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私の名はグレーテル。


「この家はおかしい。なんだかとても厭だ」
 ヘンゼルが言った。
あがなう彼をベッドに横たわらせ、わたしはハンカチでその額を優しく拭いた。
「どうも落ちつかないよ。厭な臭いがする。これは何の臭いだ?」

これはひとの身体を焼いた臭い。髪と爪と血液を抜かずそのまま焼いた人肉の臭い。それに炉内で酸化した脂の臭いが混ざっている。炉はずいぶん掃除をしていないようね。臭いが壁に染み込んでいる様子から燃やした遺体の量が察せられるわ。

 わたしのいた孤児院では反抗的な子や脱走して連れ戻された子、体罰の末に死んでしまった子たちは炉で焼かれた。その掃除をするのもわたしたち。だからみんな大人に歯向かわないおとなしいいい子に育つわ。
わたしは微笑みながら胸のうちでそっと囁いた。

ねえヘンゼル、あなたには想像も付かないでしょうけれど、こういう臭いならこの国のどこにでも漂っている。いちばん馴染み深いのは死体で作る堆肥の臭いね。親を亡くし何日も食べるものがなく飢えてうずくまる子供、彼らは数少ない観光客からは見えない人家の庭や畑、店の裏に集められる。死なれてからの移動はやっかいなので、いつからか町の者は死にそうな子供を見つけると優しい言葉をかけ手慣れた様子で自分の家の庭に連れていき、ネズミの発生を抑えるための石灰と発酵を促進させるためのモミガラを敷き詰めた深い穴に息のあるうちから落とし込み土をかける。それを栄養にして穴の脇に植えられた作物がすくすくと生長する。すでにそれが我が国の重要な生態系のひとつとなっている。その町中に溢れているのがこんな臭い。
だけど…。ここは深い森の奥。どうしてこんなに死体が多いの?

ヘンゼルが眠りに落ちたことを確認してわたしは窓の外を覗った。暗い暗い森が広がるばかりだ。あたりにはもちろん店も畑もなく町からも遠く深い谷に阻まれた地だ。交通手段を持たない国民が行き来できる場所ではない。
組織支給のGPSですらこの家を認識していない。ここにはなにもないはずなのだ。迎え入れてくれたあの老婆はどのように食料を得ているのか。さきほど出された食事は黒パンと外国人向けの支給品と思われる缶詰だった。やはり反社会分子の隠れ家か。

今朝、わたしたちは突然の襲撃を受けた。静かな午後森の奥の花畑でヘンゼルのためにわたしが作った花冠が突如弾け飛んだ。漂う火薬の臭いにわたしはヘンゼルの手を取りすぐに木の陰に隠れた。ライフルの銃弾はわたしたちをかすめながらあたりの木々に深い穴を開けた。木々や土や花が砕け散る。
猟師の誤射などではなかった。襲撃は明らかにわたしたちを狙っていた。ヘンゼルの目の前では反撃もままならず、わたしたちは逃げるしかなかった。

 どういうことだ? わたしの任務は今日終了する予定だった。この森でわたしが事故にみせかけてヘンゼルを殺し姿を消す。それですべては終わるはずだったのだ。あのスナイパーを差し向けたのは誰なのか。
 木々が途切れた斜面にさしかかったとき、足下の土と木の根が激しい掃射音とともに一面はじけた。ヘンゼルは咄嗟にわたしを抱きかかえ暗がりに転げ込んだ。わたしの頭を手のひらでしっかりと抱え込んでいる。恐怖に震えながらそれでもわたしを守ろうとする強い意思を感じ、わたしはあの奇妙な感覚にとらわれながら彼の背をそっと抱きしめた。
 息を潜めていると何事もなかったかのように森に静けさが戻った。
 
