国語の読解問題を解く技術(3) 問いの文の読み取り方
『国語の読解問題を解くために必要な技術(1)』と、『国語の読解問題を解く技術(2)』の続きです。
この稿では、問いの文の読み取り方について述べます。
国語の読解問題を解くときの大前提
1、国語の正解は厳密に1つだけである。
2、国語の唯一の正解とは、問題作成者が本文を解釈して、問題作成者が正解だと決めた解答のことである。
3、国語の問題の作成者は、(1)本文と、(2)問題文の中に、よく読めば必ず正解にたどりつける根拠となる言葉を入れておかないといけない。それを「探し出す」ことが「国語の読解問題を解く」という行為のすべてである。
国語の読解問題を解くときの順序
国語の読解問題を解く人の手順は次のようになります。
(1)本文を読んで、本文の内容を100%受容する。
(2)本文の内容を無条件に受け入れたあと、問いの文を読む。
(3)問いにふくまれている言葉を手がかりに、問いの答えにあたる言葉や文を本文中から探し出す。
(4)問いが要求する条件に合致するように答えを書く。
この稿で取り上げるのは、(3)「問いにふくまれている言葉を手がかりに、問いの答えにあたる言葉や文を本文中から探し出す」、(4)「問いが要求する条件に合致するように答えを書く」、です。
例題:次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」
ちょっと申し上げにくいのですが、このような問いを軽々にロにする人間が人格的に成長する可能性はあまり高くありません。少し考えてみればわかります。
「自分探しの旅」にでかける若者たちはどこへ行くでしょう? ニューヨーク、ロサンゼルスへ。あるいはパリへ、ミラノへ。あるいはバリ島やカルカッタへ。あるいはバグダツドやダルレスサラームへ。どこだっていいんです。自分のことを知っている人間がいないところなら、どこだって。自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。たぶん、そんなふうに考えている。
でも、(1)これはずいぶん奇妙な発想法ですね。
もし、自分がなにものであるかほんとうに知リたいと思ったら、自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか? 外国の、まったく文化的バックグラウンドの違うところで、言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして、その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。
ですから、この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの(2)外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。
二十年も生きてくれば、どんな人でもそれなりの経験の蓄積があリ、その能力や見識について、ある程度の評価は定まってきます。この「自分探し」の方たちは、その評価に不満がある。たぶん、そうだと思います。家庭内や学校や勤め先で、その人自身の言動の積み重ねの結果与えられた「あなたはこういう人ですね」という外部評価に納得がゆかない。自分はもっと高い評価が与えられてしかるべきである。もっと敬意を示されてよいはずだし、もっと愛されてよいはずだし、もっと多くの権力や威信や財貨を享受してよいはずだ。おそらく、そう思う人たちが「自分探しの旅」に出てしまうのです。
「自分探し」というのは、自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます。
自己評価の方が外部評価よりも高い。人間はだいたいそうですから、そのこと自体は別に問題とするには当たりません。その場合に、自分でも納得のゆくくらいの敬意や威信を獲得するように外部評価の好転に努める、というのがふつうの人間的成長の行程であるわけです。でも、中には外部評価を全否定するという暴挙に出る人もいます。「世間のやつらはオレのことをぜんぜんわかっちゃいない」だから、「世間のやつら」が一人もいないところに行って、外部評価をいったんリセットしようというわけです。通俗的な意味で理解されている「自分探しの旅」というのは、どうもそういうもののようです。でも、(3)これはあまりうまくゆきそうもありません。
