不条理のつながり、あるいは深読みという悪
不条理性の否定
評論っぽくない?
不条理
コトバンクでニッポニカを引くと「人間と人間、人間と世界との関係が条理・道理にあわないこと。つまり、必然的な根拠が不在であり、すべては偶然に基づくということである。」とあった。あまりにも有名な「神は死んだ」の文句が引かれて解説が続くが、大前提を置いただけなので一般定義には踏み込まない。
我々日本人の親しみ深いものでいえば「諸行無常」というべきだろう。そのうちでどうにか社会を成立させるべく生まれたのが「宗教」概念だが、今は触れずにおく。
偶然性
今そうでも、次そうなるとは限らないこと。ジョージ・マロリーはいつの日かニューヨークタイムズの記者と同一視されるかもしれない。自問自答するな。
さて、ここでサイコロを1つ振るとする。
出る目が無理数になることはあるか?
当然、あるだろう。サイコロの出目には√がついているので。証明省略。
と、偶然一般的ではないサイコロが振られたわけだが、これは不条理である。
問題文中のサイコロが一般的なものではないということは道理に合わないのだ。
では一般的とは何か、道理に合うこととは何か。
それぞれの基部にあるのはともに「社会」ではなかろうか。
常識と道理
少し違うところもあるように思える二つの概念である。基本的に共通しているが。
道理に合わない常識なんていくらでもあるという話。それについて述べるつもりはない。
問題はともに集団、社会により作られるものだ、ということ。
社会が作るというのなら、当然我々に作る機会が与えられてもいいじゃないか?
そんなことはないと、ネットの住民なら理解できるだろう。つまり、社会的常識とは個々人に与えられるものである。
そういう「与えられる」ないし「押し付けられる」ものには「理不尽」という言葉が適する。別に基本的人権を否定するほどドラスティックな主張をしているわけではない、常識に理不尽さは含まれているというだけ。
つまり、常識には理屈に合わないものがある。道理に合わない常識はいくらでもある、というのは前述であるが。述べないのは内容である。
少し戻って、理不尽に押し付けられるのは「無常」感の源泉に他ならない。
そして、社会常識からはそれが生まれ得る。その可能性が少しでもあるならば、それは道理に合うものではない。つまり、社会常識は不条理である。
これで納得できるなら幸せだよ。
深読み
何事にもロジックを見出してしまうのは私を含む一部の人間の悪い癖である。
ちょっとした行動から敵意を見出し、自省に篭る。少しの理不尽から排斥される疎外感を覚える。社会に「出る」というあたりにも反映されているように思える。
不条理な社会で
与えられた矛盾と気まぐれに共通規則を見出だし、そこに自分への敵意を組み込むことで、自然に精神を摩耗することができる。
多数の人間が関わる物事を少し研究するだけでそれぞれの意識に悪を想像し、目を瞑っても映る偽善に辟易する。
そんな、言い訳。私に感情はあるが、それを伝える方法も、意味と意図もわからない。
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