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グラン・パ・トリイの映画ドットこい!(3)なぜひばりは物干し台で歌ったか?

 歌手・美空ひばりの姿はテレビ映像によって繰り返し見ることができるし、多くの人にとってはまさに「演歌の女王」である。しかし、映画俳優・美空ひばりもまた当時からのファンにとって大切な記憶だ。女優・美空ひばりの魅力は、サービス精神と多様多才な芸に尽きる。大衆芸能というものを芯からしみついている彼女は、お客様に喜んでいただけるために最高のパフォーマンスを目指した。その真骨頂はやはりステージだったのだが、残念ながらその姿を残す映像はほとんどない。

 幼いひばりの魅力を最初に映像にとどめたのは喜劇の神様として映画史に名を残す天才・斎藤寅次郎監督の作品である。『のど自慢狂時代』(1949年 斎藤寅次郎監督)で11歳のひばりは「ブギを歌う少女・ひばり」の役でスクリーンデビューする。あいにくこの映画はフィルムが欠損しているものが国立映画アーカイブに残されているのみで、ひばりの登場シーンは残っていない。完全版の発見が期待される映画の1本だ。続く『びっくり五人男』(1949年 斎藤寅次郎監督 のちに再編集され『ラッキー百万円娘』として再公開)、『あきれた娘たち』(1949年 斎藤寅次郎監督 のちに再編集され『金語楼の子宝騒動』として再公開)、『おどろき一家』(1949年 斎藤寅次郎監督)と、1年間で4作品に出演させている。さらにひばり主演作として『憧れのハワイ航路』(1950年 斎藤寅次郎監督)、『青空天使』(1950年 斎藤寅次郎監督)、『東京キッド』(1950年 斎藤寅次郎監督)、『とんぼ返り道中』(1950年 斎藤寅次郎監督)と、立て続けに製作される。いかに彼女の達者な演技力と類まれな歌唱力に惚れ込んでいたかをうかがい知れる。

 しかし、ひばりの代表作となったのは何と言っても12歳での初主演作『悲しき口笛』(1949年 家城巳代治監督)だった。まだいたるところに空襲の焼け跡が残る横浜、戦災孤児の少女が行方不明だった兄と再会し、歌手として成功するまでを描いた物語は、戦争で家族を亡くし家を失った子どもたちの希望となり憧れとなった。ひばりが幼さの残るあどけない顔で大人顔負けの歌を歌うアンバランスな魅力、日本的なお涙頂戴の物語でありながらラストのナイトクラブのきらびやかなステージ、まばゆいスポットライトを浴びて歌うシルクハットの少女スターへの変貌は、多くの人々に夢と希望を与えた。

 女優・演技者としての美空ひばりは杉田劇場の大衆演劇に原点があると思っていいだろう。1946年元旦に横浜市磯子区杉田、現在のJR杉田駅からほど近い国道16号線にオープンした杉田劇場は、娯楽のない人々に最高のエンターテインメントを提供した。当時ひばりの母、加藤喜美枝は娘・和枝の歌の才能を信じ自前の「青空楽団」を設立、近所の銭湯や公民館で歌を披露させていた。喜美枝はさらに多くの人の前で歌わせたいと、ラジオ番組「NHK素人のど自慢」の予選に出場させる。母子は鐘が鳴るのを確信していたが、審査員は「子どもらしくない」「非教育的だ」などと言う理由で、鐘を鳴らさなかった。そんな母子にとって、杉田劇場は格好の晴れ舞台となった。
 杉田劇場のプロデューサー鈴村義二は、喜美枝の願いを聞き入れ芝居の幕間に和枝を歌わせることにした。専属の楽団「美空楽団」を設立し、9歳の和枝は「美空和江」の名で劇場デビューを飾ることになる。1946年3月のことだった。1947年に漫談井口静波俗曲音丸と出会い、巡業に同行するまでの杉田劇場での日々は、幼いひばりにとって大衆演劇の魅力に包まれた日々だった。彼女はその芝居そのものを天性の才能で吸収し、自分のものにしていった。映画に出始めた頃から、歌と同じく演技でもすでに出来上がっていたのである。

 そんな女優・美空ひばりの魅力を日本全国のファンに届けたのは主演映画であった。スクリーンで歌うひばりの姿はファンにとって身近で遠い、まさにスターだった。1951年に公開された主演映画は『鞍馬天狗 角兵衛獅子』(1951年 大曾根辰夫監督)、『ひばりの子守唄』(1951年 島耕二監督)など9本、1952年には『月形半平太』(1952年 内出好吉監督)、『二人の瞳』(1952年 仲木繁夫監督)、『リンゴ園の少女』(1952年 島耕二監督)など8本と、主演作が次々に作られていく。歌手としてのレコーディング、ステージの合間を縫って、このスピードで撮影をこなすのはまさに神業であり、これを支えているのがひばりの演技能力だった。車での移動中にセリフをすべて覚え、時代劇の殺陣や、ダンスの振り付けなどもほぼ一発で身につけてしまう特異な能力が、この主演映画の量産を可能にした。

