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ひび割れて、埋まる (一)

創作ホラー小説 全二話 前編
過去に別名義でweb公開していた作品です →後編

 ひやり、と首になにかが触れた。
 眼鏡が飛びそうな勢いで僕は振り返る。笑う祖父が、そこにいた。
「よう冷えとるよ。トオル、アキ、飲まん?」
 両手に、ラムネの瓶を持って。

 中学二年の夏休み。父さんが一週間の出張に行った。母さんは三年前に他界、父の実家は遠いため、僕は隣県にある母方の祖父の家に泊まることになった。六歳の妹のアキも一緒だ。

 ガラス瓶を当てられて冷やされた首筋をなでる。シャツの襟がちょっと濡れていた。
「アキ、じいちゃんがラムネくれたよ」
 庭で遊ぶアキに声をかける。アキはそれまで夢中でふかしてたシャボン玉セットを放りだして、豪快に縁側へ駆けてきた。
「ラムネ! ラムネ!」
「おまえ先に手ぇ洗ってこい。シャボン玉でべたべただ」
 言うが速いか、畳の上を猛ダッシュして手洗い場へ向かう。
「もう、家の中で走るなっつってんのに……」
「何もかまわんよ。元気でええなあ」
 祖父は明るく笑う。
「南の部屋だけ入らんどいてくれたら、ほかはもう、トオルもアキも好きに使ってな」
 瓶の中のビー玉が、からん、と鳴った。

 祖父の家は昔ながらの日本家屋だ。とても広くて、古い。
 磯谷さんちみたい、とアキは言った。あの日曜夕方のお茶の間の定番アニメのあれ。実際は、磯谷さんちよりずっと田舎だ。まわりは山と林に囲まれていて、となりの家とは学校のグラウンドひとつぶんぐらい離れている。もう何年も前に祖母が亡くなってからずっと、祖父はこの家で一人暮らしをしていた。
 僕とアキが住む家は、狭い坂道に挟まれたマンション。開放度は比べ物にならない。幼稚園児のアキがあっちこっち走り回りたくなるのも無理はない。

「ビーだま! ビーだまおすの、あっきーがやるから! おにいのもやってあげる!」
 蝉の大合唱に負けないうるささで妹が戻ってきた。……やっぱり後でもうちょっと注意しておく。
 ぽん、しゅわっと音がして、ビー玉の栓が落ちる。
 アキは一気にラムネを半分あけて、行儀悪くげふっとやってから、姿を見せたビー玉にうっとり見入った。
「これ、きょうのよる、まくらともにおいとくんだよね」
「枕元な」

 祖父の家では、約束ごとがふたつある。
 ひとつは、南向きの祖父の部屋には入らないこと。
 もうひとつは、夜、眠るとき、枕元にビー玉を置いておくこと。そうすると次の朝、不思議なことが起きているんだ。

「あしたもきれいになってるかなぁ、ビーだま」
「夜中に起きて見たらダメだぞ。ほら、電気消すから」
 広い和室にふたつ並べた布団で、アキと僕は眠りについた。枕元に、ラムネの瓶から取り出したビー玉を、ひとつずつ置いて。

 そうして、朝。
 どこかの家で鶏が鳴いて、蚊帳越しに光が差す。目を開けた僕たちは、枕元で朝日をはねかえすそれを見る。

「うわあ……!」
 アキが歓声を上げた。
 無色透明だったビー玉が、光を乱反射させている。
 まるで、小さなガラス球の中にダイヤモンドを閉じ込めたみたいに。

 クラックビー玉、というやつがある。
 ビー玉をフライパンでほんの数秒だけ炒って、氷水につける。そうすると急激な温度差でビー玉の内側にひびが入り、カットされた宝石のようにきらきら輝く玉になる。
 そうやって作ったのがひび割れクラックビー玉だ。僕の学校でも女子が一時期はまってたけど、流行りになるよりもっと前から僕はそれを知っていた。
 この祖父の家で、枕元に一晩置いておいたビー玉が、それと同じものになるからだ。皆が寝静まってから、誰にも触られることなく、ひとりでに。
 いつからか祖父の家で起きるようになった、奇跡だった。

「おお、ええなあ。アキちゃんの。きれいにできとるなあ」
 祖父に褒められてアキは得意げだった。自分で作ったわけでもないんだけど。
「きれいだね。ふしぎだね。じいじ、どうしてビーだまこんななるの?」
「なんでだろうなあ」
 僕も、自分の枕元で作られたひび割れビー玉を見つめた。
 アキのとは微妙に陰影が違う。今までできたのはみんなそうだ。同じものはひとつもない。
 夜中、枕元でいったい何が起きているのか、誰も知らない。
 父さんも死んだ母さんも、不思議だねえと言っていた。だけど不思議がるだけだった。ずっと起きて確かめてみる、と言ったら「ちゃんと寝なさい」と叱られた。
 僕もアキにはちゃんと寝てろと言ってるけど、去年、それにおととしも、実は一晩中見張ってやろうとした。けれどどっちも強烈な眠気に勝てなくて、不首尾に終わった。
 今年こそは朝まで起きててやる。
 ふだん、この家に来るのはお盆と母の命日だけ。それにいつも一泊二日だから、いままでチャンスは年に二度しかなかった。けれど今回の泊まりは一週間。夜はあと、五回来る。

