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『ひきこもり探偵』第一章「ひとり娘の失踪」(14)

 その日は、十一月にしては珍しく、日中の気温は二十度を超え、ともて暖かい一日だった。久しぶりに散歩にでも行こうかと考えていたとき、玄関のチャイムが鳴った。今日、母は不在だ。いつものように左側に盛大な寝ぐせができているが、構うことはない。どうぜ、宅配業者か何かだ。
急いで階段を駆け下り、玄関に向かう。サンダルをつっかけながら、「お待ちくださーい」と声を張り上げる。
 玄関を開けたとき、僕の全身は硬直した。
 そこには見目麗しい女性が立っていたのだ。あまりの美しさに茫然とする。
「えっと、あのー」
 あのーの余韻が消えるのを待たず、いきなり女性が抱き着いてきた。
 香水のうっとりするような香りが鼻腔をくすぐる。
あー、何だこれは。今起きていることは果たして現実なのだろうか。
 女性は両手を僕の首の後ろに回したまま、上体を少し逸らし、その美しい顔を僕に近づける。女性の瞳が僕を捉える。瑞々しい唇が数センチ先にある。
「あのー、どちら様でしょうか?」
 そういう僕の声はよれよれだ。
少し離れた場所から近所のおばさんがこっちを見ている。この人が勝手に抱き着いてきただけですから、という心の叫びはおばさんには届かない。
「やだー、私よ。忘れちゃってるの、ひどい! 上がるよ」
 女性は僕からすっと離れ、家のなかに入っていった。動作に迷いがない。【みつる】くんの部屋、上だよね、と言いながら階段をずんずん登る。僕の部屋の場所を知っているようだ。迷うことなく、ドアを開けなかへ。
「うわー、独身男性の部屋って感じ」
 あの静止画のような記憶。
 記憶のなかの少女と眼の前の美しい女性とがまっすぐな線でつながった。
「あのー、もしかして……」
「そうだよ。【まさみ】だよ。久しぶり」
 彼女はにっこりと笑った。
「お父さんがね、【みつる】くんにお礼を言ってこいって。あれはいい青年だって褒めてたよ。【みつる】くんの一言で目が覚めたって。放任することばかりが親じゃないって教えてもらったって」
 僕、そんなこと言ったかな?
 【まさみ】はコートを脱ぎ、ソファに腰かける。
「案山子みたいに突っ立ってないで、座んなよ」
 最近、誰かに同じようなこと言われた気がする。
 ソファで並んで座るのどうかと思い、僕は床に腰を下ろした。先ほどまでの混乱はすっかり収束したものの、この状況で彼女にどう声をかければいいのか、分からない。ここは正直になろう。
「あのー、僕、自閉症なんだけど、知ってた?」
「うん、知っているよ、昔から」
「ならよかった。僕、自分のことをしゃべるの苦手だから、【まさみ】さんからしゃべってくれるとありがたい。それとできたらゆっくりしゃべってほしい」
「なんか、【まさみ】さんって他人行儀だなあ」
「えっ、だって僕たち他人でしょ?」
「そうだけど……。まあいいや、じゃあ話すねけど、こういうときってまずはお客さんに飲物とか出すもんじゃない」
「そっか、そうだよね。何がいい?」
「ビール」
 ビール? こういうとき、ビール出すって一般的なのかな?
 一階に駆け下り、冷蔵庫を開ける。ありました。箱根、丹沢の伏流水を使って醸造された箱根ビールが。母の週末の楽しみを一本拝借。
 【まさみ】は用意したグラスを使うことなく、ボトルのままビールを煽った。
「ぷはー、昼ビー、最高」
 昼ビーって、昼間に呑むビールって意味だよね。昼間と夜では、ビールの味が変わるのか? 僕にはよく分からない世界だ。
「じゃあ、話すね」
 しばらく会ってなかったから、近況報告からと言って、【まさみ】は語り始めた。
「市内の県立高校を卒業して、短大に進学したの。専攻は家政科。つまり良妻賢母になるための教育を受ける学校に進んだわけね。大学で授業を受けていても、何か違うなって感じてたの。でもやりたいことがあるわけでもないし、何となく単位を取って、何となく就活してって感じで時間が過ぎていった。二年生になって、キャバ嬢になった。深い理由はない。別にお金の困っていたわけでもない。ただ何となく。いろんな世界を覗いてみたかったのかな。お客さんはいろいろで結構面白かった。男の人たちってみんな、女の子にもてたいから、自慢話しばっかり。しょうもない男もいたけど、なかには魅力的な男もいた。キャバで盛大にお金使って、盛大に仕事の自慢話ができるって、それなりの男だったりするわけ。そういう人の話を聞くのが楽しくて仕方がなかった。黒沢もそんな男の一人だと思ってたんだけど、違ったんだよね。私には男を見る目がなかったってことだね。
 あと、内定を取り消された件についても話しておかないとね。私、内定式の日に吠えちゃったんだよね。その日はまず式典があって、社長のありがたい講和を聞くわけ。その後、制服の採寸と職場体験が予定されてた。今、考えてみると女性に制服を着せるような会社に入らなくよかったと思ってる。
私が吠えたのは職場体験の時間。何やらされたと思う? お茶汲みだよ、お茶汲み。しかもやらされるのは短大卒の女性職員だけ。頭きちゃって、そんなに飲みたきゃ自分でいれろ、って総務部の部長に悪態ついちゃった。で内定取り消しとなったわけ」
 その後も六本木での生活のことやロシア旅行のことなど、彼女のマシンガントークは止まることを知らなかった。ちなみに黒沢龍吉宅に転がり込んでから、キャバクラの仕事は辞めたそうだ。今は小田原の実家に戻って、受験勉強中とのこと。実家に帰ってから、黒沢には会っていないらしい。来年、大学を受け直す予定で、四年制の大学で社会学の勉強がしたいのだそうだ。
 彼女の一人語りはとても心地よかった。ずっと聞いていたいと思った。
 話が落ち着いた頃、彼女の前には空のビール瓶が五本並んでいた。
 母さん、ごめんよ。
 自分の話が一段落すると、僕にこんな問いを投げてきた。
「私ばっかりしゃべってるの不公平だよ。【みつる】くんのことも聞きたい。そうだな……、そう、パパがね、【みつる】くんを天使のようだって言ってた。包容力があるって。それって自分ではどう思う?」
 そんな難しい質問しないでよ。
 考える、必死に。僕は次のように返した。
「人は意見の食い違いに反発するよね。でも僕が正反対の意見に反論することはない。感情の起伏に乏しい僕にとって、意見の対立は不快なものではなく。だから反論の必要がない。人の言うことをそのまま受け止めてしまう。だからかな」
「なるほどね。天使だね。そして名探偵」
「探偵? 僕が?」
「そうだよ。しかも名探偵。だって、私の居場所やつき合っている男性の名前まであっという間に調べちゃったんでしょ。すごいじゃん!」
 彼女との楽しい時間はあっという間に過ぎた。日が暮れるのがすっかり早くなった。そんなことをしみじみと感じながら、彼女を見送る。別れ際に彼女が言った。
「これからもよろしくね、ひきこもり探偵さん」
 ひきこもり探偵――
 うん、悪くない。

【第二章に続く】


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