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2月21日 女性プロゲーマー「たぬかな」騒動で思ったこと

 まず概要から。

 人気プロゲーマーたぬかなが2022年2月15日、配信中に身長170センチ以下の男性には「人権がない」なとど発言したことによって批判が相次いだ。この騒動により、プロeスポーツチーム「CYCLOPS athlete gaming」は同月17日、たぬかなを契約解除したことを発表した。

 ……この件、スルーしようかと思ったけどね。
 まあ3人くらいしか見ていないブログでなら、取り上げても問題にならないでしょう。

 まずたぬかなの発言だけど、私は普段から「表現の自由を奪うな」という言い方をするのだけど、これは絶対にダメ。なぜならただの罵倒だから。「人権がない」というのは人を罵倒する表現として最低の言い回し。「170センチ以下の男だから人権はない」……なんて話は奴隷制の時代の人もビックリするはずだ。それくらい人権を軽視する、トンデモ発言。
 ゲーム界隈では日常語のように使われているから良いんだ――という意見はあるが、私はそんな言葉など聞いたことがないし、「ゲーム界隈で使われているから使っていい」、なんていう理屈はどこの社会でも通用しない。今回の一件の場合、「人権がない」という言葉は「ゲームキャラクター」に対して言ったのではなく、現実世界の特定の人種を指して言ったのだから、擁護の余地は一切ない。そもそも、そんな言葉が日常的に使われている……ということ自体、その界隈が異常だ、という認識を持たなくてはならない。

 この一件を聞いて考えていたのは……一部のゲーマーの精神が幼稚だということ。
 もちろん、「すべての」というつもりはない。“一部”のゲーマーが……という話。それも前から考えていたことで、今回の一件で改めて、つくづくと考えさせられた。
 ネット掲示板の世界には「ゲハ論争」というものがある。「ゲーム・ハード論争」を略したものだ。
 どのゲームハードが優秀か、そのゲームハードを所有しているかどうかで人間として上か下か……という不毛な言い争いをするコミュニティである。
 こんな世にもしょーもないことでケンカをし続けているのだけど、その罵倒の仕方がまあひどい。ありとあらゆる罵倒語がそのコミュニティのなかで創造され、お互いを罵り合い続けていた。ネット上の罵倒語の一部は、間違いなくそのコミュニティから生まれたものだ。

 私はよく「表現の自由が」という話をするが、罵倒語を創造するという試みに関しては「NO」だ。意味がない。意味がないし、それこそ言語観が崩れる。こういうところで創造した言葉を世に広めてもならない。そういった言葉は、「表現の自由」で守る必要はない。

 まず、そもそも本当のゲーマーなら「全ての現行ゲーム機を所有しているのが当たり前」だ。少なくとも、私の時代ではそうだったんだ。私だってセガサターンとプレイステーションとNintendo64持ってたよ。その以前はメガドライブとPCエンジンとスーパーファミコンを所有していた。その後はずっと貧乏が続いたので、なかなかゲームハードが買えない……という状況になっちゃったけれども。金があったら、現行ゲームハードは全部買うよ、絶対。
(最近は貧乏が行きすぎて、ソフトも買えなくなってしまった)
 私から言わせれば「ゲハ」コミュニティにいる人達は本当のゲーマーではない。全員まとめて半端者だ。ああいったものが今の時代「ゲーマー」を名乗っていることに、現代の歪さを感じた。
 嫌な物を見たなぁとすぐにあの界隈から離れて、「見なかった」ことにした。

