことがあった。電流はかなり速いのに、近くに置く必要はあるのだろうか。配線長が10mmだったとしても、掛かる時間は66.7psにしかならない。

「さて。パスコンには周波数特性がある。特に共振周波数があるんだ」
明の考え事をよそに、三上はノートに周波数特性と書き込んだ。
「パスコン――コンデンサーには周波数特性があって、それを利用して電圧を揺らさないようにしている。共振周波数が10MHzだとすると、10MHzで効果は最大になり、それより大きな周波数になると効果が落ちる」

「電圧の揺らぎを抑えるって『バイパスする』と同じ意味ですか?」
「そのとおり。ある周波数をGND側にバイパスする、ということだね」
「だからパスコンなのか。納得しました」
「ここでポイント。GNDにバイパスしたからって揺らぎ自体が消えるわけじゃない。川から海に雨水が流れ込んだ後と同じで、ただ勢いが弱くなっているだけ。GNDが弱ければ0Vから揺れてしまう」
「GNDが海ですか。初めて聞きました」
「自然科学としては電気も水も似ているところがあるから」
「うーん、奥が深いです」
明が腕を組んで感嘆した。
「あ、また脱線しちゃった。共振周波数に話を戻すか」
そう言って三上が笑った。

「コンデンサーによって共振周波数が違うから注意してください」
「それって材質の違いによるものですか?」
材質によってフィルムコンデンサー、セラミックコンデンサー、電解コンデンサーなどがある。そのことを納入仕様書の整備で明は知っていた。それらで何がしかの特性が違うのは当然のように思えた。だが明の問いに対して三上は首を横に振った。
「違うよ。種類の違いは材質だけじゃない」
三上が話を続ける。
「容量、チップサイズ、部品メーカーのどれかが違っても。もちろん材質が違ってもね」
「部品メーカーが違うだけで?」
「違うね、中身の構造が異なるから。各社とも良い特性になるように発明工夫しているんだよ」
「あ、そう言えば」明には心当たりがあった。
北海道の部品メーカーに就職した友人がいる。夏休みにその友人と電話で近況を報告しあったときのこと。
チップコンデンサーの生産ラインの配属になったという友人に、なぜ同じ形状なのに容量の違うものが幾つもあるのかと聞いたのだった。
「言えないよ」それが友人の答えだった。
それでもごく一般的なこととして、中身は電極が積層しているということだけは明に分かるように説明してくれた。たしかあのとき、「おれが使う側だな」なんて軽口を叩いた――。

「そう言えば、って?」
三上が話しかけて明は我にかえった。
「部品メーカーに就職した友人がいて、それを思い出しました」
三上が目で笑った。
「製品はみんなが協力して設計製造している。部品メーカーも、工場設備メーカーも、業務委託会社も、商社だって。新山くんも、新山くんの友人も」明は指折り数えながら列挙する三上に感心した。
「それもハードウェア設計の考えなのですか? すごいです」
「急に何?」三上が照れ笑いした。
「三上さんは頼れるハードウェア設計者だと。成瀬さんが言ってました」
三上が急に立ち上がった。弾みでキャスター付きの椅子が滑っていく。
またしても周りの注目を浴び、明の同期も興味ありげな顔をしてこちらを見ていた。
「な、成瀬さんが僕のことを!?」
そう言ったきり、三上は顔を真っ赤にして立ち尽くした。助けを求めて明が周りを見ると、書類を抱えている中野の姿が目に入った。

中野がこちらの異変に気が付き、手をおでこに当てて思案顔になり、やがてポンと手を打った。
「新山くん、三上さんに教わってるんだね。三上さんの顔、真っ赤だけど怒ってないから大丈夫だよ」
そう言い残して中野は去っていった。

「……急に成瀬さんなんて言うからびっくりしたよ」
座りながら三上が言った。
「成瀬さんに、三上さんは基板設計に詳しいと話したんです。そうしたら、それはハードウェア設計者だからだろうと」
三上の肩の力が抜けた。
「なるほど基板設計はハードウェア設計に含まれるけど、いろいろな企業が協力するのは少し違うかな?」
「すみません、つい」
「成瀬さんにハードウェア設計者として認められているんだろうか。だったらうれしいけども」
「認められていると思います。それでしっかり教わってくるようにと送り出されました」
三上の顔が再び赤く染まった。

第11章 電圧と電流と(3)

