雨音を引きずる

私は死んだ。
私は彼を受け入れた時点で死んだのだ。


時は凡そ二時間前に遡る。腕時計は夜の九時を指していた。春の嵐とも言わんばかりの雨の中、私はおぼつかない足取りで歩いていた。二五にまでなると流石に飲み慣れてくると思っていたのだが。傘も持たず、濡れたアスファルトの上に視線を落としながら歩いていると、「お前、日向じゃん」と声をかけられたので、ふと顔を上げると見知った顔の男がにこにこしながら立っていた。その男は元同じサークルの友人、山田であった。髪こそ黒に染められ、濡れていたが、間違いなく彼であった。
「山田じゃん、今日仕事じゃないの?」と私は素朴な疑問を彼へと投げかける。
「うん、今日は友達と飲みしてた。今は彼女んとこ帰る途中。日向は?」
「私も院生同士で飲みしてて。帰るとこなんだけど」
「そうなんだ、気が合うね。それよりも雨凄くない? どこかで雨宿りしない?」
「そうだね、お互い風邪引くのも嫌だしね」
濡れるのもそうだが、さっきまで胃が空になるまで吐いていたこともあり、その提案に乗ることにした。
「僕いいとこ知ってるんだ」と手を引かれて、傘も持たず大雨の中を走った。行き交う人々の目に映る私たちはまるで、逢い引きか夜逃げのカップルにでも見えただろう。
そこは廃ビルの階段の踊り場であった。踊り場は磨りガラスで覆われており、雨音だけが響いている。ポケットから有名な銘柄のタバコを取り出し、
「ごめん、一本だけいいかな」と山田が言うので、私は
「かまわないけど」と返す。ふぅ、と山田の吐いた息が充満し、空間と溶け合っていく。
このまま黙っているのも気まずいと思い、
「彼女とはどうなの?」と切り出してみる。
「いい感じだよ。いつも僕のことを待っててくれる。帰ってくると抱きしめてくれる。キスもハグもそれ以上のことも。時たま喧嘩もするし、拗ねたりもするけどとっても可愛いよ。日向も彼女さんとはどうなの?」
「いつも私の心の支えになってくれるし、彼女の得意な分野とか決めたことをやり通す力は素直に尊敬してる。けど、私は少しだけ、ほんの少しだけハグのみたいな肉体的な繋がりを持ちたいと思う……相手はそれを望んでないけど……」山田は覗き込むように私の顔を見た。彼には私が愛に飢えた幼子のように見えたのだろう。真剣な面持ちで
「僕でよければ」と腕を掴み、身体を引き寄せられた。『さみしい、あいしてほしい』といつものように少女の声がして、気づけば身体を寄せあっていた。
「日向って可愛いよな」と耳元で誘惑するように囁いた。タバコの余韻がまだ残っていた。
「さてはお前、酔ってるな?」と冗談を言う。
「そう、酔ってる」と山田は人懐っこく返す。
「酒にも空気にも」
「「自分にも酔ってる」」と大声で笑いあった。
「でも」と山田は続ける。
「可愛いと思う」と目を向ける。
「そんなことないよ。今だってメイクぐちゃぐちゃだし」
「それでも、だよ。可愛いと思うけど」と強く抱きしめられる。力の差を思い知る。女は男に勝てない、と。恐怖が一瞬頭の中をよぎる。
「愛おしくなってきちゃった。揉んでいい?」
「いいよ」できるだけ素っ気なく、でも優しく答える。おそらく、声は震えていた。私の身体に手を重ねる。指が突起に触れる。
「声、出してもいいんだよ?」と囁かれる。私は吐息を漏らす。
「キスしていい?」
「ディープはしたことないからできない」そっと唇を重ねる。山田の唇に紅が移る。誰も知らない。知っているのは磨りガラスに打ち付ける雨音だけ。
山田が身体をまた重ねようとした瞬間――スマートフォンの着信音がした。どうやら山田の彼女の方らしかった。山田は先程の甘い声で楽しそうに話している。
「雨すごくて雨宿りしてて」とか「もうすぐ帰るから待ってて」と声が聞こえてくる。まるで場違いと言わんばかりの壁がそこにはあった。電話が終わって山田が発したのは言い訳じみた
「ごめん、僕、彼女が迎えに来るってきかなくって。先帰るね」だった。廃ビルに響く靴音を聞きながら、自分の濡れた服に顔を埋める。
私は一人、取り残された。彼女からの着信があったが、気付かないふりをした。代わりにカバンからはポーチを取りだした。中に入っているぬいぐるみをそっと撫で、
「ごめんね、嫌なもの見せちゃったね。私はそんなことしないからね」と言い、虚ろな目で別ポケットに入っているカッターナイフを取りだした。
「身体が、血塗れになって、分断されてしまえばいいのに」
呟いた一言が埃っぽい階段にこだまする。 顔を歪めながらカッターナイフを身体に突き立てようとした。が、電池切れの機械のように手をぶらりと下ろしてしまった。
代わりに、いつも通りのように左脚をカッターナイフで切った。血がじわじわと滲んでくる。粘着質な液体と赤が混ざりあって床にぽたぽたと滴っている。タイルに絵の具を刻む、私が死んだことを。
今でも雨音に赤を引きずっている。

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