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東日本大震災で被災し、津波にあった話

2011年3月11日、被災しました

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2009年。秋田の大学を出て仙台に越すとき、色んな人に「向こうは地震がくるよ」と脅されていました。そして仙台の会社で勤務し始めて2年…その時は思ったより早く来てしまいました。勤務中に突然の大きな揺れ。何故か私はデスク上のパソコンを必死に支えていたのですが、「いいから机の下に潜れ!」と怒られたのを記憶しています。床が抜けてしまうのでは、天井が落ちてくるのでは…そんな恐怖心の中揺れが収まるのを待ち、社員総出で駐車場に避難しました。余震で近くのビルがゆらゆらと揺れているのが見えました。社長の判断ですぐに家族のもとに帰るように促されましたが、私は当時一人暮らしでバスで出勤していたので、帰る手段がありません。同僚が自分の家に泊まるように誘ってくれたので、ありがたく彼女の家に車でつれて行ってもらうことにしました。

津波が来るとは思っていなかった

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海沿いに住んでいる同僚でさえ、まさかあそこまで大きな津波がくるとは思ってもいませんでした。ラジオでは津波を警戒する放送が流れていましたが、何故か私たちは「大丈夫だろう」と、海沿いの道を進んでしまったのです。内陸産まれの私は、津波の怖さをまるで知りませんでした。途中電話ボックスから実家に連絡を取りました。そうして渋滞気味の道を進むと、手前にもやが見えるのです。それは津波による土埃でした。すぐに水が道路の向こうから押し寄せてくるのが見えました。「どうしよう!とにかく高い場所に!」と同僚はとっさの判断でガソリンスタンド側にハンドルを切りました。車が何台も固まってしまっていたこともあり、身動きがとれず、水が浸かり始めていたので急いで車を降りました。

ガソリンスタンドの屋根に登る

ガソリンスタンドには既に避難している人がいました。積んである荷物を足場に、既に登っているおじさんに引っ張り上げてもらって塀に登り、今度は塀伝いに屋根の上に登らせてもらいました。無我夢中で登ったので、どこかで怪我をしたらしく、右手の内側が血だらけになっていましたが、気付いたのは相当後でした。屋根の上からは津波に浸った車たちが見えます。向かいの家具屋の駐車場から無数のクラクションが聞こえます。アウトレットモールの観覧車の向こうに煙が見えます。曇天から雪が降り、妙な静けさのなか、「これは現実だろうか?」と呆然としました。


ガス屋のおじさんに助けてもらい、4時間、屋根の上に

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私たちを引き上げてくれたおじさんはポケットにさしていたカッターで店舗にかかっていた旗の紐を切り、看板の柱にくくりつけて雪よけを作ってくれました。その後も傘をフックにして引っ張り上げたハシゴを隣のマンションの廊下へ渡してくれたりとその場にあるものを使って避難した人たちのために行動してくれました。いざというときに落ち着いて行動できる姿に尊敬の念を抱きました。

同じように屋根の上に避難した女性はあまりの出来事に取り乱し、「車、まだ新しいのに!」「車内に買ったばかりのDVDがあるのに!」「怪我をした、破傷風になる!」と声をあげていました。当時はそんなこと言ってる場合じゃないのに、と思っていましたが、今思うと錯乱状態になっていたのかなと…。

水が少しずつ引き、トラックが動かせるようになる頃にはもうあたりは暗くなっていました。星空がとても綺麗だったのを覚えています。

今度はトラックの運転手さんに乗せてもらい、水をかきわけて避難所まで送ってもらいました。避難所近くの道路に停車すると、そのトラックはもうエンジンがかからなくなってしまいました。徒歩で避難所を目指しました。

避難所での一夜

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少し歩いた先の小学校に避難しました。既に人が廊下まであふれており、停電で暗くなった廊下にストーブが置かれ、それを囲むようにパイプ椅子が並べられていました。(教室は避難してきた子どもたちとその家族が使っていました。)毛布は二人で一枚というアナウンスで配られたのですが、すぐ受け取りにこれない高齢者を尻目に独占する人もいました。あまりにも酷いです。毛布を高齢者のところに譲り、再度受け取った毛布に同僚と一緒にくるまり、手をさすりあって体が冷えないようにしていました。途中で充電器の貸し出しが行われているのを知り、並んできたのですが、二時間並んで充電時間は5分。一回の通話で電池は無くなってしまいました。私だけがその列に並びに行ったので、一人で座っていた同僚は低体温症気味に…震えながら夜を明かしました。余震も続いていたのでほぼ眠れていませんでした。ちなみに避難所となった小学校の職員さんは夜通し見回りや配給の手伝いをしてくださっていました。翌朝、それぞれの家に帰ることに決め、同僚とはお互い徒歩で避難所を後にしました。

その後の生活

徒歩とタクシーの乗り合いでマンションに到着すると、部屋の中は思ったより荒れていませんでした。ただ、電気とガスは止まっており、水も浴槽に溜めようとしましたが直ぐに止まってしまいました。友人と連絡を取り合い、しばらくは友人の家の側の避難所に寝泊まりをすることにしました。電気が戻った3日目から友人宅に居候し、早々に会社の復旧を目指し出勤するようになりました。お湯が使えないので冷水で頭を洗い、食料も満足にないので友人に日の丸弁当を詰めてもらい…徐々にライフラインが戻るまでは最低限の生活をしていました。毎日食料品が手に入るところがないか探しながら帰りました。ラーメン屋さんが豚丼の持ち帰りを提供してくれていたのを見つけた時は、大変に嬉しかったのを覚えています。

落ち着いた頃、同僚とガス会社へお礼をしに行きました。

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その後1年くらいはPTSDだったのでは?と思う症状もありました。暗くて広い水面は未だに怖いです。

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振り返って


今こうして思い出しながら記事を書いているのですが、どんどん記憶が無くなって風化していっているのを強く感じます。特に津波にあった夜のことは今でも現実味がなく、本当にそうだったろうか?と疑うようなこともあります。

ここ数ヶ月でフォロワーさんが増えたのでたくさんの人に漫画を読んでもらえるようになりました。いま、漫画にするときだと思いたち、急いで描きました。いくつかのメディアのインタビューでもこたえましたが、震災関連のニュースや記事はあまり関心がないという人も、漫画の形なら読んでくれるのではないかと思ったところがあります。結果、RT拡散していただき、たくさんの方にあの日のことを読んでもらえました。当事者でも薄れていってしまう記憶をなんとか残したい。危機感を持っていかねばならないという警鐘を鳴らしたい…そんな思いを拙い漫画ではありますが、こうして発信することで少しは達成できたのかなと思っています。

なんとかなったから危機感が薄れる。でも「なんとかなる」ではなんとかならない。


被災したけど助かったからこれからもなんとかなる。そう思っているところがどこかにありました。でもなんとかならなかった人も沢山、沢山いるのです。それを忘れてはいけません。

「なんとかなる」ではなんとかならない場合があるのです。それを肝に銘じ、いざというときに家族を守れるよう、対策していかねばならないと思いました。

長くなりましたが、読んでくださってありがとうございました。

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2019年3月11日(加筆修正2021年3月11日)

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