「じゃあしっかりやらないと。共振周波数の話だったよね」
顔を赤く染めながらも三上は話を続けた。
「コンデンサーの種類によって共振周波数が変わるという話だったです」
「じゃあその話の続きをしよう。まず共振周波数の式は、と」
そう言って三上が数式を書いた。
「ここでCはコンデンサーの容量のこと。容量を小さくすると共振周波数は上がる。より高い周波数に対応できるということだ」

明がうなづくのを見て三上は話を続けた。
「電源電圧の揺れはパスコンを通ってGND側にバイパスする。その結果、電源電圧の揺れは抑えられる。バイパスの効果がもっとも大きいのは共振周波数と電圧の揺れの周波数が一致したとき。
なんで周波数にこだわっているかって、それが誤動作や電磁波ノイズの抑制になるからだよ」
「高い周波数に対応できる、容量の小さいパスコンが良いですか?」
三上が腕を組んだ。
「電磁波ノイズの抑制にはね。容量が小さいということは、蓄えられる静電エネルギーも小さいことを忘れずに。
それに基板では低い周波数の揺れも発生する。それぞれの周波数に対応するパスコンが必要だってこと」
「それぞれなんですね」
「そうだね、スイッチングレギュレータ―のときにまた説明してあげるよ。式でもうひとつ着目するべきところは『L』だ。インダクタンスが大きいと共振周波数を下げてしまう。コンデンサーの寄生成分のほかに配線もインダクタンスを持っているのだけど、分かるかな?」

明は目を閉じて考えた。
配線は配線としてしか考えたことがない。そしてパスコンの配線は太く短くとこれまで教わってきた。「ほら、道路だってそうじゃん」と主任に言われ、そのときは納得したけれども。
目を開いて明は三上にたずねた。
「配線は道路にたとえても良いものですか?」
三上が笑顔になる。
「それはおもしろい。GNDは海、みたいに共通点があるかもしれないね」

「じゃあ話がそれるかもしれないですけど。
……そうですね、まだ車の運転に慣れてないので通勤バイパス(※)はちょっと怖いです。自分が遅くて後ろが詰まるとか。片側1車線ですし」
笑顔のままの三上がうなづいて、話の続きをうながす。

※諏訪と茅野を結ぶ川沿いの道路。信号が無く地元民が使用

「2車線あったらいいなぁと思います。あと道がまっすぐ平坦だったら走りやすいのに、って。橋と立体交差するところのアップダウンがすごいので」
「電流の気持ちになって考えたんだね。ではそこから何が分かるか」
「うーん、2車線は配線を太くすることと同じだと思います。でもまっすぐ平坦な道、は分からないです。配線はもともと平坦だから」
三上が相槌を打ちながら言う。
「たしかにアップダウンは無いけど、配線のところどころで電流が流れにくくなってしまうことはあるよ。その話はまた別の機会にして、今は道を詰まらせない方法を考えよう。2車線にすること以外にも気が付いているみたいだったけど」
「……後ろから車が来ない?」
「違う。気持ちは分かる」そう言って三上が笑った。

そのとき離れた席から声が聞こえた。
「いや違わない、新山くんの言うとおりだろ。車が来ないは言い過ぎにしても、合流してくる車が少ないと考えればいいだろう」
「あ、部長ありがとうございます!」
三上がその声の主、聞き耳を立てていた技術部の部長に向かって礼を言った。部長は自分のモニターを見つめたまま片手を上げて応えた。

そして三上は首をかしげている明を見た。
「いま部長が助言してくれたのは、交通量の変化という話だね。交通量が一定で、どの車も同じ速度で走れば詰まったりしない。ところが次々に車が合流してくるようなら流れが悪くなる。道が長ければ大渋滞だ」
「それも2車線で解消しますよね」
「1車線よりはね。だから道を広くする、短くするというのは、交通量そのものと交通量の変化それぞれにメリットがあるということが分かる。……これで配線のインダクタンスが何か分かったかな?」
「電流の変化、ですか」
「もう少し言葉を足して。電流変化の何?」
「電流の変化を邪魔する性質が配線にはある。これが配線のインダクタンスである。で合ってますか?」
明の答えに三上はにっこりと笑った。
「合ってる! 交通量は電流値、交通量の変化は電流の変化に相当するって訳だ。学校で習ったと思うけど、コイルに電流が流れると磁界が発生する。電流が変化すると磁界も変化し、電流の変化の向きと反対の逆起電力が発生する。コイルが持っているその性質がインダクタンスで、直線の配線にもインダクタンスがあるということ」

