宝石の国_OP__4_

2017年冬期アニメ感想 宝石の国

 第1話を見て、参ってしまった。
 「宝石」を主人公にする、という大胆なアイデア。宝石が主人公という特異さをきちんと映像にしてみせた技術力。その宝石達が見せていくドラマ。どれも今まで見たどのアニメにも似ていない。あまりにも見事な独自性。美しい映像。映像に関しては、テレビアニメ史上、もっとも美しい作品の1つに挙げるべき映像だ。

 いったいどうすれば、ああいった世界観に行き着くことができるのだろうか。市川春子には根掘り葉掘り聞きたくなる。
 作品を漠然とした印象で見ると……主人公達は宝石だから“死”がない。死がないから、空から仏様が迎えに来ている……という感じだろうか。それで、その仏様に対して、宝石達を守り、指揮しているのが日本の僧侶風の男。仏様とお坊さんが戦う話……と要約するとなんとも不思議な世界観に思えてしまう。
 世界観の背景にあるのは間違いなく仏教のイメージだが、宝石を主人公にして、そこに仏教世界観をぶつけようという発想によくぞ行けたな……と感心するしかない。
 それで、空からやってくる仏様というのが俗っぽい。第1話で、砕いた宝石に頬ずりする場面があったが、あれを見てぞっとしてしまった。ぜんぜん性的なものがなく、宝石をただ物扱いする気持ち悪さ。どうやらあの仏様(月人)はもともと人間であったものらしい……と聞くと納得はするけど、あの描写で月人達への印象が固まった。
宝石の国 俗っぽい月人たちに対して、宝石達は質素な暮らしをしている。衣装はみんな同じだし、拠点にしている《学校》は装飾を徹底的に排除している。簡素なアーチの柱がずらりと並ぶ建築はなんともいえないモダンな美しさ。学校の場面はよくロングサイズで描かれるが、この描き方がいい。建築物のスケールがわかるし、美しいし、その中で煌めく宝石達というバランスもいい。
 煌びやかな装飾を身にまとって空からやってくる月人と、装飾を廃した質素さの中で生きている宝石達――というやはり不思議な対立のさせ方。どの構図を区切っても、ただただ感心するしかない。

 今時、ありとあらゆるものが擬人化して描かれる。擬人化できぬものなど、はっきりいえばない。ベース・テンプレートとしての“美少女”はすでにあるのだから、そこに様々なモチーフをちょちょいっと載せれば「一丁上がり」である。
 しかし、私はこの手法に対してずっと批判的な立場でいる。『艦これ』も認めていない。「擬人化美少女」は簡単に作れるけど、作ることはお薦めしていない。やめておけ、という立場だ。理由はすでに何度も書いてきたことの繰り返しになるが、「独創性に欠けるから」だ。擬人化キャラには世界観と個性が欠落する。ほとんどがアニメや漫画でありがちな台詞や仕草をただなぞるだけ。いわゆる“萌え台詞”をキャラクターを変えてなぞるだけ。台詞の中に題材にしたモチーフを代入すればいかにもオリジナルを作りました、みたいな雰囲気になるが……本質的にはなにも創造していない。同じものを量産しただけだ。そこに新しいものは何も生まれないからやめておけ――というのが私のずっとある立場だ。
 では何が大事なのかといえば《世界観》と《物語》。この2つを欠落したまんまキャラクターだけ創造しても何も生まれない。
 『宝石の国』も今時よくある「擬人化もの」の1つといえばその通りだが、『宝石の国』が特別であるのは、キャラクターを生み出しただけではなく、そのキャラクターを包括する《物語》《世界観》をきちんと創造したから。特に《物語》は先頭に立っていなければならない部分だが、『宝石の国』はこここそ、一番の見所であった。

宝石の国 まず第1に、水銀シンシャに人格を与えたことだ。水銀に人格を与えたら、敵役になるか、苦悩するキャラクターになるかのどちらかだ。この作品は「敵役」という安易な答えを避けた。「この作者はずいぶん意地の悪いことを思い付くな」とは思った。水銀が人格を持ったら苦悩するしかないが、しかし物語としては面白いドラマが生まれる。
宝石の国 ダイヤとボルツの関係性も面白い。美しさ、硬度ともにほぼ最強であるはずなのに、その上位互換的ボルツがいるためにコンプレックスを持つダイヤ。この関係性も面白い。女性的な輝きを放つダイヤに対して、徹頭徹尾機能的な美のみで描かれるボルツ、というキャラクターの描き分けも面白い。
 第2話でうんこ王ことウェントリコススが投入され、物語に大きなうねりが生まれる。この展開の早さ、捻り方もいい。第2話で最初に提示した世界観に動きが生まれるのだ(第3話から……という作品は多いし、「キャラが死ぬ」というのはもはや意外性を持ったツイストですらない)。


