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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」06 高史明(コ・サミョン) (その2)

*↑写真 :操業開始時の彦島造船所(1914年)(詳細ページ末に)

(その1)からのつづき
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高史明──
暴力と愛、そして文学
―パンチョッパリとして生きた (その2)


2)小学生金天三キムチョンサム少年


 尋常小学校1年生の頃、父が朝鮮へ墓参り帰郷を決断し、天三兄弟をつれて関釜連絡船に乗った。
金海キメの田舎に牛車にゆられて、洛東江を見下ろす小高い丘の上にある母方の祖母の家に着いた。滞在一週間で日本に戻った。

関釜連絡船航路



 その後、父が首を吊る事件が起きたが紐をかけた天井が脆くて落ちてきた。
兄弟は日本語だけを身につけていき、父が朝鮮語でなにか話しかけても理解できなくなっていった。

 3年生のとき造船所の拡張工事に伴って住み慣れた長屋を引き払い、同じ彦島の姫ノ水に引っ越した。父は長屋にはオンドルを造り、近くの湿地帯を水田に作って食糧難の時代を乗り越えた。

下関市彦島


 1941年4年生のとき、朝鮮人であることの自覚は日本人との衝突という形に表れた。キムチの入った弁当を臭いと馬鹿にされた。
「もう一度いってみろ! 朝鮮だって。朝鮮がどうした。ニンニクがどうした!」
天三は囃し立てた数人を机の蓋や拳で殴りつけ、笑った生徒や関係ない級長まで一列に並べて殴っていった。
 ことばの暴力に対して肉体の暴力で立ち向かった天三は、暴力に閉じ込められ暴力の奴隷となった。

 この年12月8日日本は真珠湾攻撃を決行し、日米が開戦した。
 1942年5年生の担任となった阪井石三先生に本名を名乗るように言われ衝突したが、以来本名の日本語読み「キンテンサン」を名乗った。しかし阪井先生は5年生終了前に姿を消してしまった。

 1944年、兄が進学させてもらえなかった高等小学校へ入学した。本名を名乗った朝鮮人は天三ひとりだった。そのため朝礼で整列しているとき、床掃除しているとき、廊下を歩いているときなど通りすがりに教師から殴られるようになった。

 高等小学校1年の一学期が終わると学徒動員され、造船所の鋳物工場でくず鉄やコークスの運搬をさせられた。嫌気がさして皆で脱走したことが大事件となり、その後は殴打と正座が日課となった。

(その3)へつづく

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◆参考文献

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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権と地図の著作権はけいこう舎にあります。
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ヘッダー写真:操業開始時の彦島造船所(1914年)
ソース:三菱重工業(株)『海に陸にそして宇宙へ : 続三菱重工業社史 1964-1989』(1990.04)
著作者:三菱重工業株式会社社史編さん委員会編  パブリックドメイン
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MHI_Hikojima_Shipyard_%26_Machinery_Works_in_1914.png  より


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