『サトゥルヌスの子ら』個人的読解 『あいがん』を添えて

はじめに

 先日、フォロワーさんと『サトゥルヌスの子ら』という作品について意見を交わしました。ちなみに『サトゥルヌスの子ら』はBFCというオンライン上の文学イベントに出ている掌編です。ここから読めるよ。彼は本作における父がどのような悪か定義しかねており、その上で
「本作はなぜ父という役割が敵で無ければいけなかったのか」
「本作はなぜ『サトゥルヌスの子ら』という題名なのに娘達の話なのか」

 この2点を疑問に思っていました。 わたしは本作を読んだときに直感的にそこら辺を汲み取ってしまっていたので、彼の発言は衝撃的かつ興味深いものでした。
 そこで自分がどう読んだのか言語化し、その上で「父はどのような悪なのか」「なぜ父が敵という役割でなければならなかったのか」「なぜ本作は娘達の物語なのか」という問いにわたしなりに答えていくのが本稿となります。ポケモンにハマったり、ポケモンにハマったり、ポケモンにハマったりしていて大変遅くなってごめんなさい。   

『サトゥルヌスの子ら』について

読解編 神話と音楽

 『サトゥルヌスの子ら』は父と娘の物語です。題名の元ネタとなったサトゥルヌスはギリシア・ローマ神話に出てくる古代の神々の王、彼は「将来、自らの子に殺され権力を奪われる」という預言をうけ、自らの子を次々と呑み込んでいきます。本作はその『サトゥルヌス』を題名に当てており、この題名から本作の父は権力のために子を喰らっている存在だと推測できます。では彼は何を食べ、どのような権力を維持しているのでしょうか。
 その答えを探るために、まず本作における父の描かれ方を見ていきます。本作の父は佳寿子の印象によってその多くが語られます。序盤、佳寿子の口から語られる父は激怒しています。父は姉と佳寿子を比較して佳寿子に罵声を浴びせます。これに対し、佳寿子はピアノリサイタルで倒れたとき、父の怒りに思いをはせながらも『手放した責任の大きさにうっとり』します。
 中盤以降の演奏風景を見る限り、佳寿子は音楽自体を嫌っているわけではありません。どうやら少なくとも音楽が絡む時、父は佳寿子にかなり厳しい態度で臨んでいたみたいです。
 ピアノの世界はある程度出自や出身学校で判断されてしまう場所と聞いたことがあります。現在、どこまでその風潮が残っているかはわかりませんが、佳寿子の作中年齢から佳寿子がピアニストとして活躍した時代は、保守的な芸事の世界の雰囲気がピアノ界にも色濃く残っていたと考えても間違っていないはずです。
 作中における父は偉大な作曲家であり、ピアノ界の権威でした。佳寿子はピアニストという職についているあいだ、ずっと「○○さんの娘さん」という目で周囲から見られ、声をかけられていたのだと考えられます。冒頭、佳寿子が倒れた場面と佳寿子の引退は、音楽の世界において父と佳寿子の一度目の決別でもありました。では、音楽以外での二人の関係性はどうでしょう。

