出会いと別れ

2019年9月11日、朝5:30。
突然の出会いが訪れた。

当時ジョギングを日課にしていた私は、いつもの時間に起きて、いつものシューズを履いて、いつもの扉を開けて、いつものように走り出そうとしていた。
が、この日はいつもと違う光景があった。

家を出て数メートル先の路地に、今にも倒れそうなほどか細く、ヨチヨチ歩きの猫がいたのだ。



私は近くに歩み寄って猫の様子を見たときに驚愕した。
体は痩せ細り骨が浮き出て、口からは出血、そして右目が閉じたまま開かない。
どう見てもこの猫は満身創痍だ。

私は「今すぐ保護しないと死んでしまう」と思い、何かに包んで運ぼうとタオルを取りに家へ戻った。
まだ寝ている妻に、「早朝から開いている動物病院探しておいて!」と一言だけ言い放ち、すぐに猫の元へ。

しかし、その間ほんの1,2分だっただろうか。
満身創痍の猫はそこからいなくなっていた。

「あの身体では遠くに行けないはず」
10分ほど周りを探したが見当たらない。

「あの身体ではすぐに息絶えてしまうだろう。早く保護してあげないと。」という焦りの気持ちはあったが、一方で「今日の仕事、詰まってるんだよな…」という現実へ徐々に引き戻されていく。

「もうあきるめるかー」
と思っていたその時、近くの小学校に向かってヨチヨチ歩く猫の姿を捉えた。

すぐに駆け寄った。
私の両眼と、猫の片眼が合った。
「逃げるかな?威嚇するかな?」と思ったが、猫は素直に私を受け入れた。
初めてこの猫を抱きかかえた。
軽い。
空のペットボトルを持ったような感覚だった。



家に連れて帰ったとき、妻はがんばって病院を探していた。
「ちょっと遠いけど、24時間の病院がある」
すぐに電話して事情を伝え、その猫を寅次郎のキャリーケースに入れて車で向かった。



車の中で猫は静かだった。
赤信号で止まる度、頭を撫でて命を確認した。
猫の片眼と目が合うと、なぜだろうか涙が出てくる。
まだ出会って30分も経っていないのに、私の中に「生きてくれていてありがとう」という感情が芽生えてくる。

気付いたら「お前はどんな人生を歩んで来たのか」と語りかけていた。
「結構、色々あってね。大変だったよ。」
「分かった、これからはうちでゆっくりしろよ。」
「でも、先住猫いたよね。奥さんの許可もいるだろうし、大変じゃない?」
「何とかなるよ」

そんな会話をしながら(している気分で)動物病院に着いた。



病院で分かったこと。
・性別はメス
・年齢は恐らく1歳くらい(これは後々見当違いだったことを知る)
・口の中の上顎に穴が開いている(口蓋裂)
・右頬に腫瘍があり、その悪影響が右目に拡がり、溶けてなくなってしまったのではないか
・恐らく左目も見えていない

これらのことを先生は淡々と話した。
しかし、その時の私は診断結果の重さを把握できないでいた。絶望的な状態であることを受け入れられていなかったのかも知れない。
「で、結局どうすればこの子は助かるんですか?」
と聞いた。
先生は、「手術しても治る可能性は低いし、何より手術代が20万円ほどかかる。それでもやりますか?選択肢として、野生に返すという道もある。」と言った。

