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三軒の白い家

「三軒並んだ白い家の真ん中に『イラシ』が住んでいる」

 ある年の七月、そんな話を聞いた。

 実際は『イラシ』じゃない。もうすこし普通の、女性の名前だ。同名のかたに迷惑がかかるといけないので、元の名前とは違う表記にする。

 イラシは女性で、長い黒い髪をしている。捕まると、その白い家に閉じ込められて帰してもらえなくなる。姿を見ただけでもよくないことが起こる。そういう噂が立った。

 もしよければ「白い家」でネット検索してみてほしいのだが、それで出てくるような建物が「白い家」だ。一階部分の壁はタイル張りで二階の壁は白い、というのは該当しない。

 私の地元は北海道。冬、積雪で壁が汚れてしまうので、下から上まで白一色という家はあまりない。少なくとも私が住んでいた田舎町ではそうだった。
 一軒でもめずらしい白い家がみっつ軒を連ねる、そんな場所が本当にあるわけない。もし本当にあったらすぐに「あ、あそこのことだ」と誰かが気づくはずだから。みんな、作り話だとわかった上で噂を楽しんでいた。日に日に尾ひれがついた。

「本町の金物屋さんがこのまえ店を閉めていたのは、イラシに捕まってたせいだ」

 こういう作り話が、平然とまかりとおった。
 別のクラスや学年のだれかが学校を休んだら「あいつイラシを見たんだって」と噂された。数年前に退職した先生も、実はイラシの目撃者だったことになったりした。

「うちの裏の工場がきのうは動いてなかった。本社の偉い人がイラシを見たって工場の人が言うのを聞いた」

 告白すると、私もそんな感じで乗っかった。そこそこに盛り上がって、正直嬉しかったのを覚えている。ちなみに家の裏に乳製品メーカーの工場があって、そこが急に休みになった日があったのは本当だ。理由は知らない。

 そうして、その年の一学期は終わった。

 三十年ほど前のことで、夏の暑さはいまほど酷ではなかった。
 ある日の昼過ぎ、私は飼い犬を散歩していた。その犬の首輪が急にすっぽり抜けた。犬は猛ダッシュであさっての方向へ駆けた。

 必死に追いかけた。事故にあったらどうしよう、親に怒られたらどうしよう、の気持ちが半々だった。田舎町とはいえ、住民ぜんぶ顔見知りというほどでもない。知らない家の庭をこわごわ抜けて、壁と壁のあいだで巣を張った大きいクモの下を通れなくて回り道して、半泣きであちこちを走った。

 誰かに見つかりませんように、と、ずっと考えていた。愛犬の無事よりも自分が怒られないかどうかを気にするなんて、ひどい奴だと思う。ただ、この頃の私にとって、親の機嫌を損ねるというのは、自分の居場所を失うことに直結すると思い込むぐらいに怖いことだった。

 さいわい、犬は見つかった。知らない白い家の風除室の前で、のんきに首のあたりを後ろ足で掻いていた。近づいても逃げたりせず、首輪をはめなおさせてくれた。

「かえろうね」
 心からほっとして、リードをしっかり握り直した。
 それから振り返って、気づいた。

 白い家。

 その隣に白い家。
 反対側の隣に白い家。

 真ん中の白い家の、玄関先に、いつのまにか人がいた。
 声をかけられた。

「いらっしゃい」

 そこからのことはあまり覚えていない。
 犬をひきずって走って、走って、日暮れの少し前には家に帰った。

 人の顔はよく見ていない。帽子をかぶっていた覚えはある。髪の長さは……よくわからない。

「いらっしゃい」

 低い、女の人の声だったと、思う。

 そのことは、もちろん家族には言わなかった。犬を逃がしたことを怒られると思ったから。
 同級生にも話さなかった。
 本当に起きたことに嘘を付けたして話すのは、平気だった。けれども作り話ではないこれを人に話すのは──三軒の白い家が本当にあったと、自分の口から言うことは、なにか悪いことになりそうな、そんな気がしたのだ。

 夏休みが終わり、二学期になる頃には、イラシの話題は下火になった。
 三軒並んだ白い家を見ることも、その田舎町の中では、もうなかった。

 その後、『何かよくないこと』が起きたかどうかについて。

 人並みにつらいことはあったと思うけれど、原因不明の病気になるとか、身内に不幸が起きるだとか、そういうものはなかった。
 しいて言えば、親戚で自殺した人がいた。たださして親しい間柄ではなく、何年も抱えていた借金が原因だと聞いている。
 犬は十年以上、元気だった。

 あれは、やっぱりだたの小学生の作り話だったのだと思う。
 私が見た三軒の白い家も、見間違いかなにか、あるいは見間違いでなくても、ただそこにあった三軒の白い家で、普通にそこの住人が挨拶してくれた、それだけだったのだと思う。

 今となっては笑い話のひとつとして、戯れにここに書いておく。

 書きながら、同級生から聞いた話をもうひとつ思い出した。

『イラシ』は、この話をここに書くにあたって私の頭にふと浮かんできただけの名前だ。ほんとうは〇〇という。けれどこの〇〇も本当の名前ではないらしい。

 本当の名前は、そいつに会った者だけが、わかるのだそうだ。

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