読解編 作中家族の関係性

 二人の日常での関係性を解く鍵は後半にあります。後半、自らの手が父の手に変わったとき、佳寿子はそれを『黒く肉厚な手』と評しました。そして『思わず怯んで手が止まった』『動悸がおさまるのに時間がかかった』と自身の感覚を示し、『死んだ者の手ごときに負けてなるものか」と自身を激励します。また、父の曲を『華やかな音』と認めた上で『たとえこんな音楽を生みだしたとしてもこの手は呪われた手だ。それを許すわけではない』と結論づけます。
 これら要素のうち最後の部分から、音楽を越えた部分で佳寿子が父親に否定的なのが読み取れます。佳寿子の思い出す父は怒っており、佳寿子を否定し蔑みます。佳寿子から父に対するマシな印象は曲の出来の良さくらいしかありません(これすらも後半瓦解してしまうのですが)。この徹底した悪印象から父は佳寿子と仕事外の日常においても険悪であったことがわかり、その理由は日常における父の言葉の暴力/怒りの発露ではないかと推測できます。
 直接的な暴力もあったのではないでしょうか。理由は三点あり、一点めは父の手を見たときの佳寿子の反応です。佳寿子は後半、父の曲を弾きはじめますが、父の曲ならば父の手が現れるのは当たり前で、ある程度覚悟を決めていたはずです。なのに実際に父の手をみると、彼女は思わず怯み、動悸が止まらなくなります。これは暴力を振るわれるとき、わかっていても拳を上げられた瞬間に身体が固まってしまう身体感覚と似通っています。
 二点めは少し要素としては弱いですが、佳寿子が目の前の父の手を『呪われた手』と言い表したことです。これは佳寿子の手が変化しているため出てきた言葉ですが、手というパーツそのものに強い忌避感を抱いているとも読み取れます。手が生み出す加害として思いつくのは拳やビンタなどの直接的な暴力です。
 三点めは母の手に見られる火傷痕から推測されうる暴力の残り香です。これは父と母の関係性の説明にもなる部分です。作中の母の左手には魚のかたちに似た火傷のあとがありました。火傷の大きさは明確には書かれていませんが、ピアノを弾く際に視認出来る程度のサイズでかつ魚の形であるあたり、広範囲なものというより、高温の物体を局所的に当てた結果の火傷では無いかと考えられます。こういった火傷は、例えば熱湯を誤ってこぼしたなどの事故の際に出来るものとは考えにくく、人為的な火傷であると推測できます。例えばたばこの根性焼きや焼けた鉄箸を当てるなどの、虐待と言いきって良い程度の行為の結果生まれたものです。
 この火傷が父によるものかは不明ですが、佳寿子が母の手を語る際の愛情、とりわけ火傷に注目するところから、佳寿子と母は同じDV被害者・父の圧制下を生き抜く戦友であり、この火傷痕を佳寿子は一種の同志の証のように見ていたのではと、わたしは考えました。
 作品盗用の事実を知ったとき、佳寿子は抑えきれないほどの怒りを覚えますが、これは単に父が他者の作品を横取りしたことを怒っているだけではありません。父の生き方が公私ともに母を踏み台にして、彼女の才と可能性を使い潰したものだったからです。 
 最後に姉について。少し前に本作とギフテッド(天与の才を与えられた人間)の描かれ方についての話をしている方が幾人かおりましたが、この「才能のある姉」という切り取り方自体が父の口から語られたものです(佳寿子は姉の才を伝聞の形でしか把握していない)。父は姉に天賦の才があったと言い、それを根拠に佳寿子を否定/攻撃しますが、これは物言わぬ死者である姉を都合良く利用する狡い行動にほかなりません。父は姉を音楽の才のみで語ることで姉から人間性を剥奪しており、佳寿子の終盤の行動、姉の救出は、姉を一人の人間として回復させる行為です。佳寿子には実際の姉の記憶がほとんどありません。きっと実際に生きていた姉との思い出より、自分との比較の文脈で語られ続けた姉の印象の方がずっと強く、姉に対して複雑な思いがあったことでしょう。その佳寿子が自ら進んで姉を救いに行くのが、個人的な本作の好きポイントの一つです。

読解編 結論

 ここまでの作品読解で、本作の父親は佳寿子を言葉や暴力で虐げ、作品の盗用で名声を得ていた人物だとわかりました。サトゥルヌスの維持したい権力は家庭内の地位であり、また社会的・芸術的成功です。「父は何の悪か」という問いに答えるなら、彼はまず『家族の悪』家父長制の上に立ち家族を支配するタイプの悪の代表です。その上で父はむさぼった家族の力でもって、芸術分野にて支配者的な位置につき、そこでも佳寿子を支配します。だから、父は芸術分野で搾取する男の代表としても書かれています。両者は繋がっているのです。
 これは妄想ですが、佳寿子に子どもや孫の影が全く見えない辺り彼女は独身で、その選択をした背景にはDVの影響もあってもおかしくないとは思うのです。「酷い親のもとで生まれたから、自分も子どもをどう愛していいかわからない/子どもを育てる自信が無い」という感覚は聞きますし、自らを末代にするのも一つの戦い方だなどと考えてしまいます。