私は、「この先生は何を言っているんだろう。可能性?お金?野生に返す?うちの子を?」
疑問と怒りしか浮かばなかった。

ただ、後々冷静に考えれば、先生からしたら我が家のことを気遣っての言葉だったのだと思う。
出会ったばかりのこの命を背負う必要はないのだと。

しかし、出会ってしまった。
出会えた。
この猫に対して、既に私は愛情を持っている。

「手術代は出します。何とかなりませんか。」と言葉を返した。
「すぐには無理でしょう。手術に耐えられる体力がありません。ご飯を食べて、身体を大きくしないと。」

よし、やることは見えた。
この猫を家へ連れて帰り、ご飯をあげて体力をつけて、手術をする。

妻へ電話しなければ。
さて、どう言おうか。
家族として迎え入れることに反対するだろうか。



「今、終わったよ。」
私は全て正直に妻に診察の結果を伝えた。
妻もさぞショックだっただろう。

しかし、次に妻が言った言葉は、
「名前、どうする?」
だった。
続けて、
「寅次郎の妹だから、さくらだね」

涙がこぼれ落ちた。
妻もこの猫を受け入れる覚悟を決めていたのだ。

こうして本当の意味で、さくらは私たちの家族となった。

私たちは家に着いた後、寅次郎でお世話になっているかかりつけの動物病院へ行き、さくらのセカンドオピニオンをお願いした。

やはり診断結果は変わらなかった。

しかし、落ち込んではいられない。
私たちにはやることがある。

寅次郎とは距離を置いた方が良いと先生から言われ、さくら専用の部屋をつくった。

そこでまずはご飯を食べさせようとした。

お皿にご飯を盛ったが反応しない。
「お腹は空いているはずなんだけど…」
お皿を目の前にずらしても食べようとしない。

「そうか、見えていないし、もしかしたら匂いも感じていないのかも」
妻が指先にご飯を乗せて、口元へ持っていった。
それでも食べず、途方に暮れながら何度もチャレンジを続けた。

30分くらい経っただろうか。
天下のちゃおちゅーるも試した。
すると、ゆっくりと口を開いて、恐る恐る妻の指先からちゃおちゅーるを口に入れてくれた。
「あー、良かった…」
そこからさくらは、少しずつ、少しずつ、
ご飯を食べ始めた。



その日の夜、さくらの部屋がある2階の方から鳴き声が聞こえた。
初めて聞いたさくらの声。
細くて小さい、
誰かを探しているような声。

私はこの日からさくらと一緒に寝るようにした。

ちなみに、さくらはほとんど動かない。
多くの時間をざぶとんの上に横たわり、ごくたまにヨチヨチと歩き、歩いたその先でまた横たわる。
そして私はさくらをざぶとんの上に戻す。
たまに誰かを呼ぶような声で鳴き、ご飯を与えると少しだけ食べる。
そんなことを繰り返す日々だった。



2日目あたりだっただろうか。
仕事を終えて帰宅し、妻とさくらの部屋にあるベッドで横になりながらテレビを見ていた。
さくらが自力でベッドに上がり、私たちの方へ歩いてきた。
さくらの体力が戻ってきたと喜んだ。
さくらの心が私たちに歩み寄ってきたと喜んだ。

しかし、次の日以降、ご飯を食べる量が減ってきた。
ご飯を少しでも食べると、口蓋裂の影響なのか血を吐いてしまう。
病院からスポイトと栄養剤をもらい、口から吸入するようにした。

私も妻も、とにかく辛かった。
唯一の救いは、今ここにさくらがいて、家族で過ごす時間があるということ。
この時間がいつか終わってしまうのではないかという恐怖と戦いながら、私と妻は1秒でも長く一緒にいられるように、さくらと共に過ごした。



さくらが来て5日目のこと。
私の仕事はアスリートのマネージャーなのだが、この時横浜で国際的なスポーツの大会が行われており、私は担当するアスリートと解説の仕事で現場に来ていた。

その時、妻からの電話が鳴った。
「さくらの様子がおかしい」

いてもたってもいられず、私はそのアスリートに事情を伝えた。
「さくらのもとへ行かせて欲しい」
そのアスリートは一言「行ってあげてください。」
普通なら、猫のために大事な現場を離れるのか?という疑問を持つはず。
しかし、そのアスリートは動物への愛情が非常に深い方。
私はその優しさに涙を堪えながら家に向かった。



さくらは一時的に呼吸が苦しそうな状態だったが、私が帰った時には少し落ち着いていた。
ほっと胸を撫で下ろし、この日はさくらの部屋でみんなでご飯を食べた。
1日でも、1秒でも長く、この時間が続いて欲しいー



