Edward

2000字以上あります。

エディー・ヴァン・ヘイレンがこの世を去った。65歳、早すぎるとは思わないけどもっと生きててもいい、というか現役を感じたかった。もう近年はやってないようなもんだし、2013年ツアーの大阪市中央体育館に参加できただけでも28歳のエディー体験としては十分だと思う。大学の頃、軽音部でVAN HALENのコピーに注力していた「80年代のロックキッズ」みたいな僕ではございますが、そのコピーバンドのメンバーどうしが結婚したりその結婚パーティーでJumpを演奏したり、なんかもう軽音部のおじさんそのものって感じで、そういう体験もエディがいなかったらできなかったわけで、感謝が尽きないです。VAN HALENでつながった絆は恋愛以外も少ないながらあったり(NO BORDER ROCK FESという関西のコピー系軽音部が集まるイベントで仲良くなった甲南大学のエディ好きの彼、たぶん慟哭してると思う)、どうやら「青春」の香りがしますね。

「青春」というのは日清がCMでやっているような綺麗なものではなく泥臭いものこそ本物だという信条があって、これは真空ジェシカのガクかうしろシティの阿諏訪のどっちかが言っててかなり深く染み入った言葉で、そういう意味でいうとVAN HALENをコピーすることの泥臭さは「青春」そのものでした。中学高校の頃にラルクみたいなベースしかコピーしてなかった僕にとってはまず丁寧に刻むベースが苦手すぎて、こいつらリズムアレンジ変態すぎるだろ、ギターの音作りむずい、ボーカル声高すぎ、コーラスできないなどバンドが揉めるにはうってつけのたくさんの要素があり、誰かに頼るというかわいいことができるわけでもなく、ただただみんなで朝7時~9時に眠い目こすりながらBOX(部室をBOXっていうのは西の文化だときいております)で爆音出して話し合ってなんとか形にしていくという作業は、まったく美しくないけれども泥臭さは100点のまさに「青春」だったといえるでしょう。感動と悔しさの間の涙を流したのは人生でも20歳、21歳の間だけでした。深夜に梅田に行って朝5時までスタジオで練習して始発で帰る、という行動は今でもしてみたいと思っています。

そもそも僕はVAN HALENを特段好きだったわけではなく、ハードロック好きだった高校時代に通学路のTSUTAYA別府上人ヶ浜店でHR/HMの棚をあさる流れでベスト盤を聴いたのが始まりでした。「炎の導火線」だったらなんかよかったのにね。我々の世代は既にネットもありライトハンド奏法の存在は知っていたし、むしろベーシストとしてビリーシーンを崇めていたからやりまくっていたわけで、口をそろえて言われるようなエディーのライトハンドの新鮮さは無かった。僕はJanne Da Arcのyouちゃんからライトハンドを学びました。でも、その音が違うぞと感動したのは覚えてる。ギターのライトハンド、歪んでるのになんかクリーンだな、なんだか耳に残るなというか、今思えばあれはエディのリズム感が醸し出したものだったのでしょう。高2の文化祭でMR.BIGを演った後教室に戻ったら同じクラスの章伊に「JumpのPVではエディーが大人しそうにライトハンドしてる」っていう話をされた。目立ちたがりで申し訳ない、と思った。

VAN HALENとの大学時代の付き合いは1年秋に訪れます。軽音部で仲良くなったあつしとなんか一緒にやりたいねとなっている時期にちょうどあつしとゆうしと梅田に買い物に行く機会があり、あつしは服を、ゆうしはギターを買いに行くらしく、ちょうど夜からの高校の集まりで梅田にいた暇な俺は付き合うことにし、飯食ってHEPのWEGO(なちー)行ったり、梅田の楽器屋をローラーして、その流れで入ったBIG BOSSの奥の方に鎮座されていたEVHモデルのAxisと目が合って、なんかいいなとなったあつしがそのまま購入、逆にゆうしはどっかで服を買って満足、といった具合の出会いを果たした。それからハードロック好きだったメンバーを集めてVAN HALENをコピーすることになり、Panamaを練習してる11月、箕面自動車教習所の喫茶コーナーでトーストとミックスジュースを飲食しながらあつしとバンド名を決めた。あの秋の質感、2011年を象徴している。あそこからすべてが始まった。大学2,3年でバイトしてたスーパーの店長がHR/HM大好きで、VAN HALENのコピーバンドでベースやってますって言ったら俺を「マイケル」と呼ぶようになって、最後レジ精算しながら生のハードロック体験を聴くのがすごい好きだったんだよなあ。RattとかDokkenの話をやたらと。あの暗い事務室の22時を覚えてる。めっちゃ大きい店舗に栄転になった時はさみしかった。

エディーの凄さはやはりその耳に残るフレージングと底抜けのポップセンスにあり、関西大学のホールでライブした時にリハでDreamsのイントロを弾くと関大軽音の数名が「いえーい」みたいな感じになってくれて嬉しくなったのを覚えています。浸透具合。

大物ミュージシャンがこの世を去っても、その膨大な作品群にはいつでも触れられるし、ギターや服などあらゆるものは残っていて、しかも大物過ぎて頻繁に会えるわけではないからそんなにさみしさはない。ただ、「そのミュージシャンに直接会ってコピーしてることを伝える」というコピーバンドをやる中での一つの大きな目標を、もう叶えられないというのが辛い。こればかりはね。GLAYのサポートやってるTOSHI NAGAIと対バンして直接御礼を言えた時はそれなりに感動した。こういう夢を果たすために、同じ時代を生きていることを証明するために東京に出てきたんだなとすら思った。それがもう、どうしたってできないんだなあ。月並みだけど、やっぱり生きてるうちにライブを観なきゃいけないしどん欲にコンタクトをとらなきゃいけないんだよな。その思いがより強くなったよ。いつかマイケルに、アレックスにウルフギャングにサミーにデイヴに、あとゲイリーシェローンに会いたい。

こう書いてみると人生のあらゆる場面にエディーの功績がしみ込んでいる。特に大学の景色に、部室にもバイト先にもライブハウスにもいやがる。自分の音楽体験を構成する上で、バンド活動を今後もしていく中で確実に大きな一つの柱となっているエディーには感謝しかない。前の会社の飲み会で先輩と「今日UNCHAINのライブ行く予定だったんですよ」「VAN HALENのかっこいい曲?」「それはUnchainedね」みたいな会話ができたことの嬉しさもエディーのおかげです、こんな些細な事でも影響を受けている。存在が偉大だわ、改めて。

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