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だいじょうぶなのかもしれない

映画「うたのはじまり」を観てきた。

色んな気づきがあったので、ぽつぽつと書いてみます。


<出産のこと>

赤ちゃんが出てくるところというのを初めて見た。人間の体ってすごいことができるんだなぁと思った。出産や子育ての話を読むのが好きなんだけど、そういうのってだいたい「とにかくずっと大変で、ときどき耐え難いくらい」ということが書いてあるので、今の社会で子育てするのって無理ゲーじゃんと思っていた。絶対に産みたくないと思ってるわけでもないけど、いざ自分が産むか産まないかの選択を突きつけられたらかなり逡巡するし、逡巡するような人間が子どもを産むのはリスクが高すぎる。

でも「うたのはじまり」を見たら、「人間は子どもを産めるようにできている」というか「産んでも大丈夫なようにできているんだな」と思った。


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<親子のこと>

あの親子の暮らしはとてもシンプルに見えた。“ていねいな暮らし”的なやつではなくて、「おっぱい飲んでねんねして、だっこしておんぶしてまた明日」みたいなシンプルさ。そして子どもをよく見ている。写真家の性なのか、必要以上の理屈や言葉に縛られていないからなのか。

寝かしつけの時間になって、「はい、もうおしまい。」と言っておもちゃを取り上げた場面で、ぐずるかと思ったらそんなことなかった。1歳5ヶ月児が、父親から手話で「だっこ、ねんね」と告げられるのを聞いて、自らだっこされに抱きつく。そのまま子守唄を歌ってもらって、眠った。その光景は、見ているだけで胸いっぱいになるものだった。幸せってこういうことだ。

子どもが寝ないとか、遊びたくて言うことをきかないという話をたくさん聞くけれど、親がちゃんと子どもを見ていると、子どものほうも親をちゃんと見るようになって、コミュニケーションが取れるらしい。もちろんたまたま撮れた映像ではそうだっただけで、うまくいかない日もあるかもしれない。でもなんだか、あの親子3人はいつでも「だいじょーぶ」な家族なんだろうなという気がした。


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<聞こえないということ>

自分の行いに対して、その結果がフィードバックされないというのを想像したら、「それは怖いな」と思った。

墨を流された水の底に文字を書くようなものだと思う。訓練すれば見えずとも文字を書くことはできる。でも書いた文字を自分で見ることはできないし、他のひとにどう見えたのか、ちゃんと伝わったのか分からない。そういうのは怖いと思った。

子守唄を歌うようになって、自分の歌を聴く子どもの様子を見て、初めて歌が好きになったと言ってたけれど、それは聞こえない歌が「ある」というのを体感できた初めてのできごとだったんだろうなぁ。


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<音楽のこと>

さて、音楽ってなんだろう。

風に吹かれたり陽にあたったりして、気持ちいいと感じることがある。あれは音楽によく似ていると思う。形がなくて流れる移ろうもの。

リズムは何よりも心拍に似ている。アフリカの武術家によると心臓は三拍子らしいです。

自然のなかにある不思議なものを、素敵だなと思って真似するのが音楽のはじまりだと思う。そして人間の体も自然のひとつなので、体から音が出るのは自然なことだ。音声で話す習慣がなくても、出産の痛みでうめき声が漏れる。赤ん坊を見て笑い声がこぼれる。子守唄というのは、そういう自然に近いものなんだということを知った。

会社の上司が(だいぶ高齢の方なので)仕事中にとくに意味のない音声を漏らすことが度々ある。歩く時とか、一歩ごとにヨイショヨイショ言ってるし。あれ何なんだろうなぁ、と思って一回りほど歳上の知人に話したら「いやあのね、歳取るとそうなるんだよ。声出すのって気持ちいいの。すごい分かる」と言われた。そういえば江戸時代に来日した外国人の手記で「江戸の人々はなんだか知らないけれど、ずっと鼻歌を歌っている」と書かれてたらしい。現代っ子の私たちはひょっとして黙りすぎなのかなぁ。

(あ、でも私はトロンボーンを吹くけれど、あれは身体的に気持ちがいいからずっと続けてるというのはある。)

齋藤陽道さんにとって音楽教育は楽しいものではなかったと、お母様もずいぶん後悔されている様子だった。でもね、健常者にとっても学校の音楽教育って別にそんな楽しいものではなかった気がする。他の授業とは違う刺激があるから気晴らしにはなったけれど、音楽の授業のなかで「音楽って楽しいなあ」と思うことはなかった。楽器や歌が得意な子はもっとハイレベルなことをやりたいし、聴力があっても音楽が苦手な子にとっては苦痛な時間だったんじゃないかな。

ただ、陽道さんが子守唄を歌えるのは、発話や歌の訓練をいやいやながらでも積んだ成果だと思う。音楽ってどうしてもいくらか我慢を重ねることが必要なんだ。自転車や水泳と同じで練習しないと出来るようにならないし、練習させられてるときは「もう嫌だ」って何度も思う。でも出来るようになると、そんな苦労があったことも忘れてしまう。苦労するのがいいのか、苦労はしないほうがいいのか、たまに考えてみるんだけど、今のところ、答えはでていない。


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<言葉のこと>

手話は日本語と文法が違うので、手話ネイティブで育ったひとが筆談のために日本語を習得するのは外国語学習と同じく大変なことなのだと聞いたことがある。でも陽道さんはすらすらと長文を書いて語る。耳が聞こえないのに発話もできる。だから日本語話者とコミュニケーションを取ることができる。

でも「手話も音声も、どちらも自分の言葉だと思えない」と言っていた。幼い頃から多言語教育をされると、どの言語でも思い通りの表現をすることができなくなるという現象をダブルリミテッドというらしいけれど、それに似た状態なのだろうか。

対談のシーンで、陽道さんはあまり理路整然とした言葉遣いをしないということに気づいた。言語というのは思考を積み重ねるための材料なんだろう。だから言葉に重きを置く社会は理屈に強くなる。

理屈はだいじなものだ。とくに今みたいな日常生活にリスクが忍び寄っているときには、理屈で色々なことを判断する癖をつけておくと必要以上に怖がらなくて済む。私自身も今まで転職や病気や、色々な局面を乗り越えるときには文章を読む力と考える力が役に立った。専門家レベルの難しい文章でも読み通すとなんとなく言わんとしていることは理解できることがけっこうある。それは小さい頃、挿絵のほとんどない活字の本を喜々として読んでいたときの感覚に近い。むずかしそうな言葉にはわくわくしたし、予想した解釈があたっていれば嬉しかった。

でも今でも覚えているのは、うずくまって本を読んでいて(なぜか大体いつも床に座って読んでいた)ふと顔をあげると時間がずいぶん経っていたことに気づいたときの、少し途方に暮れるような気持ち。集中を解いた頭がじんとしびれていて、窓の外は日が落ちてすっかり暗くなっている。そういうとき、大事なことを見逃してしまったような心許なさがいくらかあった。

陽道さんは、目の前のことを大事にしている人だと感じた。一生懸命見ることや、色々な種類の声を聞こうとすることが、とても豊かに思えて羨ましかった。言葉や理屈を追いかけることも時には必要だし大事だけれど、それだけだときっと色々なものを見逃してしまう。どっちが正しいとかではなくて、どっちも良いし、それぞれのやり方でそれぞれの世界を助け合えたらもっといいと思う。


言葉は大好きだけれど、言葉で表せないものが多すぎて困る。理屈は大事だけれど、たまにこんがらがってにっちもさっちもいかなくなる。言葉に縛られない頭で世界をちゃんと見られたら、色んなことがほんとうは大丈夫なのかもしれない。