「チェリまほ」から解く実写化の可能性


【はじめに】
 多くの漫画原作の実写映画化、実写ドラマ化がされる今日で、2020年最も「成功した実写化」と言えるのがこの『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』であると言える。漫画原作のこのドラマは、テレビ東京の深夜枠であるにも関わらず、twitterでは毎週トレンド入りし、ドラマ満足度調査ランキング五週連続首位など、大きな盛り上がりを見せていた。その勢いは国内に留まらず、台湾や中国、ベトナムなど多くのアジア圏での配信も決定している。
これは、世の中が男性の同性愛を描く物語、いわゆる「BL作品」にカテゴライズされるものへの多大な興味関心を抱く昨今だからこその盛り上がりもあるだろう。しかしこの作品は、漫画から実写化をするにあたって、「BL作品」という枠組みから、むしろ逸脱した描かれ方を、徹底的に追及していることこそが魅力であると言える。その改変や差異の一つ一つに注目していく中で、それにより生み出された多様性や、実写化の可能性について言及していきたい。

〇『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』

豊田悠による、Twitterで話題となりガンガンPixivにて連載開始した漫画である。「全国書店員が選んだおすすめBLコミック2019」1位に輝いており、2020年12月時点で累計発行部数は100万部を突破している。


〈あらすじ〉童貞のまま30歳を迎えた安達清は、「触れた人の心が読める」という魔法を手に入れてしまう。ひょんなことから営業部の同期のイケメン・黒沢優一の心を読んでしまい、自分への恋心を知ったことから巻き起こるラブコメディ 。

【「BL作品」の実写化】

 冒頭でも触れたように、この原作漫画は男性の同性愛者による恋愛模様が描かれた、いわゆる「BL作品」という括りにカテゴライズされる作品である。「BLコミック」という名称で、「BL作品」という棚に並べられる。そのため、この漫画を手に取り読む人は、世間一般的に言われる「BL作品」というジャンルが前提であり、感覚、流れについて暗黙の了解的共通認識を持っていると言える。そして、勿論そうした展開を求めてもいるため、ネタとして扱う事が可能な範囲も広い。しかし、実写化となるとそうはいかない。紙面上に描かれたキャラクターではなく、生身の人間が演じるという、より現実的な生々しさがある。漫画と同じ台詞、同じ行動をした時、漫画内であればネタとなるものであったとしても、自分の世界線に落とし込んだ時に引っ掛かりとなることは十分にある。さらに、地上波であれば多くの層の人々が目にする可能性があるため、元の共通認識の差異がそもそもある。このドラマでは、その点が徹底的に配慮されている。本作では、世間的な枠組みや型を取り払いシンプルに描く事で、キャラクターの本質、物語の本質をより明確に丁寧に描くことを目指している。

〇「BL」の排除

第一に、この実写ドラマの広告において、「BL」という単語はほぼ使用されていない。「純度100%のラブコメディ」を前面に押し出し、公式のTwitter等の広告では一度もいわゆる「BL作品」であるという宣伝の仕方はなされていない。そしてそれは作品内でも徹底的に保たれている。
まず、主人公の安達が同期の黒沢の心の声を聞き、自分への恋心に気づいた時に、「男の黒沢がなぜ男の自分を好きなのか」ではなく、「完璧な黒沢がなぜ冴えない自分を好きなのか」ということに疑問を抱くのだ。それ以降、告白をする七話まで、安達は「男同士」という台詞は一度も使用しない。漫画では「もしも俺かあいつが女だったらもっと簡単な話だったんだろうか」と安達が考える場面も、「もし仮に藤崎さんだったら、こんな風に悩んだりするんだろうか」と、性別ではなくあくまで個人として素敵だと思っている人を想定するにとどめている。このドラマにおいて、それまでの安達の心の紆余曲折や悩みや成長において、そこは重要ではないからだ。自尊心が低く逃げ腰な主人公の安達が、人に愛される自分を認め、向き合い成長していく物語として描かれている今作において、「男同士」であることは重視されていない。男や女という性別でなく一人の人間として一人一人に向き合う安達の姿は、型にはめた枠組みを通してではなくそのキャラクターを一個人として描く今作を、象徴する存在でもある。

