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悪い狐/#2000字のホラー


 ――悪い狐が出る。

 そんな噂を耳にしたのは、この”町”で暮らしはじめてまだ間もないころ。ここには動物――とりわけ猫が多い。引っ越してきてすぐにそう感じたが、狐まで出るのか。

 新入りにとっては驚くようなことでも、この町では珍しくもないらしい。広場で声を掛けてきた古株の住民は、町の仕組みや決まりごと、おすすめの観光名所を教えてくれた。そして、ここで暮らすときに注意すべきことも。そのひとつが「悪い狐」だった。

 ”悪い”と呼ばれるからには、狐は何か迷惑なことを”しでかす”のだろう。農作物を食べてしまうとか、ごみを荒らすとか。それとも寄生虫の被害か。いや待てよ、いずれもこの町では起こり得ないはずだ。いぶかしく思いながらも話を聞いてみると、狐の”悪さ”はそういうたぐいではなかった。

 曰はく、悪い狐に魅入られると、夜には眠れず、朝を恐れるようになる。部屋にこもり、目の周りにはあざ。さらには何でもない言葉に怯えるという。狐に化かされる。そんな古めかしさにはそぐわぬ異様さを覚えた。

 それ以来、どうにも狐のことが気になり、あちこちで聞くようになった。そうしてわかったのは、悪い狐には”三つの特徴”があるということ。

 一つ、悪い狐は”鳴かない”。

 狐の鳴き声と言えば「コンコン」だが、そういう話ではなくて。悪い狐は声に頼らずに、身振り手振りで愛嬌を振り撒き、相手を油断させるという。

 二つ、悪い狐は”正体不明”である。

 悪い狐は”狐”というより、狐の姿を借りた何か。愛らしい狐の姿を借りて相手を惑わすらしい。狐の威を借る狐、いや、狐の皮をかぶる狐か。

 三つ、悪い狐は”不死身”である。

 目に余る悪狐わるぎつねはときに通報され、町から排除されると。だが狐は死なず、何度でも生まれ変わり、悪事を重ねるそうだ。

 聞けば聞くほど要領を得ない。なんとも不可思議な話だ。



 そんなある日のこと、町に住む友人の紹介で、ある女性と知り合った。

 ――思わず息を呑んだ。透き通るような肌と、腰まで流れるつややかな髪。暗所でも煌々こうこうと輝くそのまばゆい瞳に見つめられ、自然と目が釘付けになった。彼女は何も言わない、だが言葉はいらないと思う程、ただ美しかった。

 彼女の手が近づくと、まるで薄絹になでられるような心地よさを覚えた。ふと目が合うと、大きな耳を揺らしながら、無邪気な笑みを見せてくれる。そんな仕草の一つひとつがとても貴く、愛らしいと思った。

 それからは毎日、帰宅するとすぐ彼女に会いに行った。雨が降ろうと槍が降ろうと、この町では関係ないこと。どこにもないような絶景を巡ったり、部屋でゆっくりと過ごしたり。ときには海上の別荘で、波の音を聴きながらひとつのベッドで眠りに落ちた。

 唯一、彼女に会えないのは、町の保全工事があるとき。ひと晩の別れが、まるで永遠のようだった。

 ――最近、朝起きるのがつらい。寝足りないだけでなく、身体を起こして自分の足で歩くのが億劫に感じてしまう。目元にはいつも跡が残っている。ひどい顔だと自嘲しつつ、それでも会社に行かなければ。あの町で暮らしていくために。

 上司に呼ばれた。最近よく遅刻するが大丈夫かと。気を付けますと答え、自分の席に戻ると、同僚が声をかけてきた。

「最近、なにかあった?」

 別に何でもない。ちょっと夜中まで遊んでいただけだよ。そう誤魔化す。余計な詮索をされてはたまらない。早々に話を切り上げて、仕事を始める。

 すると同僚は、からかい交じりにこう続けた。

「――彼女でもできた?」と。

 ”悪い狐”なんていない、どこにも。




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