 またそもそもの話……という話で始めるのだけど、所有しているもので人間の価値が変わったり決まったりすることはない。なぜなら所詮は「消費者」だから。「作り手」や「生産者」なら別だよ。生産者ならより良い物を作ったのなら、それは誇りに思っていい。作った物が大ヒットしらなら、それは誇りに思っていい。
 でもそれを所有したことでステータスが上がるとか、そういうことはない。所詮は消費者に過ぎないから。つまり「お前の価値が上がったわけではない」。持っているものがよくなっただけで、あなた自身は変わってない。それだけは勘違いしてはならない。
 でも消費者は勘違いを続ける。最新のファッションや、最新のスマートフォンや、最新の流行を消費しただけで、なにやら自分がとてつもなく進んだ存在になったと勘違いする。でもそれはただの勘違いだ。何も変わってない。
 ネットでよく挙げられる話で、「ユニクロを着ているような男は相手をするな」「デートにユニクロを着てきたら、その時点で帰ってもいい」みたいなネットニュースが毎年どこかで挙げられる。
 別にユニクロでもなんでもいいじゃん。何がいけない。何を着ようが、どこで何を食おうが、問題はないはずだ。そういうネットニュースでブランド物を買わせようという魂胆が見え見えだし、そういうアオリに乗るような人こそ間抜けだ。
 むしろユニクロの服を着ていた……というだけでいきなり帰っちゃうような女の子が実際にいたら、軽蔑する(まさか本当にやる子はいないと信じているけど。その女の子の「人間性」を見るのにはいいかもね)。

 ただし、私は道具はそれなりに良いものを選んで買う。そこそこ高いものを買う。ステータスを上げたいから? ……ではない。自分の能力が低いという自覚があるからだ。
 本当に能力の高い人間は道具を選ばない。昔から「弘法筆を選ばず」という言葉があるが、本当に能力の高い人は、どこにでもある安い道具で優れたものを作り出す。例えば映画監督の宮崎駿は可能な限り現代的なテクノロジーに頼らず、鉛筆一本であの素晴らしい世界観を描き出す。あれこそ本当に「ステータスが高い人間」だといえる。
 海外のイラストレーターのジョン・ハウとアラン・リーの絵を描いている姿を追ったビデオを見て、私が何に驚いたかというと、使っている鉛筆が100円の安物だったことだ(日本の文房具店で買えるものだった)。あの鉛筆一本であそこまで素晴らしい絵が描けるものなのか……と感心した。あれは私にはできない。
 私の場合は、今のデジタル環境を失うと、絵なんて1枚も描けなくなる。それくらい能力が低いことを自覚しているから、道具にはお金を掛ける。
 つまり、私のように高級な道具に頼って絵を描いているような人間は、実は永久にステータスの低い人間であると言える。
 本当にステータスを上げるということは、肉体を鍛えること、技を鍛えること、そういうところからでしか獲得することができない。最新のなんだかわからない機械を手にしてステータスが上がった……ように感じた、というならそれはただの錯覚。勘違いだ。
 ステータスは金で得られるものではない。鍛えることによってのみ得られるものだ。

 もしも服や靴にお金を掛けることがあったとしても、私の場合、「最新の流行」ではなく、より「丈夫」であることを重視する。あるいは「機能性」。丈夫さと機能性という要件がなく、ただデザインが良いだけのモノにはお金を掛ける気はない。
 ちょっと前まで、私は工場勤務で、働き始めた最初は2000円の靴を履いていたが、すぐに穴が開くし、履いていてやたらと疲れる。間もなく1万円の靴に買えたのだが、やっぱり明らかに違っていた。丈夫だし履き心地がいい。こういうところでのお金は惜しむべきではない……と学んだ瞬間だった。

 私は最新の流行には興味がない人間だから、いきなり10年前、20年前の映画を観たりするし、50年前の映画を観たりもする。50年前の映画には何もないのか……というとそうではない。新しい発見はいくらでもある。むしろ50年前の映画の中に、とんでもない表現を発見したりもする。
 例えば『座頭市』シリーズの勝新太郎は、目を完全に閉じたまま殺陣をやっていた。『座頭市』はその後も別の俳優でリメイクされたが、勝新太郎ほどのキレはないし、なによりカット割りをやり過ぎ。勝新太郎は目を閉じたまま、ノーカットで殺陣を演じてみせた。あんな神業は、今のどんな俳優でもマネできない。そういうものはいつの時代で見ても素晴らしいものだし、そういう作品を見て学ぶ物は一杯ある。
 それに、古い映画の感想文記事は、案外閲覧数が多かったりする。古いから需要がゼロ……というわけではないのだ。