  BLという言葉はちょっと性的なイメージが強くつきすぎてる気がして。(略)わかりやすくBLとジャンル分けすることで逆に目を向けてもらえなくなっている層がいるんじゃないかと。

これは今作の脚本家である吉田恵里香との対談にて記者の横川氏が述べたものであり、これは本作が徹底してそこを排除して描く理由ともいえるだろう。「BL」という枠組みは、分かりやすい一方で、物語の本質の妨げにもなり得る。この作品は、そのジャンルに触れていなくても、たとえ少しの抵抗があっても、その型さえ取っ払えば、そこに見えるのは純粋なラブストーリーであり、一人の人間の成長物語である。今回の実写ドラマ化において重視したのはその本質的な魅力を描くことであろう。原作漫画は、先ほども述べたように、そのジャンルを前提としているものであるため、露骨な表現や型に沿った表現も多い。しかし、元の原作の本筋の魅力は同じである。そこをより多くの人に引っ掛かりなく目にしてもらう導入として、それらの型を取り去ることを徹底し、本質のみを魅せることに成功している。

〇藤崎さん

具体的な例として、主人公の同僚の藤崎さんという女性がいる。このキャラクターは、原作漫画では“腐女子”として描かれており、主人公二人の恋愛関係に密かに心躍らせる、読者の視点を共有させた人物となっている。これに関して脚本家の吉田氏はこう述べている。

   BLという前提で、読者の皆さんと同じ目線で立ったキャラがいるのは問題ないし、私も原作の藤崎さんは大好きなんですけど、実写だと演じるのは生身の人たちです。そうしたときに、他人の恋愛を覗き見てキャッキャッと妄想するのはあまりいい行為に見えないというか。少なくとも、私だったらされたくないな、と思ったんです。

事実、ドラマ内の藤崎さんは“腐女子”と明言されることは一度もない。これに関しては吉田氏も「明言してないだけで、そこはドラマで描く必要はないと思って。」と述べている。主人公二人を見て微笑む場面や、二人の関係を嬉しそうに見守る場面はドラマにおいても多々あり、見ようによっては「腐女子」に見えなくもない。そうであっても、そうでなくても、ただただ、主人公二人の恋を応援する存在であることには変わりはない。これこそが本作の、特定の層に向けての原作漫画を、多くの層に届くドラマとしての改変の仕方なのである。二人の幸せを願う藤崎さんが、腐女子であってもなくても、そこに大きな意味の違いはないのだ。そしてこれに関して、それを意図した台詞をあえて藤崎さんに語らせている。「安達君には幸せになってもらいたいな。黒沢君に恋をしても、しなくても。」これは、藤崎さんが誰に言うでもなく心の中で呟く心の声を、主人公の安達が耳にする言葉である。その選択肢や可能性はあるにせよ、そこを選ぶ、選ばないは個人の自由。どちらを選ぶにせよ、そのさらに先にある強い思いが、「安達君には幸せになってもらいたい」であるのだ。キャラクターの存在と台詞の、意図的な二重構造がなされている重要な台詞であると言える。
また、藤崎さんというキャラクターは、実写化するにあたって「恋愛に興味はないが毎日を楽しく過ごしている女の子」として描かれている。これは先程とは逆で、原作漫画では描かれていない点である。しかし、漫画内ではそれ程焦点のあたらない役柄であることもありそこは詳しく描かれていないが、先ほど同様、その可能性はあるだろう。「腐女子」として原作漫画内に存在する藤崎さんというキャラクターは、主人公二人を自身の恋愛対象としては見ていない。その感覚の違いによる藤崎さんと主人公のすれ違いを、漫画ではコミカルにギャグとして描いている。その「少し違う」をより追求していった実写化によって、藤崎さんというキャラクターがより深く描かれている。これに関して記者の横川氏は