 スイカを食べたり近くの小川で遊んだり、蝉の声にげんなりしながら持ってきた宿題を片したり。それからもちろんラムネを飲んで、ビー玉を手に入れて。二日目もあっという間に過ぎた。
 かたく決意したにもかかわらず、その晩はしっかり寝入ってしまった。何も見られずに朝が来て、変身しきったビー玉を枕元に見つけた。
 喜ぶ妹。がっくりする僕。
 アキは畳の上に寝そべって、きらきら輝くふたつのビー玉を転がしていた。
「当てて遊んだりはせんようにな。割れやすうなっとるから」
 そう言いながら、祖父はまたラムネの瓶をふたつ持ってきた。アキが笑顔でがばっと起き上がる。
 僕はちょっと心配になった。未就学児童に、三日も続けて炭酸をひと瓶飲ませてしまっていいものだろうか。それでなくともアイスやらスイカやらじゃんじゃん食べさせてもらっているのに。
「アキ、おまえ今日はやめとけ。おなか壊すから」
「やだ!」
 案の定だが全力拒否だ。
「腹痛くなって遊べなくなってもいいのかよ」
「だって、のまないとビーだまとれない」
「ビー玉ならべつにラムネじゃなくても、おもちゃ屋で買えるだろ。たしかちょっと行った先になんかお店あったじゃん」
「ああ、あそこな。春に店じまいしてもうたよ」
 祖父が申し訳なさそうに言った。
「このへんはもう子どももほとんどおらんしな。おじいちゃんが小さい頃は、よそから来たガラス屋さんがいて、ビー玉やらぽっぺんやら扱ってたもんやけど」
「ぽっぺんってなに?」
 アキが目をきょろっとさせて聞いてきた。切り替えが早い。
「あれ、ぽっぺん知らんのアキちゃん。ビードロのことよ」
「?」
「ほんなら見せようか、ええと、どこやったかな……」
 祖父はつぶやきながら奥の部屋に行って、しばらくしてから箱をひとつ持ってきた。
 古そうな洋菓子の箱だった。蓋を開けると、中に入っていたのはきれいな青いビードロ。フラスコの首をうんと細くしたみたいな形の、吹くと音が鳴るガラス細工だ。
 祖父が口にくわえてお手本を見せる。
 ぽぴん、ぽっぺん。涼しげな高い音が、蝉の声に割り入った。
「シャボン玉みたいに、やさしく吹いてな」
 アキはラムネのことをすっかり忘れ、大喜びでビードロを鳴らしはじめた。
 その間に僕はラムネをひと瓶あけて、あとでビー玉をアキに譲ってやった。

 その夜、僕はまた睡魔に勝てず、目的を達せられなかった。
 けれど、奇妙な夢を見た。
 祖父の家のまわりを、僕は歩いている。ぽぴん、ぽっぺん、青いビードロを吹いている。
 突然、後ろから足音が聞こえる。
 ザッザッと草を分ける音。僕は走り出す。ザッザッ。ザッザッ。たくさんの足音が重なる。じーじー、みんみん、蝉の声が耳を刺す。
「それ、くれよ」
 後ろから、まわりから、声がした。
 たくさんの人影に囲まれている。子どもの背の高さ。顔は見えない。
 僕はうつむいて、自分の足元を見る。おかしなことに、そこに僕の足はない。女の子ものの小さな白い靴が見える。アキとおなじくらいの子の足だろうか。
「くれよ」
「くれよ」
 人影たちが言う。僕も口を開く。
「これは」
 言葉は最後まで出ることはなく。
 顔の左側に、衝撃を受けた。左目が、沸騰したみたいに熱くなる。それから──

 ……目覚めると、アキにあげたビー玉はひび割れていて。
 僕の左目の視界にも、亀裂が入っていた。

「だめだよ、おにい。めがねかけたままねたら」
 幼稚園児から叱られた。
 朝までビー玉を見張るつもりで、僕はゆうべ眼鏡をかけて布団にもぐっていた。が、朝になって気がつくと、左側のレンズにひびが入ってしまっていた。
 祖父は心配そうに眉をしかめた。
「眼鏡、ないと困るな。お隣の松本に車出してもろて、街の眼鏡屋まで行っておいで」
 申し訳ないけれど、好意に甘えることにした。僕はかなりの近眼で、眼鏡がないと歩くのもおぼつかない。片目だけならまだ大丈夫とも思ったけど、実際歩いてみたら平衡感覚がとことん狂ってて、ものの見事に柱にぶつかった。

 車を出してくれた松本さんは、お隣に住むおじいさんだ。祖父と同い年で、口数少なめで体が大きくて見た目は少し怖いけど、親切な人。車で三十分かかる町の眼鏡屋まで僕を連れて行ってくれた。
 白い軽トラックの、助手席のサイドボードにビー玉がたくさん入っている。どれもひびが入ったものだ。祖父があげたんだろうか。
 眼鏡が直ったあと、店先で缶コーヒーをおごってもらった。祖父の家ではずっとラムネか麦茶だったので、久々の苦みが美味しい。

 缶コーヒーを手に、松本さんは言った。
「ビー玉、置かんかったんか」
 突然のその話題。びっくりしながら、うなずいた。
 道路を行き交う車をひとしきり眺めたあと、松本さんはまるでひとりごとみたいに、つぶやいた。
「ちゃんと置いとき。つぎは眼鏡で、済まん」
 それきり、松本さんは何も言わなかった。帰りの車の中、ひび割れたビー玉がサイドボードでカラカラと音を立てるのを、僕はずっと聞いていた。 

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