「すまない、グレーテル」
荒い息を整えたあと、ヘンゼルがわたしの耳にささやいた。まだ声が震えている。
「怖い思いをさせてしまったね。きっとあのスナイパーはぼくを狙っているんだ」
 話が読めず促すようにわたしはヘンゼルの顔を見た。木々から差し込む淡い光が彼の普段穏やかな青い目を揺らめかせて見せた。
「黙っていたけれど、今日ぼくたちはこの森に潜む地下組織と合流する予定でいる。この国を出て西側に逃げるために。組織へのお土産を持ってね」
 お土産?
 眉を顰めるわたしにヘンゼルは悲しげに微笑んだ。
「僕の病気を知っているだろう? この国に治療法は確立していない。西側なら治せる。そう知って父さまは何度も出国願いを出した。だが受理されなかった。三年前にはこの病気で母さまも亡くなった、そのときも同じだ。元首閣下はお許しにならなかった。だから父さまは亡命を決意したんだ。西側へ脱出させてくれる組織と密かに連絡を取り、今夜隠れ家にいくことになっている。誰にも言っていないのに、どうしてばれたのか。父さまは……大丈夫だろうか?」

 そんな計画をたてていたのか。お父様は無事よと囁きたいのをこらえて、わたしはなぐさめるように彼の背をそっと撫でた。
 彼の父親は世界的にも有名なチェロ奏者で元首閣下のお気に入りだ。今夜は復活祭コンサートだし、なにがあろうと首席チェリストが「処分」されるはずがない。
邪魔なのはヘンゼルだけ。母親に続いて不治の遺伝病を十六歳で発症し、優秀なる我らがチェリストを苦悩で消耗させ、亡命さえ模索させて、きたる元首閣下のご生誕祭コンサートに水を差しかねない、このヘンゼルだけ。彼さえ消えればチェリストは亡命を諦め、そしてその嘆きは彼の演奏に一層の深みを与えることになるであろう。国家保安機関はそう読んだのだ。

 このミッションは三ヶ月前、彼の父親の亡命計画を機関がつかんだことに始まった。彼らはすぐに手をまわした。「生き別れていた娘を見つけた」と称してわたしを送り込んだのだ。ヘンゼルを「事故」死させる任務を帯びたこのわたしを。
 
 私の名はグレーテル。もちろんわたしの本名ではない。ヘンゼルと幼い頃森で生き別れ、行方不明となった妹の名だ。
 ヘンゼルたちは疑うこともなくわたしを受け入れた。そしてわたしが死んだ母親とよく似ていると言って喜んだ。 
 当然だ。情報局に残っている母親の写真をもとに、たくさんのこどもたちのなかから似ているわたしが選ばれたのだ。彼らの母親により似せるためにわざわざ明るい銀色に髪を染めて。

ぼくにこんなに可愛い妹がいたなんて嬉しいとヘンゼルは言った。
「ぼくたち、長いこと離れていたけれど、それを取り返そうね」
 わたしはそっと首を傾げた。それはどのような意味だろう。
「ぼくに甘えてくれたらいいんだ。きみのためならなんでもしてあげるから」
 わたしはいささかひるんだ。難問だ。甘えるとはどうすることだろう。どうすれば彼に「甘えられている」と認識されるのだろう。苦渋の末わたしはとりあえずそっと微笑んだ。訓練で得た「邪気のない優しい」微笑み。
あらゆる訓練のなかでわたしはこれが一番苦手だった。わたしは笑ったことなどなかったので表情筋を動かす訓練から始められた。
もっと口角をあげろ。口角だけだ。睨むな。目を細めろ。顔が強ばっている。顎を引け。眉を上げろ。それらを同時に行え。自然にだ。

