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【決意とルーツ】母親のハナシ

「限りある人生なんだから、やりたいと思うことに自分の命を使いたい」

小学3年生の時に抱いていたイメージ
強制から解放され、自分を生きるイメージは他の人よりもとても強くあった

・優秀な成績無しでも生きていけることを人生かけて証明したい
・自分が憧れる母親像のお母さんになりたい

葛藤を自分で癒すように追求し、そのままの思いを抱えながら大人になった今がある
ちょっと今回の話は重いかも。。
整理しきってないからまとめづらくて長くなります…

確か4年生の頃、両親が離婚して大好きな父と二人で暮らすようになった。
(あの頃の記憶は辛くてかき消していたので時系列があやふやしているので計算しながら振り返っています…うーん)

今も母とは数年に一度、誰が死んだとか必要にぽつりと連絡を取るだけで離婚以来会っていない。
わたしにとって母親とは、自分らしさを脅かすとても怖い存在だ

母は当時、いわゆるスパルタ教育で、お受験ママ
私を有名大学に入れたかったらしい
小学校も2年生まで隣駅の有名校に特別学区で電車で通っていた。
家に帰ったら宿題と学研のドリル
両親の帰宅後はさらにマンツーでテストの間違い直しと予習復習
2時間は勉強を強いられ、ヒステリックな冷たい言葉攻めにほぼ毎日泣いていた。
3年生になったら東大進学ゼミに入って、益々勉強量は加速、「麒麟」の漢字が書けていた程だった

その成果もあって成績はトップクラス
偏差値はありえないくらい高く、高すぎて間違ってるって思ってて忘れちゃった…笑
でも、それが当たり前で褒められることはなかった。
毎日が辛かったなぁ…
クラスで一番の95点を取り、どんな風に褒められるかとワクワクで帰ったら、なぜその一問を間違えたのか問い詰められて泣いた。
人は80点以下を取ったら死ぬんじゃないかと思っていた私は、クラスで60点だったのにあっけらかんとしていた男の子にビックリして尊敬すらした。

「なんでこんなことも分からないの?まったくあんたは人の3倍やらないと覚えやしない」
悲しくて、毎日毎日泣いていた。
ああ、いま思い出した。筆箱に鉛筆が背の順に入っていないことを怒られたりしたっけな。
母親が求める私になれなくて辛かったし、自分は馬鹿なんだと思った。
そう、私暗記力が人並み以下なんです。
それについては別記事であげるけど、教える方も大変だったろう点は微かに同情する。

で、なんでそんなに毎日勉強が必要なのか、優秀な成績じゃなきゃいけないのかと聞くと
「大人になったらわかる。私に感謝するようになるわよ」
と、言う。
わたしが馬鹿で分からないから教えてもらえないんだと思ってまた泣いて。。

自分が嫌で、生活の中で発作的に胃が痛くなりしゃがみ込む事しばしば。
病院に行くと「神経性胃炎です」と言われた。(今は過敏性腸炎って名前になった。安倍総理と同じ)それでも毎日は変わらない。
ノイローゼ気味で、母親に心配されたくて自宅二階から飛び降りようとした
家出場所を探したり想像することが趣味だったし、何度か家を出ようとした
生きる意味がわからなくて、友人宅のあるマンション8階から飛び降りて自殺しようかとした

あやうい行動しようとする度、踏みとどまったのには父の存在が脳裏に浮かんだからだった

父親は私を庇い、底無しに優しかった。
覚えが悪い私に覚えやすくなる工夫をしてくれ、何にもユーモアをもって接してくれた。
些細なことを大袈裟に褒めてくれ、大好きをたくさん伝えてくれた。
「私が居なくなったら父が悲しむからやめよう」
私を留めてくれたのはそれだけだった

そんな毎日が終わったのは四年生の春、いよいよ父がキレたからだ。
母親に「いい加減にしろ」と倒して抑え込んで、「殴ったわね!」と、抵抗する母と もみくちゃになった。
こう言う時は止めたほうが一般的にいいんだろうか?と固まって眺めていた私…
一方、止める気はさらさらなくて、父に感謝もして、母にいい気味だとすら思う自分もいて…
自分の母親にそんなこと思うなんて、自分はもしかしてとんでもなく冷酷な人で、人間失格なんじゃないか?と振り返るとショックだったね
出て行く母親のバックに、気がつかないくらいゴミみたいな紙切れに「帰ってきて」と書いて入れた。
そうでもしないと怒られるんじゃないかと怯えていたし、でも帰ってきて欲しくないから見つからないくらい小さい紙にしかかけず。。
母は出ていった