作品の外の話 家族問題について

 さて「本作の敵はなぜ父で無ければならなかったのか」「本作はなぜ娘達の物語なのか」次にこの問いに答えていくのですが、そのためにまず作品外の要素に言及していこうと思います。元々、家族の問題は母親の問題として語られがちでした。たとえば信田さよ子さんは『母・娘・祖母が共存するために』の中で、近代家族の特徴の一つに性別役割分業、父親は外で働き母親が家の中のことを取り仕切るといった考え方を挙げています。性別役割分業はいわゆる『男は仕事、女は家庭』といった考え方です。
 この体制の中の父親は、基本的に会社という家族とは違う世界を生きる存在で、ひとたび家族内に問題が発生すると、その原因は母親の愛情不足にあるとして、母親は全ての責任を負わされるのです。一方で、結婚前に家庭内にも男女平等はあると夢見た女性達は現実の夫の姿に失望し、その愚痴を同性として将来同じ位置につくだろう娘に語ります。
 そして一部の母たちは自らを娘と深く重ね、娘の人生を支配することで自らの人生を回復させようと試み、不幸を語られ支配された娘達の一部は同じく破壊された人生の回復を他者に求める呪いの連鎖とでも言うべき事態を発生させ、そうでなくとも『自分も親のようになってしまうのではないか』と怯え続けることとなります。(ここらへん、同作者の準決勝作品の『あいがん』に繋がる話です)
 信田さんは同著書のなかで家族問題の中で不在化している父親・夫の可視化こそが、家族問題の対処に必要だと指摘していますし、母親のみで家族問題を語ってしまっては歪みが生まれるというのは、数歩引いて見てみれば当然のことではないでしょうか。

問いへの答え

 ここで本作に立ち返って「本作の敵はなぜ父で無ければならなかったのか」という問いに向き合ったとき、敵を母親に設定してしまうと本作の効力は著しく弱まってしまうと言えるでしょう。愛情のゆがんだ母親、それに立ち向かう子供(たち)、男性はそれを外から安全圏で眺めている、これは既存の母→娘と繋がる負の連鎖の強化に他ならず、呪いの打破を目指す『サトゥルヌスの子ら』という作品にそぐいません。
 また『サトゥルヌスの子ら』の主人公を男性としてしまうと、これもまた父親殺し、偉大な父を越えるといったエディプスコンプレックスの典型的な話として本作を読めてしまいます。父親を倒し兄(弟)を救う話にしてしまうと、今度は作中から女性がほぼ消えてしまい家族問題を扱う小説として弱くなり、父親を倒し姉(妹)を救う話は男性という性別の特権意識を高める旧来の英雄譚にしかなりません。敵が父かつ娘達の話となることで、はじめてこの小説はその威力を十全に発揮し、多くの人に刺さる力を持つに至ったと私は確信しています。

少し脱線して……『あいがん』について

 折角なので少し脱線して同作者の準決勝作品の『あいがん』について触れていきます。『あいがん』はここから読めるよ。
 本作は母親と娘の関係性を軸に親と子どもの対立を描いた作品ですが、ここでの母と娘の関係性は『サトゥルヌスの子ら』の父と娘の在り方とは大きく異なっています。『あいがん』において、主人公と母はある種の緊張状態にありますが、一方で主人公は母が花の写真を送ってくるのを見守り、微笑む母親を夢で見て嬉しがります。この白とも黒とも言い切れない関係性がとても好きです。本作で主人公は恋人と会話しながら、胸の内で『子どもが好き、でも作るのが少しこわい。普通に愛せる自信がない』と独白するのですが、主人公の親との関係性、前述した怯えを踏まえると、胸がキュッとなります。親子関係の複雑さをまっすぐ書き切った真摯な作品だなと思う次第です。

最後に

 最後、脱線しつつも『サトゥルヌスの子ら』について読んできました。実は僕は『サトゥルヌスの子ら』を一読した時あまりピンと来ませんでしたし、単純に同作者なら別作品の方がより好きだなとは今でも思っています。(決勝戦作品が今までで一番好きかもしれず、謎に頭を抱えたりもしています)
 ただそれでもここまで踏み込んで要素を取れるあたり、『サトゥルヌスの子ら』は作品の深さが凄まじく、理性的に評価せざるを得ない力を持った作品でした。BFC4で冬乃くじ作品をまた読めて良かったです。ありがとうございます。


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