屈辱的だった。わたしはパスワードの解明や毒やナイフの扱い方、素手での戦い方、銃の解体や組み立て方、爆弾の作り方などは優秀点を取ったが、「優しく微笑む」ことはなかなか合格することができなかった。だが、十四歳の娘として送り込まれるのだから、「無邪気さ」と「愛らしさ」は必須なのだ。
 担当官は厳しかった。
「秘訣を教えよう、121号。まずは相手を好きになることだ。心を許すことだ。心を開いて受け入れる。そうすれば努力しなくても自然に君は「無邪気さ」と「愛らしさ」を得るだろう。いまは難しいかもしれないが」
 好きになる? 心を許す? どういう状態なのか想像だにできなかった。それがまかり通る世界さえあるとは思われなかった。
 しかし心配は杞憂に終わった。なんのことはない、わたしが唯一会得した「優しい微笑み」さえ浮かべて彼の傍に居ればヘンゼルは喜んでくれた。わたしが何もしない方が彼は喜んだ。彼はわたしの面倒をみたがった。本を読み聞かせ、音楽を聴かせ、テレビを一緒に観る。すべてはぎこちなく恥ずかしそうに、それでいてとても嬉しそうに。
 彼は優しく髪を撫でる。彼の母親に似せて染めたわたしの髪を。そしてわたしを抱きしめる。その仕草を真似て、わたしも彼の髪を撫で、彼の背中に手をまわす。兄妹とはこのようなことをするのかとわたしには新鮮な驚きだった。わたしはいままでこんなにも近しい距離で誰かと居たことがなかった。ひとはいつもわたしを冷たく眺め欺き罠を仕掛け試し命令し意にそぐわなければ罰を与える恐ろしい存在だった。
 彼は優しい。わたしに触れる手さえ穏やかで温かい。わたしを見つめるそのまなざしを見つめ返していると、わたしの脳裏に奇妙な感覚が、イメージが浮かんでくる。ずっとむかし、だれか、こんなふうにわたしを見つめてくれたひとがいた、そんな感覚だ。ばかばかしいと振り払うのだが、それは執拗に浮かんでくる。どこか美しい森の中でそのひとは美しい緑色の大きな目をしていて愛おしそうにわたしを見つめる。わたしの頬を撫で、光の中で輝くように笑う。髪の色がわたしと同じブルネットで、優しくわたしを抱き上げ名を呼ぶ。……それはなんと言っているのか思い出せない。
 ばからしい。わたしは121号。名など持たない孤児だ。慈悲深い元首閣下が父となり育ててくださったのだ。
 だがそのイメージが浮かぶたび、なぜか胸が苦しくなる。視界がぶれる。
 愚かな感傷を振り払い、肩を震わせながら彼の胸に頬を押しあて、彼の心臓の鼓動を聞いた。任務を。この任務を遂行しなければ。「好きになる」「心を許す」。「心を開き」彼のことを「受け入れる」。温かいものが流れ込んできそうで必死に食い止める。指が震えた。
 わたしの名はグレーテル。わたしの任務は、ヘンゼルを死に至らしめること。
 
 オオカミの声におびえながらスナイパーから逃れ、わたしたちが地下組織「黒い森」の隠れ家にたどりついたのはあたりが闇に包まれ始めた頃だ。その家はねじくれた木々の合間に隠れるように建っていた。古びたドアを叩くと黒衣の老婆が現れわたしたちにカンテラをかざし、笑った。
「『お菓子の家』へようこそ」。
 黒衣に包まれたもじゃもじゃの薄汚れた白い髪と皺の深い肌、わし鼻、曲がった背中。まさしくおとぎ話の魔女そのものだ。
 天井の低い妙に傾いだその家に足を踏み入れたとき、ヘンゼルはさっと青ざめ抵抗した。
「グレーテル、ひどい臭いだ、この家に入りたくない。きっと僕たち間違えたんだ」
「どうしたんだい?はやくおいで。部屋に案内するよ」
 二階に続く階段で老婆の苛立ったような声にそっとヘンゼルの背中を押した。ほかに行けるところはなく、彼は疲れ果てている。とにかく休ませなくては。
 幸い用意された部屋は暖炉に火が灯されて暖かく、食事を済ませたヘンゼルはすぐに深い眠りに落ち、わたしは窓の外を眺めていた。
ここが反社会分子「黒い森」の隠れ家? いいや、ここはただの殺人鬼の家ではないのか? あの老婆が付けていたブレスレット。あれはひとの指の骨でできているのではなかったか?

