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今の北海道があるのは命令無視の軍人のおかげ、という話

どうもこんにちは、とらぎつねです。
今回は北海道に住む身でありながらまったく知らなかった樋口季一郎という人物についてご紹介します。
多分、知らない人が大多数だと思うのですが…実はめちゃくちゃ凄すぎる人で、あなたも間接的に彼の恩恵を受けていることかと思います。
北海道産の食べ物は、食べたことありますか?
北海道旅行をしたことはありますか?
北海道に住む友人や親戚はいますか?

実は樋口さんがいなければ、北海道は日本ではなくなっていたかもしれないのです。
今回は簡単にですが、そんな樋口さんの3つの武勇伝をご紹介いたします!
ほんと、みんなに知ってほしい…。

<武勇伝・壱 2万人のユダヤ人を救え>

樋口季一郎は1888(明治21)年、淡路島で生まれます。
学生時代はロシア語を熱心に勉強し、陸軍の軍人として満洲国に派遣されました。
そこで彼は当時、ナチス政権から迫害されていたユダヤ人たちを前に

「ドイツはユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えるべき」

と演説し喝采を浴びます。
そして満洲国がユダヤ人たちにビザを発行し入国を許可することを渋っていたため(日本とドイツの関係性に忖度したものと思われる)、樋口さんは満洲鉄道社長に直談判。
満洲国の政府も説得し、上海までの列車を確保してアメリカへ脱出するルートを作り上げました。
これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、このルートを通り累計2万人のユダヤ人が亡命に成功したと言われています。
(正確な人数は当時の資料からわからないそうですが)

しかし日本はドイツと同盟を結んだばかりであり、これに対しナチスが「ヒグチを処分せよ」と何度も抗議文を送ってくる事態になりました。
軍部でも彼の勝手な行動に対し批判の声があったそうです。
だがしかし!呼びつけられた樋口は東條英機の前で堂々と

「ヒトラーの片棒を担いで弱いもの苛めをするのが正しいとでも言うのですか。日本はドイツの属国ではない。」

と主張。
あくまで人道的な措置であったと東條英機にも認めさせ、ドイツからの抗議文を突っぱねています。


<武勇伝・弐 5000人の日本兵を救え>

1943年、第二次世界大戦の真っ只中に樋口はアラスカ・ベーリング海にあるキスカ島にいました。
ここはアッツ島と共に日本軍が占拠していましたが、徐々に東南アジア方面に軍備が割かれるようになり、アッツ島・キスカ島は戦略的に重要性を失っていきました。
そんな中、大本営(当時の大日本帝国軍総司令部)から「島を放棄し撤退せよ」との命令が下ります。
しかしその命令が下ったとき、既に両島とも米軍の軍艦に囲まれた状態でした。
しかもアッツ島には米軍が上陸し、17日間に及ぶ激しい戦闘の末、日本軍は全滅します。
残る者たちだけでも撤退させようと、大本営は最初潜水艦による脱出を試みますが、これはうまくいきませんでした。
米軍はこの当時で最新鋭のレーダーを使用していたのです。
脱出の効率を考え、撤退作戦は水上軍艦で行われることになりました。
キスカ島はよく霧が立ちこめる気候で、その霧の中に紛れて軍艦を接近させる作戦でした。
しかし前述したように米軍は最新鋭のレーダーを使っています。
霧で見えなくても、レーダーで捉えられてしまいます。
どうするか…?
作戦としては、米軍と戦闘になっても霧に紛れて日本兵を救う内容となっていました。
ただ、このキスカ島撤退作戦は日本兵が1人も死ぬことなく脱出しています。
これについては奇跡が起きたと言っていいでしょう。

なんと日本の軍艦が接近する2日前、軍艦の形に似た岩礁を敵艦と誤認した米軍は、岩に向かって一斉砲撃を行ったのです。
しかもそこはアメリカ。島を囲っていた全ての戦艦がパーティーのように一斉に砲撃祭りに繰り出しました。
その結果どうなったかと言うと、弾薬不足です。
米軍は補給のため、近くの島にある基地まで向かってしまいました。

手薄になった上に霧で囲まれているキスカ島。今がチャンス!!
日本軍も米軍が補給のため島を離れていることは知りません。
1秒でも早く脱出するため、樋口は全兵士に三八式歩兵銃を放棄するよう命令しました。
その結果、約5200人超の兵士たちを僅か55分で完全撤退させることに成功したのです。

この後、キスカ島に戻った米軍はいよいよ日本軍をアッツ島の如く制圧しようと島に向かってまた一斉砲撃祭りを開始。
安全に上陸し、日本軍との戦闘に備えて進軍しますが、既に日本人は誰もいません。
敵と誤認して同士討ちをしてしまい、100名余りの米軍人が亡くなっています。
後にアメリカ側から「あれはパーフェクトゲームだった」と言わしめるほどの撤退作戦になりました。

<武勇伝・参 北海道を救え>

日本軍はご存知の通り戦争では追い詰められ、ついに無条件降伏を決めました。
今でも終戦記念日とされている8月15日。
この日に天皇陛下によるラジオ放送があり、日本は戦争に敗けたと全国民に伝わったのです。
さて、この時の樋口さんはどうしていたか?