離婚に至るまでの家庭裁判所通い、弁護士もいれず父が一人で行った
父はストレスからパニック障害の発作がおこるようになり、過呼吸と動機で満員電車にのれなくなった。
自分が先に死んだら私がどうなるかを思って不安が病状の進行に拍車をかけた。
半年に及ぶ裁判で親権をとり、
暴力をふるった慰謝料で家を売ることになったのを辛そうにわたしに謝った
引越しにも父子家庭だから断られた物件がいくつもあって、父もショックを受けていた。
料理と掃除は母より上手だったのにね。。

母はね、、
私を愛して居なかった訳ではないのだけど、、
私を見ていなかったんじゃないかなと思うのです。
私が好きじゃないキティのキャラクターランドセルを買ってくれたり、突然知らないゲームを買ってきて「こういうの好きでしょ?」と与えられる。微妙に違和感あるズレを日々に感じていた。(キティはずっとこっち見てる感じが気持ち悪くて嫌なのw)
見ていたのは私を通り越した私へ求めるイメージ像で、そこにいる私は透明だった。
「あんたは何考えてるか分からない」と
自分が欲しい返事以外は興味をもって聞こうとしなかったから、そのうち発言しなくなっていったのにね。そうも言えず。

母の笑顔を思い出せない、優しい時もあったんだろう、な?怖いことや、私を知らない違和感ばかり残るけど…
アルバムを振り返ると、笑顔で私を抱きしめる母がいてびっくりする
私と同じ顔、父は育てるにもつらかったこと沢山あっただろうな。。

長々とお話ししましたが、
こんな訳で私は子供の頃から叶えたいイメージが二つあって、
まず、自分の思う母親像を自分が叶えること
子供を1人の人として尊重して、たくさん愛情注ぐお母さんになること。
これは叶っているかな、理想とは言えないにしても。

「子供にはわからないよ」は子供には絶対いわない
勉強も成績を求めるんじゃなく、学ぶ楽しみを伝えたいと思った。
暗記はできなくても学ぶって面白くて、いわゆる勉強ってイメージと全然違うのね
大学でようやくわかるんだけど、もったいなかったなぁ。

で、もう一つが勉強抜きで生きていけることの証明。
母親が、唯一褒めてくれたのは「絵」だったからなんだろうなぁ、まずは絵を描くようになって。中学になって、母性愛をテーマにしたイルカの絵や、血みどろの子供の絵を描いていました

高校の時の絵 畳くらいのサイズ

母親は全身で子供を感じていて、子供は愛おしく母を見つめていると言う…
県大会入選だったかな、なんか賞貰いました

相変わらず賞はとりつづけていたので
勉強しないでも高校も大学もテスト無しで入れて、、ざまみろ、と思ってたね。調子にのってた残念なワタシ… 痛いぜ。
父はすべて「素晴らしい」と褒め称え、
賞状を毎回額に入れてくれて部屋いっぱいに飾りきれないほど沢山に。
父は「俺は地震が来たらこの額に埋れて死ぬんだ」と笑うのがお決まりで。

20歳の頃だったなー、結局母親に認められたいって気持ちに縛られていたことに気が付いたのは。
そうなったら、もう面倒くさくなって描かなくなった。描きまくって満たされたのかね。
今はそんなエネルギーないわw

タイトルの鶏は仕事で書いた年賀状

↓は仕事で描いたんだけど、下書きでボツになった病院の壁画、悔しいからクジラだけ仕上げた。クラゲが気持ち悪いって言われてー
素敵になるイメージだったのになぁ

ちょっと話がずれるけど、、
毎回賞を取るのは、大人が好きな絵、賞とるのがどういう絵かを知っていたのね、私
顔色うかがうトレーニングはばっちりだったから!いま思えば!笑

これは子供らにせがまれて人前で書いたチョーク絵

↑よく出してた笠間稲荷神社の絵馬コンクール
入選したらご飯付きの授賞式、エビフライ食べたくて子供とよく出してた

自分が描きたい絵と言うより、、
誰かを驚きで喜ばす絵を描くのが好きで
そこにはあまり自我がなかったなぁ。。
自分の型がある人に憧れるのだけど、
自分はアーティストではなくて、デザイナーとしての才だなと今も思ってる。

その点は、ありがとうお母さん
今なら笑って会えるかもしれないね、ドラマチックにnoteに書き綴って公開してごめんねー
会いたいとは今も特に思わないのだけど…←
ドンマイ私!会いたくなるまで無理にはいいやと思うことが楽なんで。。

「限りある人生なんだから、やりたいと思うことに自分の命を使いたい」

なんとかやってますよ。死んだように生きてたまるか。早死にしてもいい、死の瞬間の最後まで粘って「生き」延びてやる。

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