ふと気づくと眠っていたはずのヘンゼルが眼を開けていた。ぼんやりとした表情でわたしを見つめている。
「いっしょに行こう、グレーテル。ぼくが連れて行ってあげる」
 掠れ声でささやいた。
 見ると額に汗をかいている。わたしはハンカチでそっと汗を拭く。熱が出ている。薬を飲ませなくては。
「西側には自由があるという。何を言っても捕まることはなく、したいことができるんだ。心のままに笑ったり泣いたりできるし、身に覚えのない罪で突然収容所に閉じ込められることもない……」
 わたしは困ったように微笑んだ。
 わたしにはわからない。そんなことは想像もできないし、この世にあるとも思われない。あったとしてもそれは知らない方がいい。わたしには生涯関係がないのだから。
 ヘンゼルがわたしの手を握りしめる。
「いっしょに行こう? グレーテル」
 わたしは微笑み続けた。
 そんなことを言わないで。あなたをこれから殺さなくてはならないわたしに。
 
 そうだ、知らない方が良いのだ、なにも。わたしは知らなければ良かった。あなたのことも、あなたのお父様のことも。その温かさや優しさも。おいしい食卓や優しいまなざしも和やかな会話も。あなたを殺してまたひとりに戻った後も知らなければ耐えられたのに。
言われるままに元首様に感謝できたのに。
 わたしにはもうわからない。あなたを殺し、この任務を終えたあと、また、ただの番号に戻り、また、人を殺す任務に就く。これからも、人を欺きわたしに微笑んでくれる人を殺す、そんな任務につく。それをどうやって耐えれば良いのか。

 いいや、なによりも。ヘンゼル、ヘンゼル。わたしはあなたを殺したくない。どうしても殺せない。そんなこと、できない。ここまで時間がかかってしまったのはこんな愚かな感傷が邪魔をしたからだ。愚かな、ああ、なんて愚かな。でももうどうしたらいいのか、わからない。この優しい手を失いたくない。この春の陽射しのような温かな眼差しを無くしたくない。
 ああ、苦しい。悲しい。つらい。恐ろしい。こんな役にも立たない感情は知りたくなかったのに。
 思わず溢れた涙に驚き、隠すようにうつむいた。ヘンゼルが優しく髪を撫でてくれた。
わたしの名はグレーテル。わたしの任務は彼、ヘンゼルを死に至らしめること。

そのとき。扉の向こうで微かに撃鉄を起こす音がし、ふわりと毛が逆立った。ヘンゼルに音を立てないよう手で示し、部屋に入ったときから暖炉で熱しておいた火かき棒を手に持った。わたしの様子に驚いたように目を見張るヘンゼルに、ベッドの下に隠れるよう指示する。スカートの下に隠し持つ任務のための銃は彼に見られたくなかった。
ランプの灯りを落とすとゆっくりとドアのノブが動き出した。わたしはそっとドアの脇に立った。
 それは音も気配も消した完璧な侵入だった。しかしどんなに男が闇にまぎれて密やかに動いたとしても、森の闇に目の慣れきったわたしにその姿は明らかだった。大柄の男は部屋が暗くベッドにも誰もいないことに戸惑うように足を止め、その一瞬をわたしは逃さなかった。相手のあばら骨の下、脾臓の位置に火かき棒を突き立てる。
 「がっ」とも「ぐっ」ともとれない叫びをあげてゆっくりと男は膝をつき、床に倒れ込んだ。ぶすぶすと熱い火かき棒が体内を焼く臭いが広がる。この家に充満するのと同じ臭いが。足下に転がった男の銃を蹴り飛ばしわたしはその顔を見て驚愕に息をとめた。それはヘンゼルの家に長く勤める運転手だった。 

 苦痛に顔を歪めながら男はわたしの表情を見て笑うように頬を引くつかせ、囁くような声でいった。
「お…まえがいつま…でも、手を……下さない…からだ…」
 ごぼりと血の固まりを吐く。
「だ…から、俺に……処分するよう…、命令が下ったのだ…。チャンスは…いくらでも……あったはずだ……。なぜだ? 機関を…裏切るのか……? ひゃく…にじゅういち……号?」
 
 え?