飲んでました(笑)

いや、誤解のないように言っておきますと、この時も樋口さんは島にいたのです。
北方領土となっている占守島。
ソ連(当時)本土に一番近い島です。
ここにいるとき、玉音放送を聞くことになったんですね。
部隊の中には悲しみに暮れるものもいたでしょうが、全体の雰囲気としては「やった!戦争が終わった!これで俺たちは帰れるんだ!」という明るいものだったようです。
あとは日本本土に帰るだけ…という緩い空気感の中、兵士たちは夜な夜な宴会をしていました。
敵軍に武器を奪われるのも癪なので、全ての武器・装備は半分くらい破棄してしまっていたようです。
終戦のほんの数日前、一方的に日ソ中立条約を破棄して宣戦布告してきたソ連のことは少し気にしていましたが、戦争はもう終わっています。
今、銃を撃つことは天皇命令ではなくただの犯罪になってしまいます。
そのため、戦うことのできない兵士たちはもう「帰ったら何をしよう」というワクワクでいっぱいでした。

…という夜を過ごしていた8月18日午前2時ごろ。
砲撃の大轟音と共に日本兵たちは目覚めます。
ソ連の軍艦が、奇襲を仕掛けてきました。
こちらの武器は半分くらいしか残ってません。
兵士たちは数時間前まで飲んだくれてました。
そもそも戦争終わってます。戦えないのです。
そんな中、樋口中将は兵士たちに告げました。

「ここは撤退し、後に反撃に出る赤穂浪士となるか、今まさにこの場で戦わんとする白虎隊となるか。白虎隊たるものは前へ出よ!」

先ほどまで飲んだくれていた兵士たちも、全員前へ出たと言います。

「断乎、反撃せよ!!」

樋口中将の号令のもと、もはや日本兵でもない戦士たちはソ連軍の上陸を阻止するため海岸へ走りました。

この時代の教育や常識とされていたことに思考停止で従うことをせず、自分が正しいと思った道を突き進んだ人がいたことに、私は驚きを隠せませんでした。
すごい。こんな人がいたんだ。
「大本営の命令を無視するんですか!?」
「別に今回が初めてじゃない」
なんてやりとりがあったかどうかは知りませんが(笑)ソリッドスネークの声で脳内再生されてしまいました。

奇襲を受けて不利な立場にあったはずの日本側ですが、戦闘においてはソ連軍を大いに苦しめました。
仕掛けた側であるはずのソ連が日本政府に戦闘を止めるよう命令してくれと泣きつき、武器も少なく補給も不可能な現状を考え、停戦するよう命令を出しました。
結果、戦闘では優勢だったものの全員が降伏するということに。
占守島にいた元日本兵たちの多くはシベリアへ送られることになりました。

もし、この時。
樋口さんがソ連軍を前に撤退の選択をしていたら。
もし白虎隊として戦うも、ソ連軍に全滅させられていたら。
ひょっとすると、日本は今と違う領土になっていたかもしれません。
ソ連崩壊後に発見された資料によると、当時ソ連は留萌〜釧路を結ぶ線から北をソ連領とするつもりだったようです。

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また、もし侵攻が上手くいけば東北地方まで占領する予定だったとも言います。
つまり、朝鮮半島のように、日本も南北分断の国家になっていた可能性があったのです。

今、北海道が日本の領土としてあるのは、この時の樋口中将とその部隊全員のおかげと言っていいでしょう。

<おまけの武勇伝 樋口を救え>

戦後、札幌へ住んでいた樋口さんについて、後日談があります。
ソ連側は、樋口を戦争犯罪者として極東裁判で裁くよう動きました。
しかしその動きを全力で阻止してくれたのが、武勇伝・壱で救われたアメリカにいるユダヤ人たちだったのです。
彼らはヒグチ・ルートで救われた恩返しと言わんばかりに、全世界に分散しているユダヤ人たちに連絡を取り、世界ユダヤ人会議がGHQに樋口の解放を求めるまでになりました。
これを受けGHQはソ連側の樋口の身柄引き渡し要求を拒否します。
その後、1970年に82歳で亡くなるまで樋口さんは日本で生きていました。
戦後はアッツ島で玉砕(全滅)した仲間たちへの慰霊活動を行なっていたそうです。
毎朝、アッツ島の絵の前で手を合わせる樋口さんを、彼の孫が見ています。

そして時は流れ、2020年。
北海道札幌市の隣、石狩市にて樋口季一郎記念館がオープンしました!
どうやら石狩市に石蔵を持っていた方が樋口中将の武勇伝を聞き、それなら自分のとこの蔵を記念館にしちゃおう!という流れで出来たようですね。

https://twitter.com/Dpv4QFyEbJyYDzB?s=20&t=F6OTZDS2BlZIG2j6QDnHhQ


自分はまだ行けてないので、近いうちに行こうと思います。
お墓は神奈川のお寺にあるようなので、今度観光でもしに神奈川県行こうと思います。
お墓に手を合わせるのは供養というよりは「ご先祖様のおかげで今があります。ありがとう。」という気持ちで参るものだ、とオカルト仲間から聞いたことがあります。
北海道で生まれ育った自分としては、手を合わせずにはいられない人物だなと感じました。

長々とした記事になってしまいましたが、樋口季一郎についてまとめてあるYouTube動画もあります。気になった方は是非ご覧ください。
そして北海道在住の方。記念館、行ってみませんか?(^^)

それではまた!

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