 彼女の映画はどの作品も大当りをし、『リンゴ園の少女』の主題歌「リンゴ追分」のレコードは70万枚という大ヒットになる。1955年、18歳になったひばりは11月に公開された『ジャンケン娘』(1955年 杉江敏男監督)で、江利チエミ、雪村いづみという同年代の二人と共演、三人娘の誕生に公開された東京・有楽町の日劇では、観客が劇場を取り巻く大行列ができた。この年、ひばり主演映画は13本。そのうち、12月公開のお正月映画は、新芸プロ製作・新東宝配給で公開された『唄祭り 江戸っ子金さん捕物帖』(1955年 冬島泰三監督)、日活製作の『力道山物語 怒涛の男』(1955年 森永健次郎監督)、東映京都製作の『旗本退屈男 謎の決闘状』(1955年 佐々木康監督)、東宝製作の『歌え!青春 はりきり娘』(1955年 杉江敏男監督)の4作品。邦画6社のうち、大映、松竹をのぞく4社が、正月作品にひばり映画を揃えたのだ。一人の俳優が同じ年の正月映画で4本に出演するというのは前代未聞であり、この記録はおそらく今後も破られないだろう。映画が庶民の娯楽の王様であり、美空ひばりという映画会社に縛られない大スターであったがゆえの記録である。

 1958年、ひばりは個人事務所ひばりプロダクションを設立、東映と専属契約を結ぶ。1963年の契約終了までに東映で主演した映画は59本、専属前からを含めると10年間で107本に及ぶ。時代劇『ひばり捕物帳』シリーズ、現代劇『べらんめえ芸者』シリーズなど、大ヒットシリーズも生まれ、中村錦之助、大川橋蔵、高倉健をはじめ、東千代之介、里見浩太朗らとも息の合ったコンビとなった。そして何より特筆すべきは、この膨大なひばり映画が数本をのぞいて、すべて純然たる娯楽映画だということだ。ひばりの映画にはすべてお客様を満足させようという、一流のサービス精神、一流のエンターテインメント精神にあふれている。

 そんな東映時代劇の美空ひばり主演作にバリアフリー音声ガイドをつけたことがあった。『ひばりの花笠道中』(1962年 河野寿一監督)である。時代劇俳優として、まさに乗りに乗ったひばりが、江戸・両国の矢場の娘・お君とその弟・新太の二役で、消えた恋人の素浪人・寛太の行方を追う。実は寛太はさる大名の若君でお家騒動で揺れる故郷に向かったのだ。ひばりは恋人を思う純情な町娘と、姉の恋人を助ける弟の二役を楽しく演じ分ける。ここに寛太を狙う悪者や、ピンチを救う近衛十四郎扮する素浪人が加わり、痛快チャンバラ映画となる。上映時間わずか88分の映画に、さまざまな仕掛けが施され、楽しくほど良い感動もあり最後まで見せてくれる。しかし何と言ってもひばりのスター性だ。すべてのシーンがキラキラと光る。映画の夢とはこういうものだ。


 寛太を追って東海道を旅するお君が、小田原宿で宿の物干し場に立ち歌うシーンがある。ガイドをするときに、この物干し台から遠くの山並みが見えることを忘れてはいけない。今、この箱根の山中を彼女の思い人、寛太が夜を徹して歩いているのだ。しかし、お君はそのことを知らない。ただ、お君の歌に呼応するように、夜の山道を急ぐ寛太も歌う。寛太を演じるのは里見浩太朗。黄門様のイメージが定着した彼も当時は20代前半、歌のうまさは若手随一と言われていた、その歌声がひばりの歌と重なる。ロマンチックなシーンである。
 でも、なぜ物干し台?

 ちょっと違和感を感じた私は、オープニングタイトルを見直してそのヒントをつかんだ。タイトルバックがいつもの、というか他の東映時代劇と違うのだ。大量に作られた東映時代劇を検証したわけではないが、おおむね東映時代劇のタイトルバックは江戸の風景や、文様を描いた絵に筆文字の字幕でスタッフ、キャストが書かれている。しかし、この映画のオープニングは江戸の町のミニチュアセットを長回しの俯瞰で撮影したものなのだ。武家屋敷の町並みからゆっくりと下町に向かい、大川と思われる橋の上を通って両国の町までミニチュアの上を移動、そこからお君の働く矢場へと切り替わる。これが「空撮」であることに気がついたのだ。となれば、物干し台の意味が見えてきた。ウエストサイドだ!

 ミュージカル映画の金字塔『ウエスト・サイド物語』(1961年 ロバート・ワイズ&ジェローム・ロビンズ監督)は、1961年12月に日本公開され大ヒット。なんと1963年5月17日まで足掛け3年、511日にわたるロングランの日本記録を打ち立てた。
 この映画のオープニングこそ映画史に刻まれる名場面。マンハッタン島に近づく空撮(ヘリコプターからの映像)がニューヨークの摩天楼、ウォール街、ヤンキーススタジアム、セントラル・パークを通り、集合住宅が密集する下町、ウエスト・サイドへ向かう。これを江戸の町でやりたかったのが、『ひばりの花笠道中』のタイトルバックなのではないか?『花笠道中』公開は1962年10月27日、まさに『ウエスト・サイド物語』の公開中のことだ。当時の観客はこのタイトルに「あら、ウエストサイドみたい」と笑って見入ったのであろうか?とすれば、唐突に夜の物干し台でひばりが歌い、山中の里見浩太朗が歌うのは、バルコニーの「トゥナイト」である。これは憶測かもしれないが、考えると面白い。60年の時を越えて、映画に託された仕掛けと、それに応じたであろう観客の笑顔を思うだけで、映画を紐解く面白さに惹かれる。

 音声ガイドを作っていることで、思わぬ収穫があるというのはよくあることだ。映画馬鹿ならではの深読みを働かせて、映画を見る喜びを味わわせてくれる。そして、美空ひばりは天性の映画女優だった。

 (文中敬称略)

 
 


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