 わたしは目を丸くしてしばらく男を眺めた。
 裏切る? わたしが? 機関を?
 光が射すような想いがした。思いつきもしなかった。そうか、裏切ればいいのだ! 機関を裏切ればヘンゼルを殺さなくて済むのだ! そして彼といっしょに自由の国に行けるのだ!
 力が抜けて床に座り込んだ。その瞬間わたしの髪をかすったものが床に食い込んだ。反射的に身を伏せる。次の銃弾は正確に運転手にとどめを刺した。窓ガラスが砕け散る。表に他のスナイパーがいる!
「ヘンゼル、この部屋から逃げて!」 床を這いながら叫ぶ間にも銃撃は容赦なく襲いかかり、わたしの腕をかすった。
「グレーテル!」
 弾けた血を見てヘンゼルが叫ぶ。だめ! そこにいて! 
 そのときだった。  
「こどもたちっ! 伏せておいでっ!」
 突然の怒鳴り声に振り向くと、戸口に肩にパンツァーファウストを担いだあの老婆がいた。間髪入れずに引き金を引く。わたしはヘンゼルに駆け寄りその身を庇う。白い光が闇を裂き、爆風が家を揺さぶった。そっと顔をあげると、粉塵の切れ間から壁一面とその向こうの森の一画が消えてなくなっているのが見えた。木々は燃えその枝から断末魔の叫びをあげながら火のついた袋のような人間が落ちていくのが見えた。
 さすがは対戦車兵器。やはりここは地下組織「黒い森」の隠れ家。そしてこの老婆が「黒い森の魔女」……。
 いまでは黒衣を脱ぎ捨てすっきりと背中をのばした老婆がわたしの殺した運転手の死体の脇に膝を立てて傷跡を見ている。
「いい仕事だ」感嘆したようにわたしを見た。その瞳。わたしは魅入られたように老婆の目を見つめた。どこかで見たことがある、皺だらけの皮膚の奥の、美しい、大きな瞳。老婆はふっと微笑み近付いてわたしの頬を撫でた。はっとその手に自分の手を重ねた。
 知っている! わたしはこの手を知っている。わたしを優しく撫でてくれる手……。
 老婆はかつらごと仮面を剥いだ。その下にあらわれた若く美しい女性。ブルネットの髪。美しい緑色の瞳……!
「あ……、あ!」
 そのひとは美しい緑色の大きな目をしていて輝くようによく笑う。髪の色がわたしと同じで、優しくわたしを抱き上げ名を呼ぶ……。
「ユリーカ! 覚えているかい?」
 
「マーマ!」
 わたしは叫んでいた。泣いていた。幼い頃のように抱きつき何度も叫んだ。
「マーマ!」
 母はあのときのようにわたしを抱きとり、あでやかに笑った。その頬が涙で濡れている。わたしを抱きしめキスの雨を降らせる。わたしは己の感情に記憶に戸惑い混乱した。
「なぜ…? わたしは…、元首様に拾っていただいた捨て子で…」
「違う!」
 母は両手でわたしの顔をはさみ、目をのぞきこんだ。その目は稲妻のように怒りで震えている。
「捨てたんじゃない。攫われたの! こども狩りに。集めたこどもたちを洗脳し、使い捨てにする、悪魔のような連中に! おまえを奪われてから必死に探し、どこにいるかはすぐにわかった。けれど守りが厳重で……。おまえを取り戻すには任務を受けて表に出てくるのを待つしかなかった。だからヘンゼルたちから亡命の話がきたとき協力してもらったの。機関に入り込んでいる仲間に母親の写真をおまえそっくりに加工してもらい、おまえに任務がまわるように。彼の母親の髪の色までは変えられなかったけれど」
「お土産というのは君のことだったんだよ、グレーテル」
 そう微笑むヘンゼルの顔色が悪い。
「それが西に逃げるための条件…」
膝をつく彼の足下を見てわたしは悲鳴をあげた。血だまりが足を伝って床に広がっていた。
「破片でやられたね」
 母は足の根元と傷口に布を巻いてくれてわたしに言った。耳元につけたイヤホンマイクからの声に短く応えて、
「この場所はばれた。いま戦闘機がここに向かっている。あと十分もしないで空爆が始まるだろう。おまえたちはお逃げ。ユリーカ、ヘンゼルを担いでいけるかい?」
 わたしはうなずいて彼を肩にかついだ。だいじょうぶ。50キロの砂袋を持って夜中の山を走り回る訓練に比べればこのくらいどうってことはない。
 地下におりると母はかまどの扉をあけ、その奥を杖で突いた。レンガが崩れその向こうに暗いトンネルが続いているのが見えた。
「ここを通ってお行き。先に逃れたひとたちが出口で待っている」
「マーマは?」
 母はいたずらっぽく笑って首を振った。
「今夜はお城で舞踏会だ。主賓で呼ばれているんだよ」