さくらがきて一週間が経った2019年9月17日。
さくらに「行ってくるね」と告げて、私は会社へ向かった。

お昼前の11時頃、妻から電話が入った。

「さくらが今、息を引き取りました」


私はどこかで覚悟はしていたと思う。
しかし、それが現実に訪れた時にその覚悟は脆くも崩れ去る。

そのあと妻が何かを話していたが、ほとんど覚えていない。
唯一、さくらは最期にふーっと息を吐き切って、妻の腕の中から旅立った、ということ。

私は会社を早退しさくらのもとへ。
ありがたいことに、妻が一人では辛いだろうからということで、いとこが付き添ってくれていた。

月並みな表現かもしれないが、さくらの表情は穏やかだった。
しかし一方で私の感情はぐちゃぐちゃだった。
「さくら、うちに来てくれてありがとう」
「さくら、あの時俺と出会って良かったの?」
「さくら、お願いだからもう一度息を吹き返してよ」
これらの感情が数秒ごとに入れ替わる。

それでも人は、涙が枯れ果てると、ふっと心が落ち着く瞬間が来る。
受け入れたくない現実を受け入れ始める。
さくらとの思い出を振り返りながら、私はお酒を飲み始めた。


翌日、さくらを埋葬しに施設を訪れた。
施設の方は私たちの心に寄り添ってくれた。
さくらとの別れの時間を急かすことなく、好きなだけ時間を与えてくれた。

仕事現場を離れることの背中を押してくれたアスリート、
たくさんのありがとうをさくらに伝える時間をくれた施設の方、
この方々のおかげで私たちは少しの時間でも長くさくらと一緒にいることができた。
心から感謝している。

さくらの火葬が終わり、遺骨を見た施設の方から驚きの言葉があった。
「さくらちゃん、子どもじゃないね。10歳は超えているんじゃないかな。骨がキレイでしっかりしているよ。」

この言葉に私は驚き、そして救われた。
「さくら、ちゃんと生きたんだ」

私は、さくらがこの世に生を受けて、1年足らずで病気または事故に遭い、人の愛情を受けて生活できたのはわずか1週間だった、と思っていた。
しかし施設の方から教えてもらった事実に、さくらの歴史を感じた。
人への警戒心がそれほどなかったさくらは、どこかで人の愛情を受けて、幸せに暮らしていたのではないだろうか。
それが何かしらの事情でその家から離れてしまい、ヨチヨチ渡り歩いた先が私たちの家だったのではないか。

心のどこかに「さくらは幸せではなかったのではないか」という疑念を持っていたが、
この事実を知れたことで、「さくらは幸せな人生を全うしたのかも知れない」という希望を持つことができた。
もちろん確証はない。しかし、希望を持つことができた私の心は救われた。

全ての手続きを終え、骨壺に入ったさくらを抱き、家に帰った。

妻が、いつでもさくらを見られるようにとリビングにさくらのコーナーをつくった。
ご近所の方が、さくらの毛でキーホルダーをつくってくれた。

さくらとともに過ごしたのはわずか1週間だけど、その思い出たちと共に、今は1年と1週間を一緒に暮らしている。
それは、これからもずっと。

さくらと出会ってからちょうど1年目の2020年9月11日、きれいな虹がかかった。
さくらが、虹の橋で待ってるよと言っているのかもしれない。

追伸
寅次郎との出会いから書き始めたこのnote。実は始めから本日9/17にさくらのことを書いて最後にしようと思っていました。
理由は一つ。
さくらの最後を看取った妻へ、メッセージを送りたかったからです。
妻へ、
恐らく、さくらが旅立ったときの映像、部屋の匂い、さくらの体温や重みは今でも焼き付いていることでしょう。
一緒に看取ってあげられなくてごめん。
この瞬間を共有できず、とても重いものをあなた一人に背負わせてしまってごめん。
でも、あなたがいたおかげでさくらは最後まで家族の手の中にいることができました。
ありがとう。