   藤崎さんと同じように周りに理解されないことに対し、「普通を演じるのも慣れたし」とゆるやかに絶望している人からすると、自分の代わりにこういう人もいるんだよと社会に主張してもらえた気がして。小さな声を拾い代弁する事が、エンタメの意義の一つではないかと感じました。

と述べている。この藤崎さんというキャラクターの改変についてドラマ制作側は、原作との差異についての視聴者の、特に原作ファンの人々の反応への懸念があり、Twitterなどでなにかと「原作からの改変」を意識した投稿がなされていた。しかしその逆で、藤崎さんが注目される第四話終了後には「藤崎さん」がTwitterのトレンド入りを果たすほど、世間は実写化における藤崎さんに非常に好意的なもので溢れた。その意見の多くは横川氏が述べる事と同様「共感」の声であった。
恋愛ではなく、趣味や仕事、他の物事に興味を持ち重きを置いている人は多くいる。しかし、そんな人々が描かれるドラマは意外と少ない。恋愛ドラマであれば、恋愛がスタートとゴールにあり、そもそも「恋愛をしない」人は描く必要がないからだ。そんな人達はドラマ内では、「いないもの」として扱われる。もしくは、他に強く存在確立が可能なキャラクター設定を付けることで、そこをわざわざ描くことをしないのだ。そしてそうした枠組みにあたるものの一つが「腐女子」である。そうした分かりやすい型を付ければ簡単だからだ。その物語に都合の良い賑やかし的役回りに転じさせれば楽だからだ。しかし、その突出した設定があったとしても、その人の思考や至った背景はそれぞれで、同じ型内であっても十人十色である。そのたった一人のキャラクターの人生がある。そこを丁寧に掘り下げた今回の実写化が「優しい世界」と評されるのは納得するところである。キャラクター一人一人への誠実に向き合う姿勢によるものであろう。そして、この藤崎さんというキャラクターの改変は「腐女子」という型にはまったキャラクターを、そのキャラクタ―設定をあえて取り除いたことで、「少し違う」を追求し、シンプルな一人の人間を表現することが可能となっている。これはキャラ的要素で魅せる紙面上の漫画より、生身の人間が演じるからこそその感情の在り方のリアリティである。原作の前提あってこその改変の効果であり、実写化の醍醐味を最大限に生かしていると言える。

【物語の改変】

 実写ドラマ化において、物語の流れにおける改変も多く見られる。それは、エピソードをより強調させるためであったり、本質を描く上での配慮によるところもある。そもそも原作漫画は今も尚連載中であり、ドラマは独自の最終回が描かれている。そしてその改変も原作を昇華させることに一役買っている。