 最新の映画だけが素晴らしいわけではない。時に過去の映画に遡って、現代の映画がどのような文脈の上にあるか、それを知らなければ、映画の全てを楽しみきれるわけではない。私は何度も「遊ぶにも教養が必要」と語ってきている。
 最新の映画だけを観て、最新の流行に乗った、という優越感を持つのは間抜けな人の感想。それは映画を理解したとは言えない。ただ目の前を通り過ぎただけ。

 ではどうして人は持っているもので自分のステータスが上がったように勘違いをするのか? なぜ持っているもので人間の価値が計れると思い込むのか? そこを考えていこう。
 おそらく原因は「不安」ではないか。人は不安を感じているから、少しでも安心を得たいために行動をする。恋愛でよりよい伴侶を求めるのも、安心を得たいからの本能的な行動だ。不安を感じているから、失敗した人を見て、指をさして笑う。
 自分は最新の流行の中にいるという安心……。自分の周りにはたくさんの人がいる……ああ、安心だ。自分はコミュニティから外されていない。どこからも取り残されていない……ああ安心だ。流行から遅れているやつがいる……あいつは惨めだ。コミュニティから外されて、孤立していく、なんと哀れなんだろう……。
 と、最先端にいる人達の内面はこう思っているのではないだろうか。
 結局のところ、コミュニティから置いて行かれて、孤立する不安から、最新の物を追いかける。高級なものを身にまとい、自分を大きく見せたいと思う。その一方で遅れている人を見ると、安心するという気持ちから、嘲るという行動に出る。

 いきなり猫のお話をするが、私はとある猫ボランティアの動画を見ている。これがいい動画で、この動画の中にはある2匹の猫が登場する。
 この2匹の猫は元は「ボス猫」で、野良だった頃はたくさんの配下を従える武闘派で、道で顔を合わせる度にナワバリをめぐって殴り合いのケンカをやっていた。
 ところがこの2匹の猫は、間もなくそろって病気を患ってしまう。そこで猫ボランティアの人に引き取られて治療を受けることになる。しかも相部屋だ。すると野良だった頃はあれだけケンカしていた2匹は、同じ部屋で仲良くし始めたのだ。
 なぜそうなったかというと「不安」が取り除かれたから。野良だった頃は、ナワバリを取られたらいつか自分はエサを確保できなくて死んでしまうかも知れない……という不安を抱えていた。でも今は「飼い主」がいて、治療してもらえるし好きなだけ食べ物を与えてくれる。もうケンカをして、ナワバリを主張しなくてもいい……。そういう状況になると、「争う」理由がなくなってしまった。
 2匹のボス猫は自分たちがもう争う理由がないことを理解すると、すぐに仲良く猫団子を作り始めた。猫たちは自分たちの置かれた状況を理解するだけの知能を持っていることがわかる。

 人間は常にあらゆるものから不安を感じている。今の仕事が明日も続くのか、収入はずっと続くのか、病気になったりしないだろうか……。そういった不安を常に感じ続けている。おそらくは、知能が高すぎるがゆえだ。
 多くの人が特に不安を感じやすいのは、コミュニティから外されること。コミュニティから外され、孤立すること。村八分がもっとも怖い。
 最新の流行を追いかけて、最新のガジェットを手に入れたがる理由は、コミュニティから外されるかもしれない、という不安があるからだ。最新の流行を追い、最新のガジェットを手にしていたら、少なくとも周りの人はそれを持っている人を注目する。「それどんな感じだ」「俺にも見せてくれ」とチヤホヤしてくれるだろう。そうやってチヤホヤされているうちはコミュティから外される心配がない。そういう安心感を求めて、最新の流行を追いかけたがるのだ。