「でも電流って変化するものなんですか? 車みたいに合流してくるわけではないですよね。それに何mmなら短い配線なのかな、と」
「何mmなら短いかは資料を見た方が早いかな。たしかここに」
そう言って三上は引き出しから冊子を取り出すとページをめくった。

「セミナーの資料なのだけど、このグラフを見れば配線で共振周波数がどの程度下がるか分かるね。黒い波形が理論値で、本当はこの性能がほしい。だけど2mmの配線長で約半減ってところか。5mm延びるとさらに半減だね。ある程度下がるのは仕方ないにしても、この資料から0.1uFのパスコンだったら2mm以内が良いと思うよ」
「こんなに下がるなんて。電流が速いからあまり変わらないと思っていました。……分かりました、パスコンは端子の近くに置きます」
「理解してくれて良かった。あとは電流の変化だね。CPUの消費電力が変動するのと同じ話なのだけれども」
「消費電力の変動なら何となくですけどイメージが付きます。PCで重たい作業をするとファンがブォーンって回るやつですよね」
「まぁそんな感じかな、消費電力が大きいと発熱するから。そのブォーンと電流変動は関係なくもない」
「ブォーンが、関係なくもない?」
三上が笑って答えた。
「消費電力は信号処理の量に比例する。デジタル信号は電圧が振幅するでしょう? 振幅の数が多いほど電流は流れる。バス線が多いとか、動作周波数が速いとかね。信号の振幅と電流の変化を描くとこんな感じ」

「電流0mAがあるのですか。いつも流れているわけではないのですね」
「回路によるけど、まぁ」
「あれ? 電流にはマイナスがある」
「マイナスは逆方向という意味。電流は電圧の高い方から低い方へ流れることは分かるよね。デジタル信号の場合はLOWからHIGHは送信から受信に電流が流れ、HIGHからLOWは逆向きで受信から送信に流れる。つまり交流ということ」
「電流量が変わるから消費電力も変わっていたと」
「そう、直流電源で電圧は一定だからね。電圧と変動する電流を掛ければ消費電力になる」

明が顔を曇らせる。
「ちょっと理解できていないです。電圧が揺れるからパスコンで綺麗にするという話があったのに、電圧が一定って」
「今の新山くんならこの絵で分かるかな?」
そう言って三上がノートに絵を描いた。

「さっき新山くんは、インダクタンスは電流の変化を邪魔するといったね? それはレギュレーターから供給する電流を阻害することと同じで、距離が長いほどインダクタンスの影響を受けて電圧が揺れてしまうんだ」
「下の絵はパスコンがある場合ですか」
「そう、パスコンは充放電で電源を補助する。容量は小さいけど、CPUの近くから供給できるメリットがあるね」

「でも面白いですね、デジタル信号の電流が交流で直流電源の電圧を揺らすなんて。大学では直流は直流、交流は交流として学びました。それぞれの関係を考えたことはなかったです」
「えー、僕は大学を卒業してもう何年も経つから覚えてないけど、そうだったかな。新山くんが覚えていないだけじゃない?」
「成績が良くなかったのはたしかですけど。電気回路、再履修しました」
明が頭をかきながら言い、三上が笑った。
「実際のところ、過渡状態があるから直流で考える方が少ないけどね」
「じゃあ直流って何ですか?」
「原理原則を学ぶのに都合が良い、とかかな。回路設計では直流で計算することがよくあるよ。基板では配線の影響を考えなければいけない。それがむずかしい」
「パスコンは太く短く配線する、という意味がよく分かりました。ありがとうございます!」
「良い基板を設計して貰えればお互いに御利益あり、だから」
三上がそう言って微笑んだ。


「じゃあスイッチングレギュレーターの説明に移ろうか。パスコンの話を通して基本的なことはだいぶ理解して貰えたと思うけど」
そう言って三上は回路図をめくった。
「この部品がそう。レギュレーターは入力電圧を違う電圧に変えて出力したり、電圧を安定させたり。そういう用途で使う部品だね」
三上が指し示したところを見ると、Vinと書かれた電源端子に+5V、Voutと書かれた電源端子に+3.3Vとそれぞれ電源名が併記されていた。
各電源端子の横にGND端子がある。コンデンサーがそれぞれに、電源端子とGND端子をブリッジする形で配置されていた。