〇「心に触れる」

 エピソードを強調させるためにという点では、原作の一巻にて描かれる黒沢が安達に恋をした時の話を、中盤の七話に、それも安達が告白するのと並行して見せる構成となっている。さらに、原作では黒沢は一年の片思いであるが、ドラマでは新入社員時からの七年の片思いとなっており、黒沢の恋心はより深く重いものとなっている。この第七話では序盤、黒沢目線で話が進んでいき、この回で黒沢の心の声を安達が聞く場面は一度もない。ここにきて黒沢というキャラクターの苦悩や葛藤を描くことで、ドラマ全体の深みが増しているのは確かである。黒沢が恋に落ちた場面にて、ドラマでは「初めて心に触れられた気がした」という言葉が追加されている。今まで安達目線で進んできた物語において、初めて黒沢目線に立つこの回で、視聴者も「初めて黒沢の心に触れる」という構成が意識された作りとなっている。この場面については後に考察をするため割愛するが、この「心に触れる」という言葉は、ドラマ版における大事な鍵となる言葉である。
ドラマの第四話において、喧嘩の仲裁を黒沢にしてもらったことで、何をやっても様になる黒沢と、何をやってもダメな自分を比較し落ち込む安達だが、黒沢の心の声を聞くことで誰もが焦ったり落ち込んだりすることを知る。黒沢の笑顔から自分なりの向き合い方で、少しでも誰かを元気づけられる事に気がついた安達は、藤崎さんにも向き合っていく。ここで安達は「誰かの心に触れるたび、寄り添いたい気持ちが強くなる」と述べており、「心の声を聞く」事を「心に触れる」と表現している。最終話では友人の柘植に「自分の心にも触れてみろ」と言われ、背中を押される展開となっている。これらはドラマ版においてのみ描かれているものであり、主題であることが分かる。しかし、七話にて黒沢に告白し、初めて自分から黒沢に触れた安達は「俺は黒沢のこころに触れるために、魔法使いになったのかもしれない」と述べるが、これは原作漫画でも描かれている台詞である。しかし、この台詞において、重きを置いている部分の違いがあると言える。
ドラマ版では「心に触れる」という言葉が多く多用されるが、漫画では黒沢が安達に対して「まるで魔法見たいって言ったら安達は笑うかな」と述べるモノローグがあったりと、「魔法使い」という言葉が多く使われる。この作品は、『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』という題名からも分かるように、都市伝説をモチーフにした作品である。そして、原作漫画はより「魔法使い」であること、つまり「30歳まで童貞であったこと」が重視されていることが分かる。30歳までの恋愛経験の乏しさがより印象付けられている。そのためこの、「俺は黒沢のこころに触れるために、魔法使いになったのかもしれない」という台詞は、人と向き合い成長する物語に重点を置くドラマ版と、恋愛そのものに重きを置く原作漫画とを比較し同一化し、物語の本質をそれぞれ語る重要な台詞となっている。

〇最終回

 また、原作漫画は今も連載中であるため、ドラマではオリジナルの最終回が描かれている。そしてこの最終回は、型や枠組みをすべて取り除き本質を徹底的に描いてきたからこその、恋愛の在るべき理想を描くことに成功している。
最終話において、黒沢が安達の前に膝をつき、告白をするシーンがある。そのプロポーズのようなシチュエーションで、黒沢が差し出すのは指輪ではなくお揃いの万年筆である。そして「俺とずっと一緒にいてください」と告げるのだ。
「結婚」は、世の中に溢れる幸せの象徴であるが、だからこそその行為は、当たり前の形式的な枠組みとして存在しているだろう。プロポーズの言葉も、婚約指輪も、その行為の過程の一つに過ぎない。「そういうものだから」と風習をなぞる様にこなす行為は、その本質が伴っていないことも残念ながらあるだろう。そういった形式を取っ払って、というより取っ払わざるおえない男性同士だからこそ、その場面でなされるプロポーズもどきのそれは、より強く愛情の本質を描くことに成功していると言える。文房具が好きな安達に、赤い、万年使える筆を送る。そして、「結婚してください」の同義語であるべきその台詞は、その定型文に込められた本質の表現をより強く直接的に伝えることを可能としている。「BL作品」を「純愛」として徹底的に描いてきた本作だからこそ、その還元された恋愛の在り方に落とし込むというのは、「BL作品」の実写化として見事な執着地点であるだろう。

【原作と実写の共存】

ここで一度主人公の安達と、彼に恋心を寄せる黒沢について、原作と実写において比較していく。
第一話にて、安達が初めて黒沢の恋心に気づく場面、原作漫画の安達は意図的に心の声を聞くのに対して、ドラマ版では不可抗力で聞こえてしまう事になっている。これについて脚本家の吉田氏はこう述べている。