 ここでお別れなのだ。会えたばかりなのに。わたしは母の手を握りしめた。
「さあ、時間がないよ、お行き」
 わたしの背を押してかまどの扉を閉める一瞬母はあの瞳でわたしを見つめてくれた。そして大きくうなずいてくれた。
 炉内はあの臭いが満ちている。足下には骨が積みあがっている。わたしはカンテラを高くあげ地下道へ足を踏み入れた。
「グレー……テル。ごめん…」
「だいじょうぶよ、ヘンゼル」
 彼はわたしに言ってくれた。いっしょに行こうと。ならばわたしが連れて行こう、力の限りを尽くして。
「いっしょに……行こう……。自由の…国へ……」
「ええ」
 わたしがあなたを連れて行く。ヘンゼル、わたしはあなたと生きたい。自由の国であなたとだれに咎められることなく、笑い合いたい。歌いたい走りたい大声を出したい。そんなことが可能なのだろうか。本当にこの先にそんな国があるのならば、わたしは……。
 暗く狭い道が輝いて見えた。
 
 魔女はかまどの扉を閉めて瞑目した。  
 あの少年は血液が止まらない病だときいた。隣国まで持たないかもしれない。やれやれ。今夜生き残れる人間は何人いるのやら。
 そして夫の骨で作ったブレスレットに口づけた。西側に抜けるトンネルを掘り共に逃げようとした日、こども狩りの襲撃に遭い戦って命を落とした彼女の夫の骨に。
 あの子、すぐにわかったわ。あなたに目元がそっくりだった。とても良い子に育ってくれた。思い残すことはもう何もない。

 いちどに夫と娘を失った彼女はここに留まり「黒い森の魔女」となってひとびとを西側に逃がし続けた。彼女を狙い追ってきた機関の刺客は皆、息の根をとめてこのかまどで焼いた。やがて、反骨の徒が集まり彼女は地下組織のリーダーとなった。
すぐに空爆が始まるからここも今夜でおしまいだ。それまでに逃げ遂せてくれれば良いが。

 さあ、時間だ、お城にでかけよう! 
 武装した彼女の部下たちがかぼちゃの馬車のごとく戦車で待っている。
 今夜、復活祭コンサートが終わる時、改まって彼の席に行き握手を求める首席チェリストを元首は手を広げて迎えるだろう。そして彼の楽器の傍らに持つ銃に気付く。元首の腹に銃弾を撃ち込む役はどうしてもやらせてくれとヘンゼルの父親が彼女に頼み込んだのだ。
 そのとき元首はまわりの人間が彼を冷たく見返す者たちに入れ替わっていることに気付くだろうか。彼の取り巻きが皆、床で息絶えていることにも。
 だが元首閣下は用心深い。この舞踏会からはだれが戻って来られるかはだれにもわからない。魔女は時計を見た。もうすぐ開演の時刻だ。1曲目は元首閣下の愛するロッシーニのレクイエム。音楽をこよなく愛す元首閣下は演奏を邪魔した者を「処分」する。それを恐れる側近たちは閣下の判断を仰げぬままおのれらだけで対処しようとするだろう。そのあいだにわたしたちが機関を攻撃し首都を制覇する。
 国の主要な軍用機が反社会組織壊滅のためこちらに向かっているあいだにね。タブレット型のレーダーに映る無数の光点を眺め彼女はほくそ笑む。

「ユリーカ!ヘンゼルを亡くしても挫けるんじゃないよ!お前の人生はこれからだ!」
 愛しい娘にエールを贈り、黒い森の魔女は部下の待つ戦車に軽やかに乗り込んだ。

                 了

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