「レギュレーターは大きく分けてリニアとスイッチングの2種類がある。リニアレギュレーターのある基板は設計したことがあるんじゃないかな」
「あ、3端子レギュレーターなら知ってます」
「いいね、まさにリニアレギュレーターの代表格だ。入力電圧の端子と出力電圧の端子、そして共通で使うGND端子の3本だね。入力電圧を抵抗損で下げて出力する」
「ヒートシンクを近くに部品配置して3端子レギュレーターとねじ止めするのが印象に残っていて。位置がずれていないか特に注意しています」


「へぇ? たしかにねじ止めできないと問題だけど」
首をかしげる三上に明が答えた。
「まず、基板上で部品同士を接触させるのが珍しいです。挿入部品は手で半田付けできるように周囲を空けますし、面実装部品でもマウンターの精度を考えて隙間を空けます。部品同士が接触するのって普通は大問題で、3端子レギュレーターが例外といった感じですね」
三上がうなづくのを見て明は話を続けた。
「それと、CAD上では部品の絵柄は簡略化されています。それも平面の絵なので、ねじ止め用の穴が開いているなんて思わなかったです」
「じゃ、よく気が付いたね?」
「成瀬さんがデータシートを見せてくれました」
三上が少しだけ顔を赤く染めた。
「そ、そっか。成瀬さんが」
「主任はいつもざっくりな説明なので、それを成瀬さんや山本さんがフォローしてくれます」
「僕はそこまで部品同士の間隔を考えたことがなかったなぁ」
「そうなんですか? 作業性を考えて配置しろってよく言われます」
「そういうことか。……そのあたりが僕に足りないんだろうな」
「何かあったんですか?」
問いかける明に三上は目をそらした。

第12章 電圧と電流と(4)

しばらく無言の時間が流れ、そして三上が明の顔を見た。
「まぁ、隠すようなことでもないか。僕も基板設計ができると自負しているけど、凝り過ぎてしまう欠点があるんだ。
あれもこれもと考えだして設計が終わらない。設計が終わっても遊びが少なくて――作業性が悪くて生産部に迷惑をかけてしまう。
だから専門の新山くんたち基板設計チームにお願いする訳で、全体の調整というか、バランス感覚が大事なんだろうなって思うよ」
「でも俺よりは三上さんの方が」
三上は首を横に振った。
「経験や修行というものはとにかく場数を踏まないと。最初からできる人はいなくて、次は上手くやろうって考える。そしていつか、新山くんの方が僕よりも上手く設計できるようになる。なんてね」
「……期待を裏切らないように頑張ります」
明はぎこちなく笑った。

「じゃあスイッチングレギュレーターの話に戻ろう」
そう言って三上が回路図面に目をやった。

「これまでの話、リニアレギュレーターは抵抗損で発熱するから、何かしらの方法で熱を外に逃がしてやるんだ。3端子レギュレーターの場合のヒートシンクがそうだし、ヒートシンクが付かない場合でも基板のGNDベタに熱を逃がすよう設計する。
対してスイッチングレギュレーターはリニアレギュレーターほど発熱しないし、損失も小さい。ただしスイッチングしていることがデメリットで、回路によって両レギュレーターを使い分けている」

「もしもリニアレギュレーターの熱が逃げなかったら?」
明がまじめな顔をして尋ねた。そして三上も真剣な顔で答えた。
「爆発する」
「ええっ!」
「……ということはないけど、熱がこもると危ないし最悪部品が壊れてしまう。どの部品にも動作周囲温度――この温度内で使用してね、というものが定められているんだよ。それを守らないと結果的には製品そのものが壊れやすくなってしまう」
「ヒートシンクってわりと重要だったんですね」
感心する明を見て三上が笑った。そして人差し指を立てる。
「熱設計は製品開発で考慮するべき要素のひとつ。
もう少し詳しく話すと、動作時に100℃を超えてしまう部品は珍しくない。触れば当然火傷するし、温度の高い状態が続けばその部品は壊れる。それだけでなく、発熱部品の周囲にも熱の影響が及ぶ。
たいていの場合は製品にファンがあって外に排熱する。けど、背の高い大きい部品や製品内のケーブルはエアフローを妨げるし、吸気口にほこりが溜まりやすい構造ではダメだ。それと排気口の空気は熱いから、人の触れない位置にしないといけない。熱設計の重要さが分かったかな?」
明はぶんぶんと首を縦に振った。三上が話を続ける。