  (前略)安達の人の心を読む魔法って、他人の恥部を勝手に覗き見る行為でもある。だから、人として愛せないキャラクターだと、観ている方も抵抗が出て来ると思ったんです。(略)漫画は分かりやすさが大事ですし、原作のあのドキドキ感も面白いので、否定する意図は全くありませんが、ドラマでやるなら、能力を便利使いする男の子にはしたくなかった。

そのため、ドラマ版の安達は前半自ら他人の心の声を聞こうとする場面は一度もない。原
作では一巻にある、黒沢の為に取引先の社長の心の声を聞くエピソードは、ドラマ版では五話目に描かれる。それも、黒沢を助ける為に安達が初めて自ら踏み出し人の心を聞くという、起点として描かれている。
 キャラクターとしてもドラマ版は、安達はより誠実で真面目な性格になっている。家に誘う黒沢に対して「まさか襲われる?!いや、それは黒沢に失礼」とすぐに打ち消したり、「襲われるとか思ってマジごめん黒沢」と心の中でも謝罪したりと、常に黒沢に真摯に向き合う誠実さがある。勿論原作の安達も誠実ではあるものの、より卑屈で淡白な人間らしさもある。そして相手の黒沢も、原作は露骨な表現も多いこともあり、漫画の方では安達への恋心故の押しの強さや独占欲が強いキャラクターとなっている。
 これらの少しの違いは、最終回の前の11話でより顕著に表れている。心の声が聞こえなくなることで、黒沢と上手くいかなくなるのではと安達が不安に思う場面だ。そこに安達が不安を抱く理由も、原作では長崎への転勤の話による黒沢と離れる事への不安から派生したものであるのに対し、ドラマ版では仕事で自分本位に魔法を使った事への罪悪感との葛藤によるものであるという違いがある。漫画はあくまで対黒沢における力の存在であるのに対し、ドラマ版では生きる術としての力の存在が描かれている。また、ここにあたる原作では、「どんな理由があったて俺は別れてやらない」と黒沢は述べているのに対し、ドラマ版では「俺たち、もうここでやめておこうか」と黒沢が別れを提案することとなっており、全く真逆の展開を迎えている。
 多少の違いではあるものの、そこに物語の本質が関われば、そのキャラクターそのものの違いとなっていく。そこに不満を抱く原作ファンがいるからこそ、昨今実写化は難しいとされている。しかし、ここまでのキャラクターそのものの改変がなされているにも関わらず、原作ファンまでもが好意的な思いを抱いているのが今作である。勿論、物語の本質が変わらない故の納得という事もあるだろう。それに加え、SNS、原作者の存在が大きいのではないかと考察する。

〇原作者の影響

 原作者である豊田悠氏は、元々Twitterにて今作を掲載しており、それが話題を呼び単行本化していった。そのため、多くの原作ファンは豊田氏のSNSを公式ツールとして認識している。今回のドラマにおいて、豊田氏は常に「リアタイ」を心がけ、積極的に感想をTwitterにて投稿していた。

「漫画では気楽に読める設定をも生身の人間が演じるドラマでは誰かを傷つける表現になりかねない所を毎回丁寧に昇華しつつ制作人のこれを伝えたい!という熱意を感じて胸熱でした」

   「今まで黒沢優一の事は作者なので自分が一番理解してると思ってたけど町田さんはそれ以上だと思いました。本当に嬉しいです。」

と、原作者としての意見を述べる一方で、「あれがこう来たか!!!」「いやこの状態で一週
間つっっっら」「安達がんばれ~!!(応援上映)」など、一視聴者として共に新しい登場人
物達を見守る姿勢が常にあった。それこそが、この実写化を原作ファンもよりフラットに観
られる要因であったのではないだろうか。そして先ほど述べた11話において、原作者のこ
のような投稿があった。

   「ドラマの黒沢さんは優しくて繊細で安達ファーストなのであの選択をするんだろうなと思いました。人間なんだしもっと我儘でもいいんだよ……漫画の黒沢は多分ドラマ見て泣いてる」

