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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」04   鄭承博(チョン・スンバク)(その3)

鄭承博──差別を跳ね返し淡路島の文化人として生きた歴史の証人(その3)

林浩治

(その2)からのつづき

3)日本に渡って逃亡生活が始まる


鄭承博はわずか9歳で単身日本に渡航した。

承博少年は父の牛を売り払って得た金と叔父からの手紙を握って日本へ向かった。1933年8月ようやく和歌山県田辺市に到着する。

やっとのことで富田川上流の飯場で土木工事の飯場頭をしていた叔父に辿り着き、工事現場で炊事係として働いた。このときの体験は後に「富田川」「山と川」などに描かれたが、特に「山と川」によく書かれたように、朝鮮人飯場は日本人村民たちに嫌われ、承博少年も泥棒扱いされたり酷い目にあっている。

だが翌年には鮎川尋常小学校3年生に編入し学校では「テーヤン」と呼ばれ成績も優秀だった。
しかし1学期間だけの通学だった。なぜなら富田川の氾濫で叔父の請け負った堤防補強工事が流失してしまい倒産、承博は叔父とは別れ別れに人夫たちに付いて夜逃げしたのだった。
ここから鄭承博の逃亡の人生が始まった。

その後、承博は串本で清掃夫として働いていたが、逮捕された叔父が出所して承博を迎えにくる。ところが、すぐに田辺市元町の農家に身売り同然に預けられた。1935年秋のことだ。

鄭承博は幼児期から百姓仕事には慣れていたので野良仕事は嫌でなかった。農家の人たちはそこそこ親切で仕事も教えてくれた。盆と正月には賃金として15円くれた。
ここで働いているときに盧溝橋事件(1937年7月7日)が起こり日中戦争が全面化する。戦争が拡大し軍人が幅をきかせる世の中になっていった。

鄭承博は朝鮮人であるために在郷軍人に怒鳴られて引きずられ、炊事場の隅で犬用の器に入れられた飯を食わされるような経験をして、「金で売られてきた」という気持を強くしていった。


「富田川」「山と川」所収の『鄭承博著作集 第1巻 裸の捕虜』新幹社、1995年

(その4)へつづく

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