「コンデンサーには温度特性がある。温度によって静電容量が変化する性質のことで、コンデンサーの種類によって変化しやすいものと変化しにくいものがある。アルミ電解コンデンサーは変化しにくい方の代表格だ」
「ではすべてにアルミ電解コンデンサーを使えば……」
「新山くんは基板設計をやっていて、アルミ電解コンデンサーとチップコンデンサーのどちらが使いやすい?」
「そう言われると。チップコンデンサーの方が小さくていいです」
三上がそうだろうという顔をした。
「電解液を使うことで大容量を実現しているから、部品サイズの問題や液漏れの心配があるね。それに、温度特性は良いけど、高温下では寿命が短くなるというデメリットもある」
明が苦笑する。
「寿命って。結局熱に強いのか弱いのか」
「アルミ電解コンデンサーの動作周囲温度は-40℃~85℃が一般的(※)。日常生活ではほぼ問題の無い性能――これはこれで凄いことなのだけれども、発熱する部品はそれ以上に熱くなるから注意ってこと」

※一例として紹介。また、チップコンデンサーでも温度補償用積層セラコンであれば温度特性は良い

「その上限を超えないようにすれば良いのですね。ではリニアレギュレータ―とアルミ電解コンデンサーは近くに置かない方がいいですか?」
三上が腕を組んだ。
「それが悩ましいところ。コンデンサーは電圧を安定させるから、回路としては電源となるレギュレーターの近くに置きたい。でも熱設計的には離したい。デジタル回路でもこういうケースがあって、信号品質的に配線を短くしたいけど、部品同士は離したい、みたいなね」
そう言いながら三上はノートに「トレードオフ」と書き込んだ。
「こういう相反する関係をトレードオフと言う。大切なことだから覚えた方がいい。何も相反していないことの方が少ないから」
そう言って三上が両腕を広げ、その手を握りこぶしにした。
「右手が熱なら左手は電気だ。どちらを取る?」
「……ちょっと分からないです。両立はできないものですか?」
三上はふっと息を吐き笑みを浮かべた。
「両立する方法を考えるんだよ」
「難しいですね、でも面白いです。近くに置くけど熱が伝わらないようにする方法があれば……」
言いながら明はノートに絵を描いた。

「ふたつの部品を並べて置いた絵なんですけど。コンデンサー側から風を送っても後ろのレギュレーターには届かず、熱がこもります。そこで側面から風を送ると、両方の部品に届きます。これならレギュレーターの熱がコンデンサーに伝わらないんじゃないかと思います」
「よく思い付いたね。でも風の向きって筐体設計で決まるから新山くんの都合では変えられないよ。どうする?」
「そうですね、最初に風の向きを確認し、部品配置の方で工夫します」
三上がパンと手を叩いた。
「それだ! ……できないと思っていたことをできるようにするのが設計の楽しさだと僕は思う。設計者なら難題にぶつかっていかないと」

明はふと思った。今の三上の考え方は成瀬に似ている。でも何かが違う。そしてしばらく思いをめぐらせてみたが、はっきりとは分からなかった。
「何かごめん、えらそうなことを言って」
黙っている明に、ぼさぼさの頭をかきながら三上が言った。
「すみません、脱線させちゃいました」
「まさかトレードオフの話になるなんて。良い脱線でした」
「良い脱線」明が繰り返して言い、顔を見合わせてふたりは笑った。


「じゃあスイッチングレギュレーターの話に戻って。スイッチングして――スイッチをオンオフすることで入力電圧を別の電圧に変えて出力するレギュレーターで、動作原理的にはこんなイメージ」
三上がノートに絵を描く。

「今回は+5Vから+3.3Vを作るのに使っている。電圧をならすのに平滑化回路が部品に内蔵されている。けどリップルという電圧の揺らぎが発生してしまうのがスイッチングレギュレーターのデメリットだね。ところで『オンオフ』と聞いて何か気付かない?」
明は腕を組んでこれまでのやり取りを思い返してみた。
「……スイッチの説明は無かったと思います。特に気付いたことは」
三上が助け舟を出す。
「ではHIGH/LOWと言い換えたら?」
「デジタル信号です」明が即座に答えた。
少し考えて明が言葉を継ぎ足す。
「だから、オンオフするということは交流、と言えます」
三上が大きくうなづき、小さく手を打った。