それは自分の自分に対する評価の方が、他者が自分に下す評価よりも真実である、という前提に根拠がないからです。自分のことは自分がいちばんよく知っているというのは残念ながらほんとうではありません。
(4)「ほんとうの私」というものがもしあるとすれば、それは、共同的な作業を通じて、私が「余人を以て代え難い(よじんをもってかえがたい)」機能を果たしたあとになって、事後的にまわりの人たちから追認されて、はじめてかたちをとるものです。私の唯一無二性は、私が「オレは誰がなんと言おうとユニークな人間だ」と宣言することによってではなく、「あなたの役割は誰によっても代替できない」と他の人たちが証言してくれたことではじめて確かなものになる。
ですから、「自分探し」という行為がほんとうにありうるとしたら、それは「私自身を含むネットワークはどのような構造をもち、その中で私はどのような機能を担っているのか?」という問いのかたちをとるはずです。
内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」より
(1)傍線(1)「これ」が指している一文を文章中から抜き出し、初めと終わりの五字を書きなさい。
(2)傍線(2)「外部評価をリセットする」ことを、別の表現で何と述べていますか。次の文の( )に当てはまる言葉を、文章中から三字で抜き出しなさい。
外部評価を( )する。
(3)傍線(3)「これはあまりうまくゆきそうもありません」とありますが、それはなぜですか。三十五字以内で書きなさい。
(4)傍線(4)「ほんとうの私」について、筆者の考えに合うものを次から一つ選び、記号で答えなさい。
ア 「私はユニークな人間だ」と宣言することによって確立する。
イ 他の人が、私の働きを認めることによって確かなものになる。
ウ 私を知らない人とコミュニケーションをとることで見つかる。
エ まわりの人が「ほんとうの私」を知っていることは少ない。
(5)この文章で筆者が主張しようとしていることとして正しいものを次から一つ選び、記号で答えなさい。
ア 「自分はほんとうはなにものなのか?」という問いを発して、「自分探しの旅」に出ることは、人間の成長にとって重要なことだ。
イ 「自分探し」とは、本来、言葉も文化もまったく異なる所へ旅をして、その結果自分がなにものであるかわかるということだ。
ウ 十分な外部評価を与えられていたとしても、二十年も生きてくれば「自分探しの旅」に出たくなるのが人間というものだ。
エ 「自分探し」があるとしたら、それは、自分を含むネットワークの構造とそこでの自分の働きを問うものであるはずだ。
(問いの文の読み取り方と解答)
国語の問いの文は、必ず2つの部分からできています。
(1)本文中から答えにあたる部分を探すときの手がかり・ヒントを述べた部分
(2)答えの書き方を指示した部分
よく、「問題をよく読め」と言われますが、「よく読め」の内容は以上2つのことに尽きます。
では、解いていきましょう。
(1)傍線(1)「これ」が指している一文を文章中から抜き出し、初めと終わりの五字を書きなさい。
「「これ」が指している一文」が、「本文中から答えにあたる部分を探すときの手がかり・ヒント」にあたります。
まず、指示語の「これ」が指す内容を探すように指示しています。
指示語の指すものですから、通常は指示語の直前にあります(探したらよい場所まで示唆していることになります)。
さらに、答えにあたるものは「一文」です。これもヒントになります。
では、本文の該当部分を見てみましょう。
「自分探し の旅」にでかける若者たちはどこへ行くでしょう? ニューヨーク、ロサンゼルスへ。あるいはパリへ、ミラノへ。あるいはバリ島やカルカッタへ。あるいはバグダツドやダルレスサラームへ。どこだっていいんで す。自分のことを知っている人間がいないところなら、どこだって。自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。たぶん、そんなふうに考えている。
でも、(1)これはずいぶん奇妙な発想法ですね。
さらに本文に、ヒントが明記してあります。
「これ」=「ずいぶん奇妙な発想法」です。
そうすると、答えにあたる部分は、直前の「自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。」だとわかります。
あとは、問いのもう1つの部分、「答えの書き方を指示した部分」に従って、「一文」を(文の冒頭から最後の句点(。)までを)、「抜き出し」て(本文をそのままで)、「初めと終わりの五字」を答えとして書けばよいわけです。