 『宝石の国』は制作がスタートしてから1年間、ひたすらテストバージョンが重ねられ、いかにすればこの作品にとって相応しい表現になるか模索が続き、その模索の結果が最終的に私たちが見ている作品となっている。
 基本的には手書きでキャラクターが描かれ、その手書きを元にCGキャラクターを作り上げる。ここで問題となるのが質感。『宝石の国』のキャラクターたちは人間ではなく宝石だ。その手法、技術の選別には相当時間をかけたようだ。
 ただ、『宝石の国』は作品が特殊であるために、CG制作が有利に働く場面がいくつかあったように思える。その一つが、宝石達は基本、体は全員一緒、ということだ。違うのは頭部のみ。頭部が決定すれば、キャラクターは完成したといってもいい(その頭部が恐ろしく大変だったようだが)。
宝石の国 もう1つが、舞台が「学校」とその周辺しかない……ということ。もしもこれが「冒険物語」だったら用意しなければならないアセットが大量に出てくる。しかし『宝石の国』の場合、「学校」とその周辺のみを用意すればいい。
 学校は無機質な石の柱がずっと奥まで林立する……という構造美を押し出した建築だが、これをCGで構築する利点はあったはずだ。どこまでも続く柱の列を正確なパースで描けるし、シンプルな構造だからCGでも描きやすい。(もっとも、その学校とキャラクターを用意するだけで1年かかったわけだが)
 もちろん、『宝石の国』にはCGならでは、CGだからこその部分もたくさんある。キャラクターが宝石であるということ。頭部が宝石で、宝石の煌めきが肩に落ちている。この表現・質感は手書きでは絶対に実現できない。この一点を見ても、『宝石の国』はCGで描く意義があったと言ってもいい。
 また主人公達は宝石であるので、CG特有の線の固さも「宝石だからOK」ということになる。
 今までのCGアニメ……『蒼き鋼のアルペジオ』『亜人』『ブブキ・ブランキ』『正解するカド』『RWBY』……テレビで制作され公開されてきたCGアニメは、「CGだからこんなものか」「CGにしてはよくできていた」という感じだった。手書きのアニメを不器用に真似しているだけ。どちらかといえば「実験的」なものだったし、ある種の「過程」という感じだった。手書きの表現を絶対に越えることはない――そういう見なしで来ていたように思える。
 しかし『宝石の国』は表現、技法において初めて手書きと並んだといえる作品である。「宝石」というモチーフのキャラクターはCGでなければ絶対に表現できないものだったし、カメラの動きを含めたキャラアクション、アニメーションの流麗さというところを見ても、手書きのアニメがごまかしていた部分、逃げていた部分にも真っ正面から取り組み、きちんと描いてみせた。そして何よりも、エモーショナルであったこと。CGのキャラクターが動き、演じてみせたものに、観る側の感情を揺り動かしたこと。CGキャラクターに感動する――というところまで『宝石の国』は引っ張りあげてみせた。(「物語に感動する」ではなく「キャラクターの動きに感動する」という意味)
 『宝石の国』のCGは「手書きを劣化させた物」ではない。単にクオリティを上げて手書きと区別できなくする……というだけではなくそれ以上のこと、手書きでは表現できない領域を見せてくれた。手書きを越えたCGアニメ。『宝石の国』でCGアニメの新時代が開けた――そういう記念碑的な作品になった。

