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第37話「開聞岳に映る景色」(鹿児島県)

自転車日本一周旅〜人生で大切なことはすべて旅で学んだ〜

自転車旅は、約24時間の船旅を終えて、沖縄本島から鹿児島港に戻ってきた。
フェリー船内では、完膚なきまでに、旅の初心者色白くんに敗れ去った。
色白くんと再び遭遇しないように、鹿児島港から指宿方面に向かって海岸線を自転車で走る。
問題の「砂蒸し温泉」に入るためだ。
指宿までの目印は富士山のような開聞岳となる。
薩摩半島の南端に位置する開聞岳は、日本百名山の一つだ。

山麓の北側半分は陸地に、南側半分は海に面しており、見事な円錐状の山容から薩摩富士と呼ばれている。
その開聞岳の少し手前の町が指宿市になる。
指宿市を超えて、「山川天然砂むし温泉」にやってきた。
普通の温泉は、湯につかるものだが、この地域の温泉は湯の蒸気で温められた砂を全身に盛られるという他では味わえない特異な砂蒸し温泉だ。

まず、脱衣所で専用の浴衣に着替える。
タオルを持って砂場へ。
砂場は錦江湾に面した絶景ポイントにある。眼前には大海原、そして右奥には雄大な開聞岳が望める。
そこに3人の老婆が待ってた。
老婆たちはスコップを持って慣れた手つきでサクサクと穴を掘る。
そこに浴衣を着たまま、寝転ぶ。
小さなパラソルで日差しを遮断し、タオルは砂が口や鼻に入らないように顔を包み込む。
そこに、ゲゲゲの鬼太郎の「砂かけババー」もしくは八つ墓村に出てくる老女を連想させる白髪頭の専任の砂かけおばさんが、ザクザク熱い砂を全身にくまなくかけてくれる。
ドサッ、ドサッと砂をかける。
顔だけを出す。
あとはスッポリと砂に覆われる。
蒸し風呂状態だ。
湯の温泉とは一味違ったホクホク感がジワジワと体幹の芯に向かって充満してくる。
土踏まずの辺りが熱気を帯びてくる感じ。身体の中の毒素を吐き出し、デトックス効果もバッチリだ。
潮騒のせせらぎをBGMに流れる雲、優雅な開聞岳を眺める。
心身ともにリフレッシュできる贅沢な時間だ。
しばらく時間が経つと顔から滝のように汗が滴り落ちる。
やがて温泉の熱と砂の重みで苦しくなってくる。
この砂むし温泉はいつ終わるのだろうか。
終わりを待つも、待てど待てども砂かけ婆さんたちは、理解できない方言でおしゃべりをしてこちらのことはお構いなしだ。
汗が止まらない。汗が目に入るが拭えない。苦しくなる。あと何分で終わるのか。
声をかけようにも3人は夢中で妖怪怪談をしている。
もう限界。自力で砂を払いどけ脱出。
シャワーで砂を落とし、錦江湾に面した露天温泉につかる。
北海道の洋上に浮かぶ利尻富士のように、開聞岳が美しい。
この開聞岳の向こうに屋久島、そしてその遥か先が沖縄なのだ。

砂蒸し温泉でリフレッシュした後、イッシーで有名な池田湖を通り、再び鹿児島市方面に向けて北上する。
振り返ると南洋の海と青い空を背景に、平野に佇む開聞岳が美しい。
まるで日本の古き良き風景が広がっている。心が穏やかだ。それは温泉に浸かって身も心も癒されたからだろうか。
日本の象徴である富士山に似た開聞岳の存在なのか。
海岸線を走れば一本道なのだが、来た道と違う内陸部を走る。
回り道をしないと見えない景色がある。

途中、知覧町に立ち寄る。
この町には、特攻平和観音像と特攻基地跡がある。
ここで俺は、学校では教わらなかった日本の史実を知ることになった。
温泉でホッコリ癒された身体が、硬直し、背筋に戦慄が走った。

