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年の瀬に乗せ。


節目というものにかこつけなければ連絡できないような間柄は、友人なんて呼べないのでは?

と思い、数日前から友人だと思われる地元の友人たちに「ライネン アソビ カエル」とぶっきらぼうにLINEを送り付けるなどしている。


さすがひねくれていると褒めて頂いても構わないくらい、わたしはひねくれているので。

クリスマスから始まり、年末や年明けは非常にどうでもよいことなのだ。

納まるような仕事をしているわけではないし、やれ年が暮れる・明けると騒ぎ消費に勤しむ人々の強欲を満たす奴隷であること変わりがないと思っている。

節目というものだとは理解している。

「よいお年を」は、なぜその年が終わる際に言わなくてはいけないのか。

アメリカの年末の挨拶だろうが、日本は新年の最初に言うべきなんじゃないのか、とかそんなことを淡々と考えている。

なんとなく、わたしはドライというよりか、年々諦めに近い思考に偏ってきていると苦寒の最中ぼんやり感じ始めた所だ。


先日、2021年を漢字一文字で表すと?と朝のニュースで芸能人がインタビューされているようなことを聴かれた。

そんな質問を受けたことはなかったので、返答に困ったが、たまにそのことを思い出して考えていた。

怒濤と言えば怒濤の年ではあった。

だがもう過ぎたことで、ずっと昔のことのようにさえも思えてくる。

製造工場に引きこもって、限られた人とばかり接したり考えたりすることを自ら破ったことは、自分で判断して行動した結果で成功だったと強く思う。


今までに考えられないくらい多くの人と話したことで、わたしが更新されたことは確実だった。


なので、あてがうとしたら

「枝」

枝、「木」を「支」えているのは幹とか何か、太い根幹じゃないのとも思うのだが。

「支」は手で草とかを掴む象形文字らしい。

光合成をするために葉をつける。
葉をつけるために主軸から伸びていく枝。

わたしが関わるために伸ばしたのだった。
葉がちゃんと芽吹くかはわからないが、恐る恐る伸ばした。

少し別の方向に曲げれば簡単に折れるほど、強度の弱いものだが、主軸に影響が出る伸ばし方はしていない。
多くてエネルギーを使ってしまうのならば、剪定してしまえば済むだけの話。

人は確かにそこにいて、いてくれたからこそではあるのだが、特段陳謝することはされていない。
支えられるほどのことはされていない。
けれど、四方に伸ばした枝の、少しずつ芽吹いた葉から吸収できたものを蓄えて、自らを支える要素に変えていった。

実ると落ちてしまうので、花は咲かなくていい。

少しの雨風に耐えうるほどになれればいいが、それは1年の目標ではない。
西暦は変わっても日にちや時間はつながっているのだ。


関わってくれた人に感謝、という聞こえはいい雑なまとめ方で締めくくるのは、本当にお世話になっている人に向かって発言しているのではなく、明後日を向いて叫ぶ一人言のような気がしてならない。

あくまでも自分本意な話をしているので、誰のおかげでと限定するのも変な気はする。

強いて言えば、悩みながらも自身で決断し、行動に移せた自分に一番感謝している。

どんな年にしたいというのは365日を総合した結果「こんな年でした」への答えにも何にもならない、ただの身近な将来の夢のようなものなので年の抱負もクソもない。

ある日死んでいるという時まで、綻んだり憂いたり嘆いたりして、まだ生きているだけだ。

今日も日々を過ごしている。

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