 技術的にも素晴らしい一歩を見せてくれた『宝石の国』だが、本当に素晴らしいのはやはり「物語」だ。毎話毎話、思わぬ方向へと、物語が展開していく。今まで見たことのないキャラクターで、今まで見たことのない物語を描いている。擬人化キャラクター、CGキャラクターはこの作品の「核」ではなく、「物語」こそがこの作品において、もっとも強烈なインパクトを持った核である。
 この「物語が動く」という感じが大事だ。物語の最初の段階より、明らかに状況が変化、キャラクターの立場であるとか、「状況」が変わっている。視点が変わっている。そういった動きがはっきりと描かれている。
宝石の国 基本的には主人公であるフォスフォフィライトが変わっていく物語だ。物語の初期ではただの役立たず。すぐに割れるのに月人から狙われやすい。戦闘には向いてないし、知識もなく、しかし態度だけは大きく調子に乗りやすい。一言でまとめると「面白いやつ」だった。
宝石の国 それが肉体を失い、新たな肉体を得るごとにその性質を変化させていく。海の住人の言葉がわかるようになり、次に貝(クオーツ)を足に付けて俊足へ、最後には合金の腕を得て戦士に変わる。フォスはその度に、体とともに誰かを失うという経験をしている。失って、新たな体を得る、という過程とターニングポイントを常に被せている。これで物語として動きを感じさせるし、人格の変化にも納得感がある。
宝石の国 そしていつもこの瞬間にこそ、もっともエモーショナルなクライマックスが重なる。貝に取り込まれ、その後再生に至るまでの物語。その貝ことウェントリコススとの別れ。極めつけはアンタークチサイトの別れ。特にアンタークチサイトとの別れの場面は、『宝石の国』の中でももっとも感動的な場面であり、アニメーション的にも力の入った場面でもある。フォスに何かしらの変化が起きる度に起きる「感動」に明らかに階層があり、その最大の場面にアンタークを置いている。

 物語とは、何かしら「変化」の過程、あるいはその瞬間を描くものである。また物語とは何かしらの「秘密」を解き明かす物である。物語にはいくつもの形があるが、モチーフを削り落とすと実はそこまで多様でもなく、簡単に類型化させられる。だからこそ、「変化」にしてもどんな状態の物をどのように変化させるか、が課題になるし、「秘密の解明」にしても解き明かされる物にどんな驚きがあるか、が課題になる。
 「変化」の物語は、要するに「ダメ人間が成功者」に変わる物語とか「悪人が正義」に変わる物語」とか。
 「解明」の物語は、「犯人は誰か」とか、SFであると「世界」そのものの秘密を解き明かす物語になりやすい。
 『宝石の国』の場合は「宝石」のモチーフを使いながら、「変化」と「解明」の物語を描いている。役立たずフォスがいかに変化していくか。どんな体験をして心が変わり、強くなっていくか。
 「解明」の物語は、「宝石が人格を持つ世界」という不思議そのものに切り込んでいく。「宝石」「月人」とはどんな関係を持っているのか、最初に理由なく提示してきた「?」に踏み込み、答えを見付け出していく。
 こう見ていくと、ある意味でSF的だ。フォスの身体的変化は、SF的に読み解くとサイボーグのようなもの……という見方もできる。足を失って、その代わりに強力な義足を手に入れるような感じだ。もちろん、『宝石の国』は従来のSFでは絶対に辿り着けないようなものを描いてしまっている。
 月人とは何者なのか……という秘密を追い求める物語も、世界そのものの秘密に迫ろうとするSFに近いような印象がある。
 しかしSFでは絶対に描けない。よくある「擬人化もの」でも『宝石の国』には辿り着けない。なぜなら『宝石の国』は主人公達が宝石であるからだ。「主人公は宝石である」という性質を最大まで利用しているし、宝石という特異さが作品を特別な物にしている。しかもその物語にきちんと人を惹き付ける、「感動できる」物語になっている。

 『宝石の国』はあまりにも個性的、独自的で誰も真似できない世界を作り上げた。完全に孤立した物語だ。この作品は10年後、20年後の人達も感動させるだろう。時代を選ばないタイプの作品だ。
 物語や表現として孤立している一方で、技術という面では新たな局面を作り上げた作品だ。『宝石の国』を切っ掛けに、CGアニメは変わっていくだろう。もちろん、「CGアニメの見方」を含めて。観る側だけではなく、作る側にとっても、CGアニメに対する意識は変わるかも知れない。いや、変わっていかねばならない。
 この作品は長く語られる作品になるだろう。『宝石の国』のキャラクターたちのように、ずっとずっと力強く煌めき続けるのだ。


こちらの記事は、私のブログからの転載です→http://blog.livedoor.jp/toratugumitwitter/archives/51308595.html

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