 ゲームやアニメ界隈の人達は、特にこういう不安を感じやすいタイプが多い。なぜならそもそも中心的なコミュティから外された人達が、ゲームやアニメに夢中になるからだ。
 この話は長くなるので省略するが、物語を求める人、というのは何かしらの精神的な欠損を抱えている人だ。現実で何かが得られない、周りから自分を理解されない、なんとなく孤立している……そういう不安感を持つ人ほど虚構を求める。なぜなら、虚構の中に「自分の物語」を見出すからだ。そこから、人は「欠損を抱えている自分」という問題から自立しようとする。それが物語本来の役割だ。
 ほとんどのアニメやゲームが描いているものは「アイデンティティの獲得」。何かしら孤独を抱えている主人公が、アイデンティティを取り戻そうと奮闘する……そういう物語を接しているうちに読者も同じように自立が促されていく。人はそういうものを得たいと思って、意識的にあるいは無意識的にアニメやゲームを見たいと思うようになる。
 『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ読者が、「どうして僕のことがわかったの?」と言い始めるのはこういうことだ。人は「僕の内面を言い当ててくれた」と思える物語にこそのめり込む。そういうものを求めて人は物語を読む。やたらとアニメを見るようになる人は、大抵なにかしらの悩みを抱えている人だ。

 だから、いわゆる「リア充」と呼ばれる人達はアニメやゲームなどに一切興味を持たない。なぜなら彼らはそういう精神的な欠損を認識することがないからだ。
 ただし、もちろんリア充と呼ばれる人達が人間社会における不安から完全に解放されているか……というとそんなわけはない。不安を感じているから、リア充はアニメ・ゲーム界隈にいる人達を見下す。なぜならアニメやゲーム界隈に“陥った”人達は、中心的なコミュニティから転落していった人だ……と理解しているからだ。リア充も、リア充であろうとすることに必死なのだ。
 人はどこまでいっても真に「安心」を獲得することができない。いつか旧約聖書に書かれたエデンにでも戻らない限り。
 猫ボランティアに保護された猫は安心してケンカもしなくなるが、人間はどこにいっても真の安寧を獲得することができないのだ。

 話はようやくゲームに戻ってくるが、まずそもそもアニメ、ゲーム界隈にやってくる人達はいわゆる「普通の人々」と比較してより何かしらの精神的な欠損・コンプレックスを抱えている。自分のことを誰も理解してくれない。周りからなんとなく孤立している。友達がいない。親(大人)が自分を守ってくれない。社会の中に居場所がない……。そういう人がアニメやゲームに夢中になっていく。
 そうした中で、ゲームに特別な価値を見出していく人々も生まれてくる。自分の価値はそのゲームの中にしかない。そのゲームを喪うと、自分から価値が喪う。ゲームが上手い自分、というのが全てだから……。
 そういう人達が、特定のゲームの中に自身のアイデンティティを依存させ、執着し、それに反する人を仮想敵とみなして攻撃を始める。これが「ゲハ論争」コミュニティの人々だ。
 なぜ攻撃する必要があるのかというと、攻撃することによって「自分は彼らは違う」と、より自分自身を浮かび上がらせることができる。アイデンティティが希薄な人間だからこそ、自分自身を克明にしたいという願望を持つ。なぜゲハ論争なんぞやるのかというと、実は「相手が憎い」からではなく、そうすることで自分の存在を克明にするためだ。自分のために攻撃をやっているのだ。(だからある意味で、「罵倒している相手」はこの世に存在しているという認識がない。ゲームの敵キャラみたいに認識している)(あとネットで右翼やっている人もだいたい動機がこれ)
 一部のゲーマーが幼稚……というのは、こういう意識に陥ってしまう人々がそれなりにいるから。つまり現実世界でアイデンティティの確立に失敗した人々だ。アイデンティティの確立に失敗し、猛烈なコンプレックスを持っているからこそ、そこに価値を見出す。しかしその手法ではただ「価値にしがみつく」だけであって、精神的な成長は望めない。そういった人達が、ゲーム界隈に結構な人数でいる……という事実がある。
 ゲーマーの中によくある意見だけど、最近はマルチプレイが盛んになっているが「任天堂のゲームプレイヤーはみんな子供でヘタだから来るな」……という意見。どうしてこういう考え方が出てくるのかというと、「ゲームが上手い自分」というところにしか自身の価値がないからだ。翻ってみると猛烈なコンプレックスから出てきた発想だということが見えてくる。
 件のたぬなかの発言の中に「私よりゲームが下手なくせに」というものがある。これも「ゲームが上手い自分」だけに強烈な価値を持っていて、その逆に言うとそれ以外の自身に価値がない、という自覚がどこかしらにあるからだ。猛烈なコンプレックスからでた発言だということが見えてくる。

