林浩治「在日朝鮮人作家列伝」07 李恢成(りかいせい/イ・フェソン)(その6)
←李恢成(その5)からのつづき
←マガジン 林浩治「在日朝鮮人作家列伝」トップ
←林浩治「在日朝鮮人作家列伝」総目次
←けいこう舎マガジンHOME
李 恢成──日本文学に斬り込んだ在日朝鮮人作家のスター(その6)
6.群像新人文学賞受賞
1967年1月、朝鮮新報社を退社、朝鮮総連を離脱した。そのため古い朝鮮人寮から出て行かなければならず、松戸三丁目のアパートを借りた。
大学時代の友人を訪ねて仕事を探し、履歴をごまかし日本名を使って広告代理店や経済誌に勤めたが、やりきれない空虚な気分だった。
信じていた場所を信じられなくなり、職を失い収入がなくなり、しがみついた仕事になじめず、李恢成は書くしかなかった。
しかし大学時代から朝鮮人として朝鮮語で生きる努力をしてきた李恢成は、日本語の訓練を怠り、日本文学からも眼をそらしていた。日本語は難関だった。
李恢成は辛く虚しい仕事を終えると、松戸のアパートに帰って原稿用紙に向かったが日本語が凍ったまま溶けてこなかった。
それでも必死で250枚の小説「趙家の憂鬱」を書き上げ、締め切り日前日の夕方講談社に直接持参して、群像新人文学賞に応募した。
これが翌1969年6月、第12回群像新人文学賞を受賞した。家族の変遷を書くこと自体が憂鬱で、このタイトルしか浮かばなかったが、受賞決定後編集者の橋中雄二の助言によって「またふたたびの道」と変えた。李恢成34歳の春だった。
「またふたたびの道」は李恢成が数年前の自身をモデルとした哲午を主人公として書いた小説で、父が死んで数年後、父の後妻である義母が結婚するという知らせが届く。哲午は戦後カラフトから逃れた少年期の体験を思い出し、兄たちや義母の住む北海道に向かう。
続いて書いた「われら青春の途上にて」が、第62回芥川賞(昭和44年/1969年下期)の候補入り、その後「証人のいない光景」「伽倻子のために」「青丘の宿」が第63回から65回の同賞候補に入った。作家としては満帆の出だしと言える。
←マガジン 林浩治「在日朝鮮人作家列伝」トップ
←林浩治「在日朝鮮人作家列伝」総目次
←けいこう舎マガジンHOME
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。
◆参考文献
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?