「学んだことが活かせているね。つまりスイッチングで作っていたのは交流だ。これを直流の電源にするために、整流ダイオードと平滑コンデンサーを使う。
整流ダイオードは電流を一方通行にするもの。交流電流の行ったり来たりを一方向に整える。平滑コンデンサーは大容量のコンデンサーを使って電圧の変動を吸収するもの。……これにも気付くことがあるよね?」
「はい、パスコンと似ていると思いました」
「そのとおり。パスコンはICに近接配置するものだったけど、ICもレギュレーターも、コネクターでもコンデンサーは近接配置する」

「でも、平滑化回路が内蔵されているのに部品の外にもパスコンがありますよね。しかも入力と出力それぞれに」
明が回路図面を指す。

「それは単純にもっと電圧を安定させたいからだよ。容量の大きな平滑コンデンサーと小さなパスコンでは共振周波数が違う。それでもリップルは残ってしまうけどね。VinとVoutにパスコンがあるのは電源GNDループを考えているから」
そう言って三上はノートにふたつの絵を描いた。

「まずこれが基本。ひとつ分かるのはGNDはただ繋がっているだけじゃダメだってこと。回路図には電源電流値しか書いていないけど、GND側にも相応の電流が流れる。理科の実験で豆電球を光らせるのと同じ」

「もう少し複雑にしたのがこの絵。スイッチングレギュレーターを励振点として双方向にリップルが伝わる。電源でもGNDでも。だからVinとVoutそれぞれにパスコンを付けているというわけ」
「あ、それで電源端子の横にGND端子がある」
「そう、同じように重要だからね。基板では電源GNDは多点接続だからループがイメージしにくいかもしれない。だけど『回路』は『回路』。理解して基板設計をしてほしいな」

そのとき離れた席から技術部の部長の声が飛んできた。
「お前たち、勉強熱心なのはいいけど。楽しそうで羨ましいから15時の休憩までには終われよ」
周囲から笑い声が聞こえてくる。
「部長すみません!」三上が立ち上がって謝った。
「それ以上かかるなら俺が町田主任にことわりに行ってやるよ」
「ありがとうございます!」
三上が椅子に腰を下ろし、明に向き直った。
「回路図の話はこれぐらいにして、SDRAMの等長条件はメールするよ。だいたいの注意点は分かったかな?」
明は回路図に目を落としたまま思ったことをつぶやいた。
「だったら容量の違うコンデンサーを何種類か使った方が電圧はもっと安定するのでは。部品を配置できるスペースがあれば、ですけど」

明はそう当然のように思ったが、三上の反応は曖昧なものだった。
「容量の大小で組み合わせると良いのはたしかだね。でも容量の組み合わせによっては、反共振と言って性能が落ちる場合もある。
……4.7uと47uを組み合わせるのはありかな。さてその場合、どちらをレギュレーターの近くに配置するでしょう。ヒント、容量は10倍違うねぇ?」
「急にクイズっぽいですね。じゃあ容量が大きな47u、」
にやりと笑う三上を見ながら明が言葉を続ける。
「と見せかけて逆なんですよね、こういうの。4.7uでお願いします」
三上が真顔でぐぐっと明に迫る。
「ファイナル・アンサー?」
「はい、ファイナル・アンサーです」
「成瀬さんにテレフォンしない?」
「しません。電話しても教えてくれないと思います」
「あー、たしかに。…………正解! じゃあ説明はできる?」

明は目をつぶって考えた。
容量の違いは共振周波数の違い。近くに配置する、は配線を短くするのと同じ意味だろう。配線は共振周波数を下げてしまうから良くない。細い配線であればなおさらという話だった。どちらのパスコンもレギュレーターの近くに配置したいが、優先順位を付けるなら……。

明が目を開けて答える。
「4.7uの方をレギュレーターの近くに配置するのは、その高い共振周波数を活かすため、短く太く配線するためです。
でも、容量の大きなパスコンも配線の影響を受けます。優先順位を付けるなら、という話であって、こちらのパスコンもなるべくレギュレーターの近くに配置するのが良いと考えます」
「お見事でした」三上が拍手して褒めた。
そして何枚もある回路図面を丁寧に整えてクリップで閉じ、明に手渡す。
表紙に記載された製品名と、そしてその下の『MAIN』と書かれた基板名が目に入った。
「今教えたのは基本です。見慣れない回路も出てくるだろうけど、電圧と電流とを考えること。新山くんなら応用できる」
「ありがとうございました。基板が何か、少し理解できた気がします」
「そう、それは良かった」三上がにっこりと笑った。
「ではよろしくお願いします」
ふたり同時にそう言って頭を下げたとき、15時のチャイムが鳴った。

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