正解は、初めの五字が「自分のこと」、終わりの五字が「かわかる。」です。
問いで特に注記していないときは、句読点も必ず1字として数えます。
(2)傍線(2)「外部評価をリセットする」ことを、別の表現で何と述べていますか。次の文の( )に当てはまる言葉を、文章中から三字で抜き出しなさい。
外部評価を( )する。
「外部評価をリセットする」ことを、「別の表現で」述べている部分を「三字」で「抜き出し」なさいという部分がヒントです。
本文の傍線(2)よりうしろをざっと眺めていって、「外部評価をリセットする」という概念を言い換えている場所を探します。
そうすると、4つ後の段落に、
「でも、中には外部評価を全否定するという暴挙に出る人もいます。」とあるのを見つけることができます。
答えは、外部評価を(全否定)する。です。
(3)傍線(3)「これはあまりうまくゆきそうもありません」とありますが、それはなぜですか。三十五字以内で書きなさい。
「なぜ」が、最大の手がかりです。
理由を述べている部分を探せばよいのです。
傍線(3)の前後を眺めると、すぐうしろに、「 それは自分の自分に対する評価の方が、他者が自分に下す評価よりも真実である、という前提に根拠がないから」と述べている文が見つかります。これが答えです。
あとは、「三十五字以内」という条件に合致するように解答を構成したらよいのです。
「それは自分の自分に対する評価の方が、他者が自分に下す評価よりも真実である、という前提に根拠がないから」をざっと数えると50字です。
指示語や、くどい言葉は国語の解答には不要ですから、それを削ると「自分に対する評価の方が他者が下す評価よりも真実であるという前提に根拠がないから。」となって四十字、意味は変えないままに「自分の評価の方が他者の評価よりも真実であるという前提に根拠がないから。」としたら三十五字。
私なら、これを答えとして書きます。
(4)傍線(4)「ほんとうの私」について、筆者の考えに合うものを次から一つ選び、記号で答えなさい。
ア 「私はユニークな人間だ」と宣言することによって確立する。
イ 他の人が、私の働きを認めることによって確かなものになる。
ウ 私を知らない人とコミュニケーションをとることで見つかる。
エ まわりの人が「ほんとうの私」を知っていることは少ない。
「ほんとうの私」について、「筆者の考えに合うもの」を、(本文を読んでみての漠然とした印象ではなくて)本文中からもう一度探します。
そうすると、傍線(4)のあとに、「事後的にまわりの人たちから追認されて、はじめてかたちをとる」、「他の人たちが証言してくれたことではじめて確かなものになる」とあります。
だから、正解はイです。
(5)この文章で筆者が主張しようとしていることとして正しいものを次から一つ選び、記号で答えなさい。
ア 「自分はほんとうはなにものなのか?」という問いを発して、「自分探しの旅」に出ることは、人間の成長にとって重要なことだ。
イ 「自分探し」とは、本来、言葉も文化もまったく異なる所へ旅をして、その結果自分がなにものであるかわかるということだ。
ウ 十分な外部評価を与えられていたとしても、二十年も生きてくれば「自分探しの旅」に出たくなるのが人間というものだ。
エ 「自分探し」があるとしたら、それは、自分を含むネットワークの構造とそこでの自分の働きを問うものであるはずだ。
「筆者が主張しようとしていること」は、筆者が結論として述べている部分です。
本文の最後、「「自分探し」という行為がほんとうにありうるとしたら、それは「私自身を含むネットワークはどのような構造をもち、その中で私はどのような機能を担っているのか?」という問いのかたちをとる」と、同じ意味のことが書いてある、
エ 「自分探し」があるとしたら、それは、自分を含むネットワークの構造とそこでの自分の働きを問うものであるはずだ。
が正解です。
このように、
国語の問いの文は、必ず2つの部分
(1)本文中から答えにあたる部分を探すときの手がかり・ヒントを述べた部分
(2)答えの書き方を指示した部分
からできています。
問いの文にある「ヒント」を手がかりに本文から答えになる部分を探し、そして、問いの指示に忠実に答えを書けば、必ず正解にたどりつくことができるのが国語です。
俊英塾代表。「塾学(じゅくがく)」「学道(がくどう)」の追究がライフワーク。隔月刊誌『塾ジャーナル』に「永遠に未完の塾学」を執筆中。関西私塾教育連盟理事長。