 私から言わせてもらえば、「ゲームが上手いから、なに?」って感じ。所詮は「消費者」同士の中での話でしかない。井の中の蛙だ。井戸の中でボスになっていい気になっているだけ。まずそこから出て広い世間を見なさい……って話だ。
 それどころか、ゲームが上手いかどうかなんて、最下層の張り合いだ。みっともない。お前達は「作り手」というお釈迦の掌の上で踊っているだけに過ぎない。
 こういった件にかかわらず、ゲーマーの発言には、一般社会では一切通用しない思考の持ち主が多い。例えば「ゲームは難易度が高ければ高いほどいい」という意見。そんなゲームで遊べるのは若いうちだけ。年を取ると、難易度の高いゲームはしんどいだけ。それに、ゲームプレイヤーの99%はもうちょっとゆるめの難易度がいいと思っている。でも難易度の高さだけを追い求めるゲーマーは、自分の半径10センチくらいしか周囲が見えていない。だから、こういう意見が絶対的なものだと思い込む。

 私は最先端の流行のほとんどに興味がない。いま世の中で何が流行っているか……全然興味がない。勉強しなくてはならないものはたくさんあるのに、アイドルや芸人が何をしたかなんて、頭に入れるのは時間の無駄だ。映画とゲームは最先端のものに興味はあるけれど、それを追いかけ続けたりはしない。気が向いたら、古い映画も観るし古いゲームで遊ぶこともある。友達は1人もいない。完全に孤独だ。ずっと孤独だから、もう孤独であることに気にならなくもなっている。こうやってブログを書いているけれども、読んでいるのは相変わらず3人くらい。これを読んでいるのはたぶん1~2人くらいだろう。
 でも私はそれでもいいや、と思って書いてる。流行なんてどうでもいい。ただし質の良いものは欲しい。それは「自分のステータスを上げたい」という理由ではなく、より良いものを作りたいから、良い道具は常に揃えておきたいという理由だ。
 こういう考え方なのは、たぶん私が「消費者」マインドではなく「作り手」マインドだから。アニメに対する興味も、ゲームに対する興味も、最初から作り手マインドだった。だから見ているアニメや好きなアニメで格差なんか作ったりもしない。そういう発想自体、そもそもなかった。
 最先端の物を追いかけ、最先端に振り回されている人は早くこっちに来れば良いのに……とか思う。最先端の物を買ったところで、所詮は「消費者」でしかないんだから。むしろそれが一番哀れだ……ということに気付ける。

 という話も、読者が3人くらいの中だからこそできること。もっと読者が多いところでやったら、騒がれるだろうから。騒がれることは望んでいない。
 件のたぬなかという人に言いたいことがあるとしたら、「普通の社会に出て、普通の人としての常識を身につけなさい」ってところかな。「人権がない」なんて言葉を日常的に使っている界隈が異常だ……ということに気付かなければならない。普通の社会に出たら、そんなこと誰も言っていないし、もし言ったら周りの人達は険しい顔をするはずだ。おかしな界隈に浸かりすぎていて、そういう当たり前の常識感を喪っている。そういう人間が、何かしらの代表に選ばれてはならない。実力があったとしてもだ。まず世の中の当たり前の感覚を身につけること。
 こんなところで書いても、届かない声だけど。
 今回の件でたぬなかを擁護する声もわりとあったそうだ。「人権がない」という言葉は、界隈では普通の言葉だから問題はない……という擁護もあったそうだが、ということはそれだけプロゲーマーの世界は歪、かつ幼稚な世界だ……ということを露呈させてしまったということだ。
 昨今はeスポーツだのプロゲーマーだのともてはやされているが、そもそもそこにいる人間の社会性はどうなんだ。彼らは本当に常識感のある大人なのか。まだメディアで持ち上げるような時期ではないのではないか。ヘンに持ち上げて、彼らを勘違いさせてはならないのではないか。たぬなか発言から、見えてきたのはプロゲーマーの人間性であったように思える。
 eスポーツはまだ「早すぎた」文化なのかもしれない。


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