今から57年前(2002年当時)の話だ。
1945年(昭和20年)3月末、アメリカ軍は沖縄に迫っていた。
アメリカ軍が沖縄海域に集めた戦艦は1500隻以上、兵力はのべ54万8千人。
一方、日本軍の守備隊は8万6千人。
劣勢の日本軍は焦っていた。
もし沖縄が落ちれば、次は本土決戦になる。沖縄はなんとしてでも死守すべき。万が一、沖縄が落ちたら、本当に日本は大変なことになる。
本土決戦の準備には時間がいる。時間を稼ぐ必要があったのだ。
そこで編み出された戦法が「特攻」だった。
「特攻」は、爆弾と片道分の燃料を積んだ飛行機に乗って、そのまま敵の戦艦に体当たりして沈める自爆攻撃。
的中すれば小さな飛行機1機で巨大な敵戦艦を沈めることができる。
それは生きて帰ることが許されない非人道的作戦だった。
乗組員は、14歳から20歳前後の青年だった。
理由は妻や子供、養う家族がいない未婚の青年が優先されたからだ。
「特攻隊員に志願せよ」と指令が下ると、その場で全員が志願する。
その中から毎回 10名くらいが指名され、宿舎を出発していき、もう二度と帰ることはない。残っ た青年はまた志願して、指名されるのを待つ。
そのような日本のために散っていった青年を弔う「特攻平和観音堂」が知覧にあるのだ。

特攻の志願兵を指揮する教官に藤井一中尉という人がいた。
少年飛行兵の教官であった彼の生き様が胸に染みる。
志願した教え子たちが次々に特攻隊として死んでいく。
自分は指揮する立場で安全な場所にいる。

「日本が本当に大変なときに、おれは教えるだけで本当にいいのか。」

と、藤井中尉は自問自答を繰り返す苦悩の日々。

少年兵と違い、藤井中尉には養う家族がいた。
自ら志願すれば、妻や子どもとは永遠にさよならだ。
当然、妻は主人が特攻に志願するのは大反対。
夫の志願を来る日も来る日も思いとどまらせようと懸命だった。
しかし、藤井中尉が悩んだ末に出した答えは、 教え子に対して「お前たちだけを、死なせはしない」という特攻への道だった。
しかし藤井中尉の志願は却下される。家族を養う立場の人間は採用されないのが原則だったからだ。
それでも藤井中尉の決意は変わらず、嘆願書を再提出する。
夫の固い決意を知った妻の福子さんは、

「私たちがいたのでは
 後顧の憂い(自分が死んだあとの心配事)となり、
 思う存分の活躍ができないでしょうから、
 一足先に逝って(死んで)待っています」


という内容の遺書を残す。
当時3歳間近の長女と、生後4か月の次女に晴着を着せて、知覧基地近くの極寒の荒川へ身を投げたのだ。
妻子の死を知り、藤井中尉(当時 29 歳)は、今度は指を切って、血ぞめの嘆願書を提出。
ついに特攻志願が受理され沖縄に永遠の旅に出る。
藤井中尉の亡き我が子への遺書が残されている。

「冷たい12月の風が吹き荒れる日。
 荒川の河原の露と消えた命。
 母と共に殉国の血に燃える父の意志にそって、
 一足先に父に殉じた、哀れにも悲しい。
 しかも笑っている如く、喜んで、母と共に消え去った幼い命がいとうしい。
 父も近くお前たちの後を追って、逝けることだろう。
 嫌がらずに今度は父の膝に懐で、抱っこして寝んねしようね。
 それまでは泣かずに待っていてね。
 千惠子ちゃんが泣いたらよくおもりしなさい。
 ではしばらく、さよなら。
 父ちゃんは、戦地で立派な手柄を立てて、お土産にして参ります。
 では、一子(かずこ)ちゃんも、
 千惠子ちゃんもそれまで待っててちょうだい。」

そんな思いを遺して藤井中尉は特攻隊の一人として飛び立ち帰らぬ人となった。

沖縄に向かう途上、藤井中尉は、富士山のような開聞岳を見て何を想ったんだろうか?
特攻にいかなくてもいい立場なのに、なんのために命を投げ出されたんだろうか?

自転車から降りて、南の海のはるか先に想いを馳せる。
そこは藤井中尉や特攻隊員たちが見た同じ景色が広がっている。

お前はどう生きるんだい?
その命をどう使って、何がしたいんだい?


開聞岳から、問われているような気になった。

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