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画像生成AIに対する私の捉え方

はじめに、私はAIを自動車のような道具と捉えています。例えば、私たちが目的地への旅をするとき、自動車を使うことは一般的な選択肢です。それはなぜなら、自動車は私たちが目的地に到達するための効率的な手段だからです。

この例えをイラストの生成に置き換えてみましょう。例えば、あなたがかわいい女の子とごつい機械のイラストを見たいと考えたとしましょう。この目的を達成するためには、AIにそのイラストを出力してもらうのが一つの方法です。これは、富士山を目指して自動車を選択するのと同じです。したがって、イラストを見たいという目的に対して、AIを使うという判断は妥当と言えます。

しかし、ここで一つ大切なことを忘れてはならないと思います。それは、自動車の登場が人間の運搬や移動を劇的に変えたように、AIもまた世界を変えてしまったことです。そして、その変化は不可逆で、自動車の登場前の世界に戻れないように、AIのない世界にももう戻ることはできないのです。

ただし、自分自身でイラストを描くことの価値を否定しているわけではありません。むしろ、その価値は依然として存在し、尊重されるべきです。自分自身の手でイラストを描くことが目的であれば、AIを使うことには意味が無くなります。例えば、もし富士山を自らの足で登ることが目的であるなら、自動車で移動することには意味が無くなるのと同じです。

人間の力に頼らずに、自動車が運搬や移動を可能にしたように、画像生成AIの登場により、技術がない人でもイラストを描くことができるようになりました。これにより、新たな創造の可能性が広がり、それは喜ばしいことです。産業革命時にも同じような事象が見られ、歴史的に見て、仕事がAIや機械に置き換えられることは

新しい価値や可能性を生み出してきました。

しかし、それは、人間が描くイラストが無価値になることを意味するものではないと私は思います。AIが描いたイラストがあるからといって、それが美術館に飾られるかどうか、それが話題になるかどうか、それが人々に感動を与えるかどうかは重要ではないと思います。重要なのは、そのイラストがどれだけ人々に感動や喜びをもたらすか、どれだけ物語を伝えることができるか、といったことです。

人が自分自身と向き合って、AIでは代替できない、他人の評価に関係なく、自ら価値があると思える偏執的な拘りを見つけることの大切さです。イラストを描く過程を楽しむならば、自ら描くし、イラストを素材として何かを創りたいのなら、AIを使う選択肢も考えられます。そして、そのどちらの選択も、それぞれが価値を持つことを私は信じています。

最後に一つだけ。画像生成AIの出力する女の子はちょっと綺麗すぎると思います。

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