この投稿には豊田氏の書き下ろした、ドラマを見ている原作漫画の安達と黒沢のイラスト
が描かれている。「実写化」とはこれまで、その漫画を実在の人間がなりきるものを示して
きたように思う。そのため、どのように近づけるか、どう表現するかが肝にあった。原作と
の「同一化」こそが実写化の在り方であり、あくまでも「同じものである」という制作側、
視聴者側の意思があった。しかし今回、原作者、つまり制作側が、完全に漫画とドラマとを
別のものとして示したのだ。これは、実写化の新しい可能性の一つであると言える。
「同一化」が「実写化」の最重要項目として携えられた思想は、今も多く見受けられる。
しかし、「映画化」「漫画化」「舞台化」「アニメ化」など、今の世の中には多くの物語の語り方がある。それぞれに適した表現でその物語のストーリー、キャラクター、思想などを再度語り直すべきである。だが、例えば漫画とアニメ、映画などの技術は大きく進歩し、よりそれぞれの媒体の差はなくなっていった。だからこそ、原作を再現しやすくなり、どれだけそのまま再現するかが求められているといえるだろう。勿論その作品の良いところを表現することはその原作を基にする以上必要なことであろう。しかしそれをその媒体ならではの表現、新しい解釈、物語の再構築をすることで、その原作の魅力をより引き出す可能性にもなるはずなのである。
 そして今回はその再構築が大きな魅力となっている。原作は原作の、ドラマはドラマの良いところがあり、それらが補い合い高め合えるそれぞれの強みがある。言うならば「二度おいしい」の状況である。ドラマ放映時から原作漫画の売り上げも急激に伸び続け、海外からの取り寄せも多くなされている。ドラマの最終回近くに発売された六巻は、ドラマのクリスマスを意識し、表紙の安達と黒沢のネクタイがそれぞれ赤と緑になっており、さりげない同一化が描かれている。製作者側同士のお互いを尊重しリスペクトし向き合う姿がSNSなどの媒体でより身近に感じられたというのが、このドラマの人気の理由の一つでもあり、新しい作品作り、実写化の在り方であるように思う。

【ドラマの魅せ方】
 ここまで原作とドラマの比較を続けてきたが、ここでドラマならではの表現方法による魅力について考察していきたい。今回の作品におけるドラマ特有の魅力として、色彩が挙げられる。

〇黄色と青

 このドラマのオープニングでは、安達と黒沢がそれぞれの家で朝を迎える様子が交互に描かれていく。木製の家具や小物で揃えられた安達の部屋と、きっちりとシックなインテリアが置かれた黒沢の部屋。どことなく、安達は優しい暖色の黄色、黒沢はシックな青がイメージされている。この黄色と青はこのドラマにおいて様々な意味を持っていると言える。
 先ほども述べた、七話にて黒沢が安達に恋をする過去が描かれる回があるが、そこでこの色彩の表現がより意味を持った構成がなされている。これは、見た目が良いからこその生き方に苦悩する黒沢が、公園のベンチで安達に介抱される場面である。ずっと黒沢と安達の顔を交互に映していくが、最後の最後にカメラは引きになり、背景と二人が同化したような印象的な画となっている。そして、ここでの背景の色は緑である。横になった黒沢の胸に安達が手を置き、画面は引きの画になり、その瞬間、「初めて心に触れられた気がした」と黒沢が述べるのだ。青く静かに凛として生きてきた黒沢に、安達の温かさがすっと差し込むことで、黒沢の世界は優しい緑色を灯し輝きだしたのだ。その画が綺麗であればあるほど、視聴者は黒沢の中での安達の存在の大きさに気づき、黒沢の世界が輝きだした瞬間に立ち会ったこととなり、文字通り黒沢の心に初めて触れることが出来るのだ。一つの画によってすべてを表現した印象的な場面である。
 色の演出はその後も使われており、二人が恋人としてデートをする中で、安達は青色のベスト、黒沢は暖色だったりチェックがかったコートを着用している。各々が互いの色を身に着けることで、二人の距離の縮まり、影響されあい、補い合い高め合う、二人の恋人としての在り方が表現されているといえる。

〇白

 また、このドラマは純愛を語っていることもあり、白色というものも重要視している。まず、オープニングにおける朝の二人は、真っ白い服を身に着けている。Omoinotake
が歌う「産声」という題名の曲が起用されており、その歌の中で「裸の心で繋がっていたい」という言葉がある。より純粋で清らかでまっさらな印象を意識されているといえる。
 そして、最終回での復縁の際に二人が着ているのが、黒と白を基調にした服であり、ここでは二人がまっさらな心で思いを伝え合う表現として活用されている。
 そして最後に、オープニングに呼応するように、二人が共に朝を迎える場面がある。復縁後、クリスマスに目覚めた安達は魔法の力を失っている。「30歳まで童貞」ではなくなったからだ。その場面では、二人は同じ真っ白い服を身にまとっている。「裸の心で繋がっていたい」とそれぞれが思っていた場所から、共にまっさらな状態でいられるようになり、オープニングの言葉が体現されている。魔法の力がなくなったということは、相手の心を知るには言葉にしなければならないし、自分も伝えていかなければいけない。それらが出来る関係に二人がなったという事でもある。お互いが心から、自分自身として共にいられるようになったことを、魔法の力を失った朝の白い服によって画として見せていると言える。

【現実との関わり】
 最後に聖地巡礼に関しても述べておきたい。今日、多くの作品において、ファンが舞台となった場所やロケ地を訪れる、聖地巡礼というものが話題になっている。好きなキャラクターと同じ場所に立っている喜びや、その世界に入り込めたような感覚を得られるという事もあるだろう。しかし、それ以外にも意味があるものではないかと考える。
 今回の散々語ってきた七話を例にしよう。先ほどその緑を印象的に活用していると示したが、この場面は実に鮮やかで、カメラによる色味の補正がかかっているように見受けられる。しかし、実際その場所を訪れると、公園の木々が光を遮るため、淡く緑色に当たり全体が色付いている場所であったのだ。つまり、人工的に作成した色ではなく、自然が織りなす色彩である。このことから、あの場面は意図した計算などの存在しない、より自然的な場面であることが裏付けられることとなっている。黒沢は完璧に生きる事に囚われ苦しむ中で、本来の周りの自然にさえ気づけていなかったかもしれない。そこに一言安達にかけられたことで、世界がこんなにも綺麗であったことに気づかされた事にもなる。もともと綺麗な世界に気づけないほど切羽詰まっていた黒沢の心がふっと解け、世界は輝きだす。主題歌の「産声」にも語られるように、たった少しのことで世界が輝きだす、恋愛の本質を描いた場面としても捉えられる。これは、元が自然として綺麗なロケ地であったからこその考察であり、現実との比較によっても様々な多様性が描かれ生まれるのではないかと考える。

【まとめ】
 一つの作品を「漫画版」「ドラマ版」などで比べるのではなく、それらを踏まえてさらに解釈を深めその作品そのものとして認識していく事が、何より大事なことではないかと思う。そのためには、ストーリーを追うだけでは心もとない。それぞれの媒体での描かれ方の違いや意味を考察し、その意図から考察を深めていく事も可能だ。違う媒体を通すことで、より明確に原作を理解することもあるだろう。「同一化」を求めるのではなく、むしろ差異にこそ魅力は詰まっていると考える。今後、そうした多面的な見方で、よりフラットに様々な媒体での作品展開が肯定されていけば、可能性はさらに広がっていく。

【参考文献】
・横川良明の「エンタメから見る今」きょう何考える?
 沼落ち続出ドラマ“チェリまほ”